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cinq 私の話をしようと思う。 何も、ただ単に遥か彼方の海を越え、西洋の地に降り立った、東洋の娘ではないのだから…。 そう…土地も違えば、時代も違うのだ。 私が生きた時代は、ここでは遠い未来とされ、 トリップなんて聞こえの良い言い方をしたって、とにかく私は、
この世にたったひとつも縋る物を持ち得ない、無知で哀れな女でしかなかった。
それが起こるまでの事は、所々抜け落ちているけど、覚えている。 自分の名前と、ぶつ切りにされた記憶を、哀しい手土産にして、 私は…その一枚鏡に、すっかり潰されたはずだった。 …少なくとも、そう記憶している。 青春の総てを、歌と踊りの稽古にささげ、生きてきた。 父は画家で、母はバレリーナだった。 そう、そうだ…芸術をこよなく愛す家庭に育ったのだ。 順風満帆の青く輝く人生は、悲惨な事故に巻き込まれ、終わったはずだった。 しかし、私が再び目を覚ましたとき、目に入ってきたのは、 病院の白い壁でも、自宅の天井でも、ましてや黒い棺桶の中でもなく… 寒空のフランス…パリの郊外だった。 父が毎年連れて行ってくれた、あのめくるめくパリとは、全く雰囲気が違った。 建物は同じような出でたちでも、そこに息づく人々の、実に優雅なこと…。 訳もわからず、ウィンドウに映る自分の姿を、何度も確認したものだった。 容姿は日本人の私そのもの…しかし明らかにこの土地では不自然な、黄色い肌、黒髪―… まだ偏見と秩序に満たされた、あの時代のパリだった。 知りえるフランス語を、総動員しても、声を掛ける前に避けられるのが落ちだった。 ようやく不親切ではあったが、教えてもらったのは、19世紀の真っ只中という事だけ… 当初はとても混乱し、深く眠り起きた時には、すべてが元に戻るだろうと、 本気で思い込む有様だった。 しかし幾ら眠れど、町並みは変わらず、 私の知っている高層ビルや電車は、一向に姿を現してくれる事は無かった。 私が移動したの?それとも記憶が移動したの? もしかしたら、ただ気が触れただけの、本当の時代の東洋の娘なのだろうか? パリの郊外の森に隠れて、何も食べずに、身を縮こまらせて考えあぐねた。 ようやっと、いつの時代であろうが、泣いても何も現状は変わらないのだと解った。 それに気付いた時には、何か口にしたいという、本能的な欲でいっぱいだった。 いっそ街へと思い、森を出た…その時だ。 セルジュ率いる、見世物一座に、見つかってしまった。 物珍しい黒髪に、すっかり汚れてしまった、身寄りの無いであろう出で立ち… 「たまげた…東洋の娘だ!すっかり頬は扱けてるが、こりゃあ良い…! オリエントか…!なんて珍しい!1年間の移動興行を始める矢先だなんて! なんてついているんだ!そいつは良い金になるぞ!」 逃げる暇など与えられずに、まるで子供が無邪気に、蝶々を1匹籠にいれるかの如く、 私は一座の荷車に閉じ込められた。 逃げようなんて考えるんじゃないぞ、とこの世のものとは思えない声音で忠告された。 ひどく衰弱していた為に、思考能力は完全に下を切り、 考えるのは、無情なまでに、暖かい家の事だった。
私は思わず、嘘をでっち上げた。 「こんな女が、道に落ちていたという事が、どういう事だか…考えるといいわ! ちょっと考えれば解るわよ…!東洋の方にしかない…それも女だけの奇病よ! そんな女を犯して、二度と使い物にならなくなった西洋人を、何人も見てきたわ!」 セルジュは顔を真っ青にし、何て使えない娘だ!騙された!などと、 フランス語とは思えない罵声を浴びせて、手を挙げ、怒りをぶつけてきた。 犯されるより、何倍もマシだった。 とにかくこの戦いだけは、私は出し抜いたのだ。 口から血が出たが、これは勝利の証だ…などと、呑気な事を考えていた。 翌日「穢れた魔女め、何か出来る事はないのか」と聞かれ、 私は歌と踊りが出来ると答えるかどうか、しばらく悩み、言葉を濁していた。 するとセルジュは、その短期で理不尽な理由を建前に、 私の腕を掴み、非道な躾をするための部屋へと連れて行った。 背中をむき出しにされ、なんの躊躇いもなく、皮で出来た鞭が、私を打った。 その瞬間、自分でも上げた事のないような、 耳を劈く悲鳴が、天まで届くのを感じた。 気付けば私のテントは、吸い寄せられるように集まってきた野次馬で埋められ、 当のセルジュは腰が抜け、しかし口元には、抜け目なく、 何か良い事を思いついたという、不適な笑みを引き攣らせていた。 …それを境に、私の生き地獄が始まったのだ。 アヘンやモルヒネなどに、引けを取らない中毒性を持つ悲鳴を上げる、オリエント―… いつしかセルジュが冗談で使った"魔女"は、私の名前となっていた。 エスカレートしていく拷問に、確実に枯れ、死んでゆく私の心… 次から次に知らない土地で、満足を知らない客相手の"声売り"をさせられるのだ…。 いつだったか、悲鳴ではなく、唄を歌って見せる…と持ちかけた事があった。 セルジュは不満気だが、唄ってみろと言ったので、 千秋の思いで、歌声を披露しようとした…のだが…。 …そうだ、美しい声など、とうに潰れてしまっていた。 セルジュは最初から唄っていれば良かったのになと大笑いし、 私はただただ呆然と立ち尽くし、唯一の希望が、今目の前で死んでいくのを見た気がした。 とにかく、この様な仕打ちをされても、一向に死ぬことだけは拒む身体を、 心底憎らしく思うのも、時間の問題だった。 早く細菌が回って、本当の奇病にかかって死ねればいいと思っていた。 そもそもなぜ、あの1枚鏡は私の命を奪ってくれなかったのか…! 誰にも信じてもらえないであろう理由、打ち明けることの無い理由を、 さっさと砕いて飲み込むには、まだ恨みたい物が多すぎた。 すっかり"魔女"になってしまった私を引き連れ、 見世物一座は、1年と数ヶ月ぶりに、再びパリの郊外へ戻ってきたのだった。
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しばらく回想が続きます。
トリップものだったという…
20070501 狐々音