憐れ乳飲み子。

狐の穴に堕ちるは――誰ぞ意志か――。























600年より更に前の噺――。

妖怪鬼畜に恐れを生した人間は九尾の狐が住む穴へ――贄を奉げた。

邪狐と悪鬼が若く柔らかな肉を好んで食むのだと、人間どもは信じている。

贄とは――名ばかりであった。

生まれたばかりのこの乳子は、身体の弱い母親に先立たれ、

持て余した村人に見放された―…。

火を見るより明らかであった。

乱暴に放り棄てられた赤子は、打ち所が悪かったらしく、けたたましく泣き声をあげていた。

眠りを妨げられた事に立腹しながら、鬼――浄阿弥――は、

泣き声の主の顔を拝んでやろうと穴深く設えた褥から気怠そうに出てきた。

すると既にそこには、穴蔵の主である九尾の狐――紺之介――の姿があった。

狐の蒼い目は何を思うわけでもなく、ただ淡白に、母をせがんで泣き続ける、乳子を見つめていた。

浄阿弥は、その様を見ると取るに足らない軽蔑を込め、

誰とも無い相手――強いて言うのならば人間――に向かって悪言を吐いた。



「…―こんな赤子でも、要らなくなれば平気で棄てる」

「浄阿弥――よもや今のは…――同情かえ?」



狐はふっと目を笑わせ、地べたに転がされた乳子を抱き上げた。



「そらそら」



酔狂か気紛れか――、人々に九尾と畏れられる狐は、柔らかな己の尾で包むように抱くと、

幼い赤子をあやし出した。



「子や、泣かずともよい――我らはそなたを食べたりは、せぬ」



浄阿弥はまだ愚図るその小さな乳子を見つめると、首を傾げ――。

ふと思い当たったように、銀の目を微か見開いた。



「…――まさか、……血」

「ほう。そなたも気付いたか――そうじゃ、この子が纏うは瘴気じゃ――。

 微かじゃがのう…、ついぞ珍しき事じゃ。

 はて――母親は―…ややこしい呪いでも掛けられたかのう?」



瘴気を持つものは殺せない。

微細でも持ちえれば――それは魔物。

だが本来ならば、そこには選ぶ余地という物が用意されている。

人と暮らせば人になり、魔物と暮らせば――魔物となる。



「…―憐れ子や。天命と思い…魔物と成るがよい」



乳子は、真っ直ぐ垂れた狐の薄紫色の髪を、指に絡めて玩ぶと、

ようやっと泣くのを止め――愛らしく微笑んだ。
















紺之介は――子をと名付けた。

魔の物の天骨か――稚児は――美しい、娘となった。

匂い立つ麗しさは、柔らかな毒。

雲雀の声は、甘美な誘い。

魔物となった彼女が纏うは――桜の薫りであった。
















   ・ ・ ・














「五十を過ぎたんだ。彫ってもらえ」



浄阿弥は言いつけた。



「…―そうではなく…私は痛むのかと聞いたのです」



と浄阿弥の問答は、大概答えの導き出される類のものでは無い。

晩秋の月に枡を傾けながら、浄阿弥はの訴えを無視した。

同じく枡を傾けていた紺之介がそれを見て、愉快そうに言った。



。そなたの真白の肌に創を付けるのは、確かにちと気が引けるがのう。

 安心せい。痛みは無い――そなたの肌に棲むモノが、自ずと姿を現すだけじゃ」



諭すような口振りでそう言うと、紺之介はの頭をつっと撫でた。

はそれを甘んじて受け入れ、こそばゆそうにはにかんだ。



「私も紺の胡蝶ように美しい刺青を彫って貰えるかしら」

「按ずるな。ならば止ん事無き墨となるよな」



は満ち足りて笑った。

血の繋がりこそ無いが、浄阿弥、弁天、叢雲――特に紺之介は、をまるで我が子かそれ以上に、

蝶よ花よと愛で、大切に育ててきた。

血族では無いが故の絆、とでもいうのか―…。

とにかく、目に入れても痛くないというのは正にこの事である。

魔の道を教え、魔の理を諭す。

四巨頭という存在を、親とも師とも仰いで育ったは、

齢五十にして冴えたる手練ぶりを遺憾なく発揮し始めていた。



「…―桐壺様はお美しい方でらっしゃるから」

「ああ、そうだったな。おいキツネ」「紺…くれぐれも」

「誘惑するな」「なさらないでね」



こんな類の事だけは、浄阿弥との息がぴたりと合うのだから――。

先手を打たれ、目を丸くした紺之介は、わざとらしく拗ねたフリをして見せた。



「紺は善い歳をして、落ち着きが無さすぎてよ――。

 それだけがの心配事―…。全く――育ての親の下の世話をする身にも、」

「あー…すまぬがちと語弊があるからその言い方は止めてくれんかのう」

「お盛んなのは結構だけれど…少々おいたが過ぎますわ」

「つれないのう」











翌日、の白肌に呼ばれるように、桐壺は狐の穴蔵

―穴蔵とは言っても住み良いようにそれはもう結構な造りになっているのだが…―

に馳せ参じた。

まだ墨染めの為されていないの姿を認めると、

品定めするように身体の隅々まで目を光らせた。

しかし次の瞬間にはもう画が見えたらしい――、

愉しそうにの手を引くと、奥の室へと消えていった。











どれ程時間が経ったのか――随分と時間が掛かっている。

日が落ち始める頃になって、ようやく室から桐壺とが出てきた。

どちらも少々疲弊しているようだったが、一仕事終えた桐壺は満足気に一服し、

念願叶ったは真っ直ぐに紺之介に縋り付いて来た。



「紺――浄阿弥。とても立派に彫ってもらったの――見て頂戴」



そう言ってするりと晒された背中には――見事な白虎の図像が刺青されていた。

