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“九尾の狐は人を喰うことも殺生もやめ隠居したらしい”
髪は薄紫色、華奢な身体に出鱈目な服を着ている男は、相変わらず喰えない顔をしている。 この店主こそ――魔物界隈で『ご隠居』と化した九尾の狐紺之介――その人である。 ただし今は、白狐――と、そう…名乗っているが。 人の形に身を成してあれより500年…。 つまりそれは、鬼と桜を喪ってからの――…悠久の、虚空。 白狐の内には、確かに九尾の狐が息衝いている。 たが狐はまだその刻では無いと尾を撓らせて、 獲物が穴へ迷い込み、更には傷が癒えるのを唯只管に待っているのだ――。 ちりりと、耳に開けた穴が傷んだ――気がした。 場所を変え素性を変え、それでも死する事なく500年分の時代を共に歩んできたのは 同じ様に人間社会に馴染み入った、あの頃よりの旧友どもであった。
そう言って電話を切られてもうかれこれ2時間は経つ…。 鈍も…膝の上で健やかに眠っている。 巷の少年少女達は健全に学校へ通っている時間帯であるし、 サラリーを貰う連中――月狼警部は鼻を利かせて熱心に仕事をしている――はずだ。 こんな時間に暇持て余して何とやら。 そんなのは日が暮れてからおぜぜを稼ぐ、居酒屋店主の弁天と…ゴビの店長白狐くらいであろう。 世間は花見の季節、真只中。 あんなに好んだ花見も、桜が死んだあの日以来、一度も嗜む事はしなかった。
狐にとっては少しだけ辛い季節――。 ふいにイヌ科の鼻に、くん…と瘴気が香って、弁天がもう近くまで来ている事が知れた。
そこにはやはり――弁天と…叢雲の姿があった。
「ホントにね。待たせすぎだよ、弁天」 「言うほど仕事してねぇだろォがてめえは」
事を判別し兼ねている――詮索する、その目付き。
「あー。さすがの俺も?最初はビビったけどな。 まあ…半信半疑だったんだけど。 とりあえず身元引受人っつーことで、 白狐にバッチリサプライズ仕掛けてやったぜ。ざまあみやがれ」
白狐はどうにも調子が狂った。
さらりとふわりと空気が揺れる――。 この甘やいだ春の季節にあって、更に甘く蠱惑的に薫る其れは――
「……――――…?」
「…」
嗚呼再び桜が――戻ったのだ。
艶やかな髪も、湖水の瞳も、琥珀の肌も、嗚呼――背丈とて、あの頃の愛らしきままよ。 ただ微細に違う事は――大人び、更に美しくなったが纏う、甘い桜の――。
唇に押し当てると、上目で呟いた。 その様を懐かしげに眺めながら、ああそれは…と桜が微笑む。
五百の年月を費やして、私は神木に成ったのよ」
の本体となる桜がどこに在るのかは、結局解らず仕舞いであった。 流浪のような身で生まれたに等しかった。 だからと言って、無下に葬ってやるのも偲ばれる。 結果、沖野家の庭に植わる壮麗な神木桜――その下がの塚となった。 塚に納められ、死して川を臨む意識の中で、は神木桜の精と初めて言葉を交わした。 はそうして死ぬまで、一度も同族に出会ったことがなかった。 天女とも母とも言い表せない――とても温かな声音がけが、意識にこだました。 輪廻できるのかもわからぬ悠久の死の眠り――。 神木は無知で憐れな娘に桜という一族の話をしてくれた。 どうやら桜の精の一族は、なぜか古より人間の男に惚れやすいのだという。 恋に狂い咲き、儚く散ってゆく――だから身の破滅を起こしやすい。 ただでさえ女しか生まれぬ一族――。 子孫繁栄してこそ受け継がれる系譜である。 魔物は魔物同士で交わってこその血の濃さよ。
人の男に純潔を呉れず、更には清い身であるとお識りになった。 既にその時、御神木様は齢の限界に差し掛かってらした。 そして人の男に惑い、衰微してゆくだけの儚い一族を憂い、嘆いてらした。 強かに塚に眠る私に、御神木様は仰った」
