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後三ヶ月後。 志萬安吾、沖野真夜子は――東入りする。
喋る猫と犬を見つけたと大喜びしていた。 神秘だ何だと喚き散らしていた次の瞬間、呆気なく三郎の首は――――吹っ飛んでいた。 薬を煽り狂い果てた魔物の刃で首を刎ねられたのだ。 先程まで生きていたはずの三郎の首は、なぜか今の足許に転がっている。
首だ――まだ温かい生首という状況…、 これはに反射的に己の首筋にそっと手を触れさせるには充分すぎる要素だった。 しかし抜け目無く――白狐の手がの手首を掴んだ。
言われて初めて、そこでが自分の首に手を添えていた事を認識する。 血を浴びた白狐など――久方ぶりに見た気がした。
あれは自分達とは違う種類の魔物――自分達にとっても敵である、と。
噎せ返るほど懐かしき瘴気を撒き散らして、悪鬼浄阿弥は――蘇った。 白狐の目が血の躍動を滾らせていたのを、は見逃さなかった。 の心臓も、酷い速さで鼓動を打ち鳴らしていた。 嗚呼、浄阿弥が――今戻った。
先刻…一瞬だけ現れた浄阿弥の事を考えていた。 浄阿弥は何をするでも無く、すぐに再び三郎の身体に封じられた。
はやり忌まわしい名を授けられし女――)
愚かさに討ち死んだ鬼、育ての親――。 もまた――そんな鬼と同じ道を辿って死んだのだ。 は――狐に間違われたから死んだのではない。 は――…は――、
はっとして顔を上げれば、白狐の顔があった。 はすっかり浄阿弥の復活に動揺していた。 正直に言ってしまえば、この感情は――言い知れぬ期待、である。 待ち望んでいた黄泉還りは、事実に起こったのだ。 白狐とて同じ――否、それ以上に、思うことがあるのだろう。 ついぞ動揺など滅多にしない白狐の纏う瘴気は、 今はどこかざわついていて、落ち着かない物だった。
その手はの心臓だ――ああほら、こんなにもこの胸が締め付けられて、苦しくて悲しい。 伝わる熱が、に呼吸の仕方さえも忘れさせてしまう。 殺す気なのかとさえ思えてくる。
「――私は魔物よ。血くらい浴びるわ」 「浴びなくて良いんだ。浴びなくて――」
搾り出すように白狐は――紺之介は、口を開いた。
生け捕られるだけ――、やはりその手は、この躯を決して浸食してくれないというのか。 この人の一部には、なれぬというのか――。 無防備な私の庭に踏み込む事を、侵す事と――思っているのだ。 嗚呼――――。 報われない――――。
嗚呼―…ねえ、紺――。 浄阿弥と誓ったから私を護るの――?私は――、私は誰とも誓って無くてよ? 私が誓ったのは――」
誰かに誓ったから護ったんじゃない。
反射的にそれをはらうと、はゴビを――白狐の下を、逃げるように飛び出していた。 血塗れた手は、いつしかパリパリとしていて、夜の暗闇のせいで怖ろしくどす黒かった。 涙で前が見えないが、足だけは馬鹿のひとつ覚えの様に動いていた。
黄泉還った鬼の後始末でもしていたのだろうとすぐに察しは付いた。 だが――は逃げるようにここへ駆け込んできた事の説明にはならない。 叢雲の顔をみた途端、安堵したのか…真っ赤な目から更に涙を流した。 震える小さな肩を護るようにして、叢雲はを家に上げ、 落ち着くまで辛抱強くを慰めた。 ようやっとが落ち着いた頃、叢雲が訊くと、 は白狐の下へ帰りたくないと言う。
「え―…」
は大きな目を更に見開いていたが、徐々に顔を曇らせ、動揺を滲ませた。 叢雲は諭すように続ける。
「…なぜ?…なんでそんな事、仰るの?」
「ああ。言った事ァねえなあ。でもな。だから解るんだよ。 あのな、俺達ァのおしめ変えたんだぞ?――んな事くれえ解るさ」 「ッ、でも、紺は、」 「あいつは気付かねえ。 ――気付かねえフリを、しなくちゃなんねえと思ってる」
「気付いてるだろうな。 弁天(アイツ)は弁天(アイツ)で、紺に付き合って白切り通してるみてえだけどな」
「…―やっぱなー。
…ま、仮にもアイツは育ての親だしな。」
叢雲は冷たい灰皿に火を押し当て、まだ長いその煙草を手折った。
――紺のために、死んだんだろ?」
駄目だ――いけない――。
何もかもが見透かされている。
今宵ほど強く、偽りを解きほぐす月狼の優しい牙を、
恨めしく思ったことは無かった。
「愛してるだろ」
「…――、一人の娘として…ね」
「一人の女として、だ。紺はおめえを愛してるんだよ」
「え…?」
…――安心しな。が蘇ったときの紺の目――ありゃあ…恋焦がれる目だ」
「…こ、い…」
てめえにゃ全然似合わねえって、昔から紺に散々言われてんだろうが」
「…さっきも言われたわ」
「だろうな…あいつは嫌いなんだよ―が穢れるのが」
「…――本当に…、紺之介という人は、反面教師ね。
自分はとくと血を浴び、いつも女の肌の匂いばかりさせて帰ってきてたのに――」
「…ああ…志萬――夢、ね」
だが叢雲はそんな言葉をかき消すように、
ほら風呂だ風呂、とを小脇に抱えてバスルームに放り込んだ。
そんな事――あるはずが無い。
例え紺之介が、血の繋がらない愛娘に想いを寄せていたとは言え、
紺之介が夢に狂ったのは――が一番良く知っているのだ――。
ぐちゃぐちゃだ――跡形も、無い――。
もう――考える事すらも億劫だった。
熱い湯で身を清め、この濁った思考全て――洗い流してしまわなくては――。
叢雲の優しさがひしひしと手に取るように感じられて、
は申し訳無さそうに笑うと、有り難くベッドを使わせてもらうことにした。
下したてのシーツからは、月の匂いがして――はひどく安心して、身体を弛緩させた。
ゆるゆるとまどろむ意識の狭間で、紺之介の事を思った。
多分叢雲んちには当たり前のように弁天の寝巻きが置いてあります。
20090928 呱々音 |