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ガラスの向こう側は、分厚い雲に覆われたロンドンの寒空。 目に見える所は公爵家の土地なのだろう――。 広い邸宅に似つかわしく設計されたガラス張りのサンルームには、 籐椅子やガラスのテーブルを囲うように珍しい植物が植わり、 小さな噴水には赤い魚が泳いでいた。
イグニスは単純に――そう訊ねたのだった。
これではイグニスを拘束しているみたいで…―気が引けるわ」
お前も知っているだろう…私に契約は無用の産物だ。 私は自らの意志で、こうしてここに残ったているのだ」
しっかりと首まで留められていたブラウスのボタンを何個か外すと、 艶かしくも健全な白い首筋が露見する。 イグニスは彼女の肌に小さな罪悪を感じて、思わず目を反らした。 白絹の下に隠されていたのは…彼女が常々話に持ち出していた―… シャムロックの石が埋め込まれたペンダントだった。
ねえイグニス――、お解かりになるでしょう…? 例え目的は違えど、シャムロックの石はシャムロックの石。 貴方たち精霊人形の―…、いいえ。下手をすれば―…イグニス…、 貴方の鍵と…成り得てしまうかも知れないのよ…?」
そういう事…だったのか。 ――昨夜までのの言動を踏まえて考えるに――この娘は……、 愚かにも……私の身を……、案じているのだろう――。
私は幼い頃から…あの呪わしい懺悔録を読み続けてきたの」
指先でそっと胸元のペンダントを撫でる。
主人を持たない存在――。 つまり…貴方は…誰の記憶にも、残らぬ存在――。 ――そんな哀しい事、他にあって…? イグニス孤独を想うと…私の涙は止まらなくなるのよ…」
イグニスの中の石が…―歳月を経てイグニス自身と同化…してしまう事も」
イグニスはこの同化を、シャムロックの予想外の出来事だと ずっとそう信じてきた。
この事を…、この…魂と、石が…同化してしまう事…を?――
否――そうではない――。 私こそが鍵なのだから――これは当然の事なのだ。 だからこそこうして孤独に生きる事が出来るのだ。 縛られず拘束されず、誰かに遣える事もせずに…。
他の誰でも無く…今はイグニスが一番、それを待ち望んでいた。
やはり私の我侭なのかしら…。 シャムロックの血筋に宿る力が、この石を貴方の鍵とした時――。 イグニスは……主人を持つ精霊人形となり、 そして全ての精霊人形が解放を望んだ刻…、 再び器から解き放たれ、精霊へと戻る…。 そして…願わくば、この家の呪いも断ち切られん事を。 …少女の頃からこんな愚かな事ばかり考えていた――。 私は…―間違っているのかもしれない…。 だからこそ私は…どうしてもイグニスに…貴方に会わなければいけなかった…、 貴方の気持ちを、確かめなくてはいけなかった…!」
しかも――孤独な執行者、イグニスを案じて――。 刹那、彼は愚かにも、の小さな肩に触れてやりたい衝動に駆られた。 拳を握りこみ、自分の浅薄さを、喉の奥へと捻じ込めた。
…私は懺悔録の中で孤独に生きる人形に心を捕らわれた、愚かな女…だと」 「…やめろ……。もういい……もう……充分だ」
気が付くと外は強い雨に打たれ、サンルームのガラスは泣いていた。 おそらく雨に打たれるそのガラスは冷たいのであろう…。 自分では冷たさすらも感じ取る事の出来ぬガラスに触れ、 もう何度感じたか解らない、自分の虚無を改めて実感した。
故に再び精霊となる事すら…放棄するだろう」 「イグニス…」
正直な所、他の精霊人形たちの幸福そうな様子を見ていると、私も解らなくなるのだ。 もちろん…辛そうに悩む姿を見る時もある…。 だがそれは…人間も同じなのではないか? 今では…あのウィルでさえも――再び目覚めて幸せそうにしている」
イグニスが自らこうしてここに留まったのも、 という存在が…あまりにも気に掛かってしまうのも、 客観的に見て、見目美しい…この可憐な娘から匂い立つ、 麝香の様に蠱惑する――魅力という名の、毒のせい。 そして――シャムロックの石という、哀しい、荊のせい――。 惹きつけられて止まないから――だからこんなにも決断するのが辛くなる。 シャムロックに魅入られてしまった女性達は…皆憐れな犠牲者に思えた。
は血筋の誰よりも熱心にシャムロックの本に触れることで、 荊の蔦が全身を這い伝うように心身を浸食され、 いつしかシャムロックの懺悔という呪いに、命まで蝕まれ始めている。
身動きする事も叶わずに…喘いでいるのだ。
憐れなシャムロックの末裔―、お前ならば―…否、お前の隣であるならば…、 私は…主人に遣える精霊人形になる事を――…厭わない」 「イグニス…っ」
彼は…あからさまに困惑していた。 柔らかな衝撃が胸を突き、細く頼りないはずの2本の腕は、 いとも簡単に自分を閉じ込めて――。
この感情の正体が解るのならば、なんだって差し出したい気分だった。
こんなにも愚かな体温を持つ存在を、 私に知らせぬまま、解放を行わせようとしていたのか――
伝うはずもない涙が、奥底から込み上げるようだった。 不器用に、ぎこちなく…それでもイグニスは何とか腕を持ち上げ、 優しさに応えるように、の小さな身体を抱き締めた。
イグニスの魂と同化した石が…の首に掛かる石に呼応しているらしかった。 は首飾りを外すと、石の部分をそっとイグニスの胸に当てた。
の手には――イグニスの鍵が、握られていた。
『傷跡』/Kalafina
20090808 呱々音 |