そして再び目醒めた時、朽ち饐えた私に代わり、 そなたは高潔なる一族の長となる、誠の神木とお成りなさい』
弁天が志萬と聞いてぎらりと目を光らせて上等だと吼える。 叢雲はそんなやんちゃ坊主をめんどくさそうに一瞥して、 煙草をふかしながら口を開いた。
ああ…あとあの――九条って中坊もだな」 「くじょう?」
「そーかぁ?アイツなんかまだ遊んでる方だと思うけど」
ちょこんと自分の膝で眠る斬輪具人形の頭を優しく撫ぜていた。
「おう。なんでも言ってみ」 「お店で雇って下さらない?募集してたでしょ、アルバイト」 「おー就業意欲があるだけ立派だな。さすがってトコか。 俺は全ッ然構わないけど。紺は?いいの?ゴビ」
「あらそう?じゃあ決めたわ?紺のお店は手伝って、弁天のお店で働くの」
ちゃんと働けば出すもん出す、と言ってを小突いて眩しく笑った。
とりあえずは明日からな。今晩は――ゆっくり休みな」
……あと鈍。…上、連れてくな。手伝ってもらいたい事もあるし」
気を、使ってくれたのだろう。 この空間で動きを持つものは、煙管から伸びる、一筋の紫煙だけ――。 手を伸ばせば隣に居る――どれ程待ち侘びた感覚か。 おそらく、きっと、互いにそう感じているに違いない。 この静寂な緊張で満ちた空気を壊したくない、と思った。 無言の張り詰める…しかしどこか心地よい、懐かしい、互いの香り。 満たされた、沈黙。
困ったような泣きそうな顔で――眼差しを向けて、哀しげに薄く微笑んでいた。 が纏っていた全ての緊張が、今――崩壊する。 堰を切ったように、その大きな瞳から止め処なく涙を溢れさせ、 白狐の――紺之介の胸に縋って、嗚咽した。 その頭を至極大切そうに抱きとめて、あやすように慰めるように、そっと撫ぜてやる。 少しでもが安息を実感できるように――。
「違う。そうではないわ。そんなこと問題じゃなくてよ」
同じ刺青と瘴気を纏ったばっかりに――
種も血も越えてね――?私はそれが…とても、嬉しかった。 ねえ――だからそんなことは、問題では無いのよ」
真白の尻尾にぬくぬくと包まれながら、紺之介の薄紫色の髪を指に絡めて、 そうしてようやく安堵して眠りに就くのをとても好んだ。 だからこそ紺之介が不在の夜は――息を潜めて起きていることもざらでった。 浮かぶ月に語りかけ、瞬く星に名を付け、おぼろげな恐怖に負けぬようにと涙を拭う。 呟くようにそっと祈るのだ。
我が侭に育った訳では決して無い。 注げる物は全て注ぎ、教えてやれる事は全て教え育てられた。 愛情を一身に受けたが故に、は魔物の中にあっても、 一際優しき心を持つ乙女――、それは慈しみの、桜の、心。 狐の褥に忍び込み、その小さな身をさらに小さく丸めて、 月明かりにぽつねんと身を横たえるの姿を見つけると…紺之介はいつもその形良い頭を優しく撫でてくれる。 その手首から漂う甘やかな香りは――紺之介の香りでは無い。 紺之介はの知らぬ匂いを纏って戻るくせに、 幼心になぜかそれが嫌な匂いでは無いから不思議であった。 母を知らぬからか――女という存在に憧れを懐いて育ってきたせいやもしれぬ。 時折させる血の匂いなどよりも…―よっぽどマシであったし、心地がよかった。 まどろんで意識を手放す頃、いつも紺之介の着物の合わせ目が頬に当たるのが解る。 そうして溺れる安堵の夢の縁。 温かな尻尾と、柔らかな髪と――力強くて優しい腕に、包まれる夢――。
だが目の前には――確かに狐が――白狐が、いた。 寝て居る時でさえどこか喰えない表情をして、すやすやと寝息を立てている。 優しい…―優しいその腕は、やはりの肩をそっと抱き締めていた。
20090927 呱々音 |