目が覚めたとき、一瞬自分が何処にいるのかを思い出せなかった。

薄ぼんやりとした頭が――少しずつ意識を取り戻す。

昨晩の、目まぐるしくも切ない出来事を思い出し、は絶句する思いだった。




(――帰りたくない…。紺に…会いたくない…――)






「安心しな。紺之介(向こう)も逃げた。

 湘南で海の家始めたぜ」



叢雲はコーヒーを啜りながら、何でもない事の様に言った。

少し遅めの朝食用に出されたトーストとフルーツを咀嚼しながら、

も事も無げに返した。



「…酔狂ね――叢雲も行かれるの?」

「俺は2、3用事があるんでな。そっちが片付かねえ限りはなんとも言えねえなあ」

「…―ここに…居ても良い?」



目も合わせられなかった。

意気地の無い子供のような態度で頼んでいる自分が、恥かしかったから。

叢雲は何か考えるようにしばらく黙っていたが、ふっと表情を綻ばせて、当たり前ぇだと笑った。




甘えているのは、よく解っている。

叢雲だって――そうだろう。

解っていても――。

解っていてもこれは――一人ではどうする事も叶わない事なのだ――。
















   ・ ・ ・














家の物は何でも好きに使っていいと言われ、

は叢雲の人となりを表すような書棚から、本やDVDを引っ張り出しては観る――、

日がなそんな風にして過ごした。

どれくらいの時間をそうやってやり過ごしたのか解らなかった。

だから叢雲が帰ってきて初めて、時間という物を認識する程である。

それ程に、の中には切なさが充満していた。

海の家と言っていた――つまり白狐はゴビには居ないのだろう。

それでも何となくあの場所に戻る事が後ろめたく思えて、は躊躇っていたのだった。

何か目に見えない物を埋めるように、は映画を流し続けた。

しかしそれをちゃんと観ていたのかは――甚だ怪しいものである。

今のはこんなにも外部からの刺激を怖れているのに――。

ほんの少しの間でも良い――雑念を閉ざして楽になりたかったのだ。

ふいに――とても唐突なタイミングで叢雲が帰ってきた。

ぼんやりとしていたが気付いた時には、

半ば強引に映画は消され、叢雲に手首を掴まれていた。



「オイッ!行くぞ!」

「、え」

「しっかりしろよ。こっちも色々解ったんだ。湘南が危ねえ。

 瘴気が動いてやがる――それにこりゃあ…、

 …お前にとっちゃ懐かしい瘴気じゃねのか?」




――瘴、気――?


――これは…嗚呼…そうであったか――




「…―紺、――九尾の、狐…」



一気に意識の意図を手繰り寄せ、の目には―親譲りの―魔物らしい光がぎらりと宿った。



「…――行きましょう叢雲。

 狐が――高笑っているわ」
















   ・ ・ ・














酷い瘴気だ。



は率直にそう感じた。

様々な瘴気が…しかも決して下等ではないそれが、入り乱れ、交錯している。

近づくほどに噎せ返る、肺を満たす狂気の馨。

だが――懐かしい――。

この懐かしさを喜んで良いものなのか、はたまた悲しむべきものなのか、

皆目検討も付かなかったが、腹の底が疼く瘴気も混ざっている。

雑然とした空気から紺之介の瘴気を嗅ぎ取るだけでも、少々難儀であった。



「――愚れ者がたくさんいるわね――…、…――あ」

「あ?」

「あ…!」

「…!…ああ――…そういう事かよクソ…ったく、…世話の焼ける馬鹿どもだぜ全く!!」



嗅ぎ慣れた愛しい馨が容赦なく鼻を、(はな)を――浸食してゆく。

の息を止めてしまう、狐の毳に漂う惑わしの瘴気――。

一瞬が戸惑うように目を彷徨わせたのを、叢雲は見逃さなかった。



「…、お前はここで待ってろ。10分待て――何なら結界張って、そこで考えてろ。

 避けててもしょうがねえが――九尾の狐になった紺之介(・・・)に会って――」



――辛い思いするなら帰れ――



叢雲はそれだけ言い残し、颯爽と風を切って行った。






考える――?

――考える――。

そう――考え…、なくては…。

考えなくてはならない。

避けてきたのだから。

向き合わなくては。

逃げてきたのだから。

私は――継父に恋心を懐いたのだ。

生れ落ちた時、死ね喰われろと言い渡された無力な赤子を、

酔狂か道楽か――掬い上げてくれたあの腕――。

慈しみの眼で、いつだって護ってくれたあの腕――。

あの腕に――あの腕に捕らわれてしまったのだ…。

幼心に、この想いが心を浸食して行くのがひしひしと解った。

心地よい蝕みは成長とともに無残に腫れあがる。

世の物すべてを諭してくれた人の優しい牙に、

時に傷を癒され、時に傷を与えられ――それでも蠱惑する甘い想い。



この恋は――“呪”だ――。

決して許されぬ、世迷言――。



この憐れな想いは、墓の下まで持って行こうとそう決めたから―…、

狐には想い人がいると…散々良い聞かされてきたから―…。

苦しめるくらいなら、言わぬが花であるから。

桜は桜――。

花らしく――秘したまま…――紺之介のために清く散ろうと――…。

そして――――散ったのだ。

紺之介の愛でた桜は、あの刻、死んだのだ。

では黄泉帰った自分は――一体紺之介の何なのだ――?

眠りの果てに神木となり、あれだけ好んだ、狐と同じ匂いまで棄てて。

愛らしき容姿は…女の形になって――…。

もう紺之介の子ではいられないのに。

あの腕が自分に熱を分け与えてくれる事は叶わないのに。

そこに期待した自分を呪えたらどんなに楽だったか。

嗚呼――苦しい、息がつまる――、

手足が――縮こまる――、

――恐ろしい――。




――助けて頂戴―…紺之介―…。


























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20090928 呱々音