trente et un





そう――…どうして意識しなかったのだろうか。




あの日、あの時――私が1枚鏡の落盤事故に遭い、

見事にこの身を潰された日以来――…、

私は一度も――鏡という物を直視していないのだ――。

今思えば、無意識のうちに、そういう風に振舞ってきたのかもしれない。

特にエリックの側に居場所を見つけてからは、

環境のせいもあって――全くと言って良いほど、鏡とは無縁の生活を送ってきた――。



背中――…?



痛み――…?



なぜ――…?



――烙印と鏡――…?



これらは――無関係では――…、無いというの?















おそらく昏睡の果て――だったのだろう。

再び現に意識が戻った時、目に入ったのは心配そうに私を覗き込むマダム・ジリーと―…、

…―エリックの姿であった。

エリックはマダムの目も省みず、弱々しい私の手をしっかりと握り締めて、

まるで祈るように額を摺り寄せ――そして呟いた。


「良かった……ああ…本当に、良かった」


背中にまだちくりと刺すような痛みが走ったが、

先刻の激痛などに比べれば幾分もましだった。

恋人に力強く握られた手を見つめ――そして周囲に目を遣ると、

どうやら私はマダムのベッドに寝かされているようだった。


「…―マダム、ベッドを…」


マダムは泣き出しそうな顔で困ったように微笑んだ。


「今はそんな事を気にする必要は無いのよ。ああ―…良かった…」


マダムも心底心配したようで、少し汗ばんで額に張り付いた私の髪を

愛しげに優しく撫で掃った。

まるで実の――母親のような仕草で――…。

私は返すようにうっとりと小さく微笑んだ。

…――少しだけ身体に力を入れてみる。

すると思いのほか、痛み以外は無く、身体自体は難なく動くようだった。


「…エリック、身体を起こしたいの…手伝って…?」


当たり前だがエリックは一瞬、躊躇する様子を見せた。

だが私の顔色が、再び暖色を取り戻しつつあるのをその目に認めると、

渋々―だが優しく―半身を起こすのを手伝い、柔らかなクッションを背中に差し込んでくれた。



私はしばらく考えあぐねるように、握り込んだ自分の手をじっと睨みつけた。

そして思い至ったそれを打ち明けるように、順を追って話し始めた。






一枚鏡の事故の事――…

自分の身が潰されたはずだという事――…

以来、鏡を直視していない事――…。

そして――鏡を見たとき、背中の烙印―ケロイド―が酷く痛んだ事――…。






「……お願いがあります。マダム・ジリー…そしてエリック」


黙したまま、話を遮る事もせず、私の話に真摯に耳を傾けていた二人は、

怪訝そうな表情で私を見つめた。

私は覚悟を――決めなくては。


「確かめたい事があるの……、

 どうか私に…レッスンを――続けさせてください」








 * * *






嗚呼…!何という事だろうか!


の気でも違ったのかと耳を疑ったのは――言うまでも無い!

私とマダム・ジリーの咎めや忠告は一切受け付けず、

―もちろん私の癇癪なども無視して―彼女は熱心に説得を続けたのだった。

…――結果として――この苦行とも拷問とも取れるレッスンは

私たち講師陣の意志を全く無視した不本意な形で

幕を――開けたのだった。















始めのうち、は泣き叫びのた打ち回るばかりで、

見ているこちらの気が狂うのが先か、が音を上げるのが先か…。

そんな狂気に対する忍耐を競っているような、

…―レッスンと呼ぶには程遠い―、とても病的な時間を強いていた。

終わる頃には彼女が自分の足で立てぬこともざらで、

レッスン場の片付けをマダムに任せ、

を抱きかかえて足早に地下の安息の闇へと逃げ帰るのだった。

悲痛に顔を歪める痛ましいの姿を見て――、

正直私が泣き出したくなる事も…――無くは、無かった。

だがしかし、彼女は例え泣いてもうなされても――それでも必ずレッスン場に向かうのだ…。

幼気な女性である彼女が諦めぬうちに、私が折れてしまう事だけは

どうしても憚られるような気がした。

…――私にしれやれる事――。

背中の激痛に泣きじゃくるを、毎晩この腕中の安息の避難所に閉じ込め、

大切に、大切に、抱き締めてやるのだ―…。

そして愛する彼女のために、慰めの子守唄を歌ってやるのだった。

そうしてやると徐々にではあるが…の表情は少しずつ弛緩し、

―私の夜着のフリルの裾を指に巻きつけながら―浅い夢へと意識を手放すから―…。

苦悶にやつれた頬を撫ぜるのは、とても辛い行為ではあったが、

彼女がこんなにも心身を犠牲にしてまで、確かめたい事物がこの先に待っているのなら――。

せめて私は堅牢なる城塞となって、が尊い紺碧の眠りに身を浸す束の間の刻くらい、

あらゆる苦痛から別ち、遠ざけてやろうと―…、そう心に誓った。






ああ…!それなのに…!

何という事だろう…!

信じられない出来事が――日を負う毎に正体を現し始めたのだ――!






が確かめたいと言っていた言葉の意味を――私は目の当たりにする事になった。

取り決めた訳ではないが…眠る前、彼女の背中に薬を塗布しようと背中を晒させると――…。


「…――りえない」

「…エリック…?」

「っ……有得ない…!」


訝しげに私を見上げるを尻目に、私は現状を受け入れられず、

ただ苛々と仮面を押さえつけて狼狽した。




だが――、



いや――、



しかし――…!




「…エリック?…あの…どう、したの?何か、あったの?」

「…――傷が――、」


その単語を耳にして、緊張した面持ちで、がこくんと唾を飲み下したのが解った。

私はの背中を蝕む忌まわしいケロイドを睨みつけたまま――。


「…傷が――…薄く――なっている――…」

「え――…?」


は一瞬耳を疑ったようだが、すぐさま顔色を明るくし――…、

だが何かを思い出したように視線を下に落とし、彷徨わせると――。

今まで見たことも無い不安げな表情を作った。

私はそんな彼女の姿に心配になり、思わず指先を伸ばしそっと頬に触れた――途端。

は弾かれたように顔を歪め―痛みとはまた別だ…―大きな涙の粒をその瞳から溢れさせた。

顔を歪めながら辛そうに咽び泣き、涙を拭う事もせず私を見つめて…言った。




「私は…このまま…―消えてしまうの…?」











T O P /  N E X T








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え…っちょ…すいません。

ここまで自分で読んでいて

「まぢでか」と思ってしまいました…

書いといて、ねえ(他人事)

20090911 呱々音