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あのあとイグニスは、の身体を慎重に抱きかかえると、 いとも簡単に持ち上がったそれの軽さに戸惑いながら… テムズ川に面した高級住宅地の一角――、 古くから佇むウィルキンソン邸へと、を送り届けたのだった。 出会った時妖艶に笑っていた娘は、 話し終わって不調を訴えども、そこそこ顔色が良かったはずなのに、 イグニスの胸に抱えられた途端に安心したのか、堰を切ったように顔色が悪くなってゆく――。 ウィルキンソン邸へと到着した時には、ほとんど目も開けられず、呼吸も苦しそうだった。 だが――イグニスは覚えていた。 彼のマントの端をしっかりと握り締め、まるで縋るように胸に頬を押し当てる――の姿を。 どうやら彼女には、肉親と呼べる者が居ないらしかった。 若い者を数人連れ屋敷から飛び出してきた男は執事らしき出で立ちで、 見知らぬ男に運ばれてきた辛そうな主を見て、一瞬イグニスに対して懐疑を向けはしたものの、 良く培われた経験から、決して不躾な態度は取らなかった。 主が苦しげに「この方は――大切な友人です、私の側に、いて貰いなさい」と吐き出すのを待ってから、 家仕えの者たちに、実に無駄の無い仕草で指示を出し終えると、イグニスを客人として手厚く敬った。
しかし…どうやらがうわ言のようにイグニスの名前を呼ぶのだ、と執事は彼に告げた。 先刻の側に居てもらえという主の命もあってか、執事は半ば強引に、 イグニスをの寝室へと連れて行った。
寝台を覗き込むと、大粒の汗を纏わり付かせながら、 はまだ少しだけ苦しそうに顔を歪めていた。
大切な者を喪った、あの辛い時を…思い出させる――。 イグニスは言い知れぬ不安を覚え、気が気ではなかった。
「…グニ…ス」 「…ああ――ここだ…、私は…ここに、」
――はこれを夢とでも感じているのかもしれない―― 弱々しくも迷い無く、彼女は手を差し伸べると、 イグニスの手を――白手袋を纏った冷たい手を――そっと握った。 そして幸せそうに微笑むと、再び意識を眠りの世界に手放したのだった。 人間特有の不可思議な行動――互いの手に触れる。 たったそれだけの事で、の顔色は、 先刻までとは異なる、とても穏やかな物に変わっていた。
なぜなのだろう……あの時――シャムロックが土の下に眠った日、 彼の亡骸と共に埋葬したはずの、誰かを慕う気持ち――。 それにも似た…それ以上に未知で実体の知れない思いが、イグニスを支配してゆく。 確実に、すごい速さで、心を――甘く浸食してゆく。 繋がれた指先が怖ろしい――。 と触れている箇所に、感じるはずも無い熱が生まれたような錯覚を起こして、 イグニスは、彼女が目覚めるまでここにいなくてはならぬのだろうな――、
ぼんやりとそう独り言ちた。
その寝顔を見つめながらイグニスは、睡眠が必要になる身体というのは 果たしてどんな感覚なのだろうかとありえない絵空事に思いを馳せた。 朝食の頃、執事が様子を見に来る。 主の目が一向に覚める気配が無いのを見留めると、 今度はイグニスの朝食の手配をしたいのだがと提案してきた。 勿論彼にはそんな物は必要なかったので、構う必要が無いことを短く告げた。 執事は詮索する事も無く、丁寧に礼をすると再び部屋を後にした。
薄らと瞼を持ち上げて眩しそうに目を瞬かせる。 その度に、彼女の長い睫毛が、宝石のように煌々と輝くような気がした。 青褪めていた顔色はすっかり回復し、桃色の頬が愛らしかった。
どう声を掛けて良いかもよく解らなかった。
それを目に焼き付けるように…とても幸せそうな眼差しで…指先を見つめている。 何かを訴えるように、指先に強い力が込められた。
「……」 「…ありがとう、」
枕元に置かれたベルを鳴らした。 イグニスの指は――どこか惜しむように拘束を解かれた。 彼がここに留まる理由はもう無いのだと言われた気がした。 しかし。 部屋を出て行いこうとする彼に向かって 彼女は明瞭に言い放った。
昨日の続きを――私の、真意を。 貴方に…聞いて頂きたいの」
返事の代わりに微かにの方を振り返る素振りを見せ――、
足早に部屋を後にした。
『柔らかな肌 (Instrumental)』/ALI PROJECT
20090808 呱々音 |