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目が覚めたとき、一瞬自分が何処にいるのかを思い出せなかった。 薄ぼんやりとした頭が――少しずつ意識を取り戻す。 昨晩の、目まぐるしくも切ない出来事を思い出し、は絶句する思いだった。
湘南で海の家始めたぜ」
少し遅めの朝食用に出されたトーストとフルーツを咀嚼しながら、 も事も無げに返した。
「俺は2、3用事があるんでな。そっちが片付かねえ限りはなんとも言えねえなあ」 「…―ここに…居ても良い?」
意気地の無い子供のような態度で頼んでいる自分が、恥かしかったから。 叢雲は何か考えるようにしばらく黙っていたが、ふっと表情を綻ばせて、当たり前ぇだと笑った。
叢雲だって――そうだろう。 解っていても――。 解っていてもこれは――一人ではどうする事も叶わない事なのだ――。
は叢雲の人となりを表すような書棚から、本やDVDを引っ張り出しては観る――、 日がなそんな風にして過ごした。 どれくらいの時間をそうやってやり過ごしたのか解らなかった。 だから叢雲が帰ってきて初めて、時間という物を認識する程である。 それ程に、の中には切なさが充満していた。 海の家と言っていた――つまり白狐はゴビには居ないのだろう。 それでも何となくあの場所に戻る事が後ろめたく思えて、は躊躇っていたのだった。 何か目に見えない物を埋めるように、は映画を流し続けた。 しかしそれをちゃんと観ていたのかは――甚だ怪しいものである。 今のはこんなにも外部からの刺激を怖れているのに――。 ほんの少しの間でも良い――雑念を閉ざして楽になりたかったのだ。 ふいに――とても唐突なタイミングで叢雲が帰ってきた。 ぼんやりとしていたが気付いた時には、 半ば強引に映画は消され、叢雲に手首を掴まれていた。
「、え」 「しっかりしろよ。こっちも色々解ったんだ。湘南が危ねえ。 瘴気が動いてやがる――それにこりゃあ…、 …お前にとっちゃ懐かしい瘴気じゃねのか?」
狐が――高笑っているわ」
様々な瘴気が…しかも決して下等ではないそれが、入り乱れ、交錯している。 近づくほどに噎せ返る、肺を満たす狂気の馨。 だが――懐かしい――。 この懐かしさを喜んで良いものなのか、はたまた悲しむべきものなのか、 皆目検討も付かなかったが、腹の底が疼く瘴気も混ざっている。 雑然とした空気から紺之介の瘴気を嗅ぎ取るだけでも、少々難儀であった。
「あ?」 「あ…!」 「…!…ああ――…そういう事かよクソ…ったく、…世話の焼ける馬鹿どもだぜ全く!!」
の息を止めてしまう、狐の毳に漂う惑わしの瘴気――。 一瞬が戸惑うように目を彷徨わせたのを、叢雲は見逃さなかった。
避けててもしょうがねえが――九尾の狐になった紺之介
――考える――。 そう――考え…、なくては…。 考えなくてはならない。 避けてきたのだから。 向き合わなくては。 逃げてきたのだから。 私は――継父に恋心を懐いたのだ。 生れ落ちた時、死ね喰われろと言い渡された無力な赤子を、 酔狂か道楽か――掬い上げてくれたあの腕――。 慈しみの眼で、いつだって護ってくれたあの腕――。 あの腕に――あの腕に捕らわれてしまったのだ…。 幼心に、この想いが心を浸食して行くのがひしひしと解った。 心地よい蝕みは成長とともに無残に腫れあがる。 世の物すべてを諭してくれた人の優しい牙に、 時に傷を癒され、時に傷を与えられ――それでも蠱惑する甘い想い。
決して許されぬ、世迷言――。
狐には想い人がいると…散々良い聞かされてきたから―…。 苦しめるくらいなら、言わぬが花であるから。 桜は桜――。 花らしく――秘したまま…――紺之介のために清く散ろうと――…。 そして――――散ったのだ。 紺之介の愛でた桜は、あの刻、死んだのだ。 では黄泉帰った自分は――一体紺之介の何なのだ――? 眠りの果てに神木となり、あれだけ好んだ、狐と同じ匂いまで棄てて。 愛らしき容姿は…女の形になって――…。 もう紺之介の子ではいられないのに。 あの腕が自分に熱を分け与えてくれる事は叶わないのに。 そこに期待した自分を呪えたらどんなに楽だったか。 嗚呼――苦しい、息がつまる――、 手足が――縮こまる――、 ――恐ろしい――。
20090928 呱々音 |