いくら才ある娘とは言え、未だか弱き齢には違いない――、

華奢なを護らんが如く、美しい虎は蒼い目を光らせ咆哮していた。



「…――ほう――…何と。あな麗しや――実に…見事な刺青じゃ」

「………?…―項にも彫ったのか」



浄阿弥が丁寧に項に掛かる髪を掃い除ければ、そこには――…。



「彫ったのだけれど――場所が場所だから、私には見えないの。

 桐壺様も面白がって教えてくれなくて―…ねえ、浄阿弥、教えてくださらない?」































「…――思いのほか…あいつらの精神的繋がりを見ちまったって訳ね」



遠巻きにと紺之介を見据えながら、弁天は笑った。

浄阿弥は応えるでもなく、黙々と酒を嗜んでいる。

平素あまり動揺する事も無い浄阿弥が、の項に掘られた刺青を目にして、

珍しく己の胸に小さな波風を感じたらしい…言わずとも察しが付いた。

その様子を見て――叢雲は困ったように笑った。



「まあ…紺之介は大喜びしてやがったけどな」



耳ぴこぴこさせて、と付け加えて。

あの日浄阿弥が見た、の項に彫られた図像、それは――胡蝶。

紛う事無き――紺之介と同じそれであった。

刺青は指紋と同じ――いくら血縁とて、紋の種が被る事はあれど、

紋の形が被る事はそうある事では無い。

にとって、親と師と慕う紺之介の存在が、いかに大きな物であるかを示していた。

当の本人たちはと言えば――庭の少し離れた所で―近くでやるな、煙い、と怒られた―

落ち葉を集めて焚きつけると、芋を投げ入れきゃっきゃきゃっきゃとはしゃいでいる。



「…ところでが桜の精の生まれ変わりって本当?」

「ああ。十中八九違えねえ。三輪山使って調べさせたんだ。

 …―の祖母にあたる女はな――山桜の花びらに埋もれて屍体で見つかったらしい」

「って事は…の母親も魔物?」



叢雲は煙管に火をつけてゆっくりと喫した。



「魔物の要素はあったんだろうがな。ただでさえ母親ァ人間に育てられてんだ。

 十四の若さで身籠って息引き取ってる――魔物の力が目覚めなくても…不思議なこたねえよ」

「ふーん…」



だとしたら―…下等ではあるが、とても高貴な血だ。

つまり、木には――樹齢があるから――。

山桜とは言え、千年以上御座す桜もあるのだ。

桜の精――その高貴な血が、尋常で無い瘴気を纏う前線も前線、

四巨頭に囲まれて着実に潜在している力を引き出しているのだから…。



「末恐ろしいな――……楽しみすぎて」











その晩も面白おかしくどんちゃん騒ぎと洒落込んで、

丑三つ時にはだけでなく弁天ですら丁度良い頃合になっていた。

布団を一枚敷いて、互いの額を付けて実に幸せそうな顔をして、

すやすやと寝息を立てている。



「…こうして見てるとあいつらァ兄妹みてえだな」

「姉妹の間違えだろ」



顔色一つ変えず、浄阿弥は吐き棄てた。



「そうよな。どちらかと言えば、浄阿弥、そなたの方がより兄っぽいしのう」



相変わらず食えない表情で、紺之介は愉快そうに言った。

叢雲も違えねぇと笑う。



「叢雲はの父親と言ったところかのう」



すると鬼は耳聡く――問うた。



「ではキツネ。貴様は一体、の――…何だ?」



狐は口元に笑みを湛えていたが、ふいに表情を作り忘れた――ようにも見えた。



「…――ふむ。鬼は面白い事を訊きよる」



薄く笑い、耳を瞬かせて――



「儂はの――…母親じゃ」



明朗に笑った。





















まだの襁(おしめ)が取れない頃、浄阿弥はよく縁側に寝転びながら、幼いをあやしていた。

鬼が子を食わずにあやしておる、と紺之介はよく大喜びしたものであった。

今も寝姿を見ればその頃の微笑ましい光景を思い出す――。

だがあれよりおよそ五十年。

明らかには、一人の固体――女性へと成長していた。

いつだったか――。

子が女へと形を変え始めた頃、平素、かような物事から、

一番遠そうな浄阿弥が、静かに紺之介に言った。



「…を泣かす犬畜生は全て消す」



紺之介は珍しく目を見開き――思案するまでも無く、頷いた。

そしてまるで反芻する事によって意味を理解するように…念をした。



「…そうじゃ。あれは我らの子よ。下賤からは一線引いてやろうぞ。

 護るのじゃ…――何があろうともの」











そう――何が――あろうとも――。











そうして更に五十の年が流れ――嗚呼刹那。


浄阿弥は夢に恋し、夢に溺れ、夢を愛し――死んだ。


浄阿弥が死んで間もなく――…も、死んだ。

鬼の墓を見舞う際に、狐に間違われて死んだのだ。

の纏う瘴気と、墨染めの胡蝶が――あまりにも紺之介のそれと――似ていたから―…。

狐は、血涙を絞り、悔いた。

凶祓いの刀の露と消えた鬼(とも)と桜(むすめ)――。

愛としい者の首を、二度も抱くはめになろうとは、嗚呼…憐れ狐は――人の姿と為る事を選んだ。











恋の想いを免れよう者



不死なる神にも一人もおるまい



とりつかれればただに狂い立つ。



“そなたが――――――黄泉還るまで”











世の表舞台、采配は人間に――託されて。
























表紙へ / 02






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しばしお付き合いくださいませ。

20090927 呱々音