|
six エリックが絶望の淵に、突如として、まるで天使の様に降臨したとき、 私の死んだ眼は、見る見るうちに光を見出していった。 不思議と仮面は気にならなかった。 それどころか、白いモチーフを顔に纏った、美しい男の香りが、枯れた喉すら潤した。 エリックが、あの時私が微かに呟いた望みを、座長のセルジュに持ちかけた時、 聞き違いかと思ったし、物好きか、気でも違ったか… とにかく耳を疑ったのをよく覚えている。 いずれにせよ、観賞用にしてはあまりにも無慈悲な、この檻の外に出れるかもしれない… そう思うと、今日焼かれたばかり背中も、 激痛の走る事なども、すっかり忘れてしまうかと思った。 …―いいえ、期待しては駄目、決して期待しては……でも…万が一、もし―…! そんな事を考えていると、信じられない事に、仮面の男によって交渉はすっかり纏められ、 セルジュの"奇病"の忠告なども、全く無視し、檻の前に立ったのだ。 私が困惑して、なぜ?どうして?と聞くと、彼は鍵穴から目を逸らすことなく、 理由など無いと行って、素っ気無く返した。 とにかく…私の全身に蓋をしていたあの檻の錠を、取り去ってくれたのだ。 差し伸べられた黒い皮手袋を見て、溢れる思いが身体の喜びを訴えた。 その時既に、どんな仕打ちも、どんな扱いも…望んで受けようと心に誓った。 それが例え猟奇的な夜伽であろうが、小間使いであろうが、 あの檻と烙印以上に、私を枯らしていく物など、きっとこの世には存在しないだろう。 エリックは私の背中を見て、何かに怒っているようだった。 少なくとも、私にはそう見て取れたし、彼は大層檻を嫌っているようで、 私の目の前で、あの檻をすっかりめちゃめちゃにしてしまった。 私はそれが嬉しくて、次々に溢れてくる久方ぶりの感情に、涙が溢れた。 それが済むと、エリックは早くここから離れたい私を、 その漆黒のマントで優しく包んで、温かな胸に抱いてくれた。 人間とはこんなにも温かな熱を持つ生き物だったのか…とぼんやり思った。 知らない景色と共に、セーヌ河の静かなほとりに運ばれた。 彼は大層私の傷を気にしていたので、消毒瓶や包帯を取ってくるから、 少し待っていろと言った。 私は縋るものが何も無い恐怖に、声を出すもの精一杯だった。 醜いと思われても構わない…!とにかく哀願するしかなかった。 行かないで欲しいと、一人にしないで欲しいと…。 私を宥めるのが無理だと解ると、エリックは草に越し掛けて、 私がある程度の冷静さを取り戻すだけの時間、話を聞いてくれ、 私に名前も教えてくれた…エリック―…そう、エリックと仰った。 それでもはやり、どうしても一人にならなくてはならないのだと告げられ、 先程自分で誓った覚悟を思い出し、怖くて怖くて仕方が無い物を埋めるように、 草の茂みに身体を丸めて、震えながらエリックの帰りをひたすらに待った。 彼がどれくらいの時間で戻ったかは覚えていないが、 ただもう待ち侘びていたという一心で、エリックに縋りついた。 彼は些か戸惑いながら、背中を診せてくれと言って、傷を丁寧に治療してくれた。 そしてエリックは、それまで私が着ていたボロ布を、捨ててしまうと、 スミレ色の、高価なモスリンのドレスを渡してきた…どうやらお母様の物らしい。 遠慮をしても居られないので、大切に着ます…と心の中で呟いて、 彼の方を見やると、彼は確かにふっと笑った。 しかし次の瞬間、私の目の前には、全く理解に困る展開が用意されていた。 エリックは、硬貨の詰まった小袋を私に握らせると、 諾も言わさず、私を残し、闇へと消えていった。 「君は自由だ」 そんな…!ああ!エリック…! こんな事になるのならば…ちゃんと身の上を話しておけば良かったのに…! 泣けど啼けど、エリックは戻ってはこなかった。 小袋と共に置き去りにされた包みには、もう長い事口にした事も無い、 新鮮なパンとワインなどが包まれていた。 それを見て、またじんわりと涙が出る。 セーヌの川沿いにヨタヨタと歩き、橋の下に、誰も居ない事を確認すると 小さく座り込んで、美味しいパンを噛み締めた… 本当に…どんな所だって構いやしない、連れて行って欲しかった…。 …―私には帰る場所も、見知った人も、この世に誰一人存在しないのだから―…。
はっきりと言える事が、ただひとつだけあった。 …―この土地に留まろう。 朝日が昇る頃には、不安はあれど、不思議と恐怖は消えうせていたていた。 彼は、すぐに戻ると口に出すほどのところに、住んでいるに違いないのだ。 何年掛かろうが…エリックという存在に縋るほか無いのだ。 エリックが例え幻にしか過ぎず、会えたとて私を連れて行ってくれる保証すら無くとも… それでも構いやしなかった。 やっと現れた縋る存在…生き抜いていくには充分な拠り所だった。 そうと覚悟を決めると、橋の下に穴を掘り、 エリックから渡された莫大な資金を、そっとそこへ隠してしまった。 命の危機に瀕するほどの辛酸を舐める時までは、手をつける気にもなれないだろう。 とにかく今やっと始まったのだ… だからお願い、どうかもう1度だけ…姿を見せて、エリック―…。 |
そして物語は続いてゆきます。
20070501 狐々音