trente





翌朝目覚めた時、私の隣には寝息を立てるエリックが居た。

当たり前だが――これは…初めて見る光景だ。

彼が健やかに眠る姿に立ち会うなんて、ほんの数日前までは想像も付かない事だった。

―もちろん密やかに望んではいたのだけれど―。

チャイニーズ風の刺繍が施された美しい夜着を纏い、片腕を私の頭の下に挿し入れて、

警戒も瞑想も演奏もしていない無防備な恋人の姿がそこには在った。

勿論、仮面もサイドテーブルの金塗りの箱に収められている。

彼の安息の眠りを妨げぬよう、目の端でちらりと時計を盗み見ると、

時計の針は日が昇り終えた頃だと示していた。

…―あと1時間位、こうしていても罰は当たらないだろう―。

そうしてまじまじと愛しい人の寝顔を堪能し尽くした頃、

私はようやくベッドを抜け出す決心をした。

まずエリックの顔に掛かる金色の柔らかい髪を、そっと整えてみる。

そうすると案の定、エリックはうっすらと目を開けて―…、そして私の瞳を認めると、

「…天使が居るのかと思った」と呟いて微笑んだ。

寝起き早々にそんな甘い言葉を囁かれた物だから――流石に私も頬を染めて狼狽えてしまった。

仕返しだと言わんばかりに、エリックの長い睫毛に、口付けをひとつ落とし、

私はするりとベッドを抜け出した。

寝ぼけ眼のエリックを覗き込むようにして、優しく告げた。


「時間になったら起こしにくるから…―安心して眠って?」


手を彷徨わせ仮面を捜そうとしていたエリックの手をそっと拘束すると、

エリックの身体がゆるゆると弛緩したのが解った。

その手に小さなキスをひとつ落とし、また同じ様に額にもキスをしてやると、

滅多に無いであろう、彼の甘い夢想の眠りの続きへと送り出してやった。














湯を浴び、身支度を整え、朝食の準備が終わる頃、再び彼の部屋を訪ねると、

―何となく予想はしていたが―エリックはすっかり身支度を整え終えた所だった。


「おはよう」


あきれた様に笑う私を尻目に、エリックは明瞭に朝の挨拶を陳べる。


「おはようエリック。少しは眠れた?」

「ああ。君のお陰様でとても良い気分だよ」


そんな風にふざけ合い、和やかに朝食を摂り終えると、

私は念をするように言った。


「今日からマダム・ジリーにレッスンを付けて頂くけれど―…、

 エリックはレッスン場へ?」


食後の紅茶を啜りながら、エリックは悪戯っぽく肩を竦めた。


「初めの1回くらいは見学してたって、マダムも怒らないと思うからね。

 出て行ってくれと杖で叩かれる事も無いとは言い切れないが――。

 何、集中の妨げにならないような見方をするよ」

「ねえ例えば…それは鏡の中からとか?」

「おや…何?それは…実に良いアイディアだ…ふむ――悪くない」


顎に指を這わせ、何か愉快な企み事に耽る子供の様に、エリックは小さく笑った。


「…――さあ。支度をしてくると良い。

 マダムとは直接レッスン場で会う約束をしているからね。

 責任を持って、を送り届けなければ」














上の階のバレリーナ達の間で流行っているらしい、と

エリックがくれたジャポニスム風の模様が刺繍されたバッグにシューズなどを詰めた。

レッスン着に着替え―もちろんマダムから頂いたカシュクールも着て―

その上から化粧着を羽織る。

まあ―…そんな出で立ちでエリックの前に現れた訳なのだが――。

エリックは面食らった様に私を凝視すると、

「本当にエトワールにもプリマドンナにもなれるんだな、は」

と、愉快そうに言った。


「では、行こうか」


そうして誘われるままに、オペラ座を網羅するエリック専用の路を上がったり下がったりしながら、

私はレッスン場までの行き方くらい自分で覚えたかったから

順路を覚えようと必死に辺りを見回したりした。

途中、人の行き来を敏感に察知したエリックに

廊下の横切り方のコツを教わったりしながら、ちょっとした探索の末に

エリックは無事、私をレッスン場に送り届ける事が出来たのだった。














表からは入れないように――扉の閉ざされたレッスン場には、

もちろんマダム・ジリーだけが佇んでいた。

バーに足を乗せ、厳格なバレリーナは熱心に筋肉を伸ばしている最中らしかった。

柱の陰から現れた私たちに別段驚く様子も見せず、

「さあ、よくストレッチをなさいね」と微笑んだ。

そして――レッスン場には不可欠の存在―…鏡。

エリックに配慮してか、とてつもなく大きな3枚の姿見には

白い布が掛けられていた。

ブランクもある――私は示唆された通り、念入りに…慎重に…

身体中の筋肉を伸ばす事から始めた。

その姿を認めると、マダムはエリックに言った。


「エリック――貴方さえ――…、貴方さえこの状況・・・・が嫌で無いのならば」


マダムはちらりと鏡を見た。


「…―の稽古にピアノを付けて頂けないかしら」


エリックは何となく察して覚悟して居たのだろう――。

何でもない事のように肩を竦めると、「喜んで」と恭しく頭を垂れた。

―ああそうか…ピアノ…―

どうしたってこの時代で踊るには演奏が必要なのだから、

うっかりとそんな事を忘れていた自分が、少し恥ずかしかった。

その反面、今日以降のレッスンに、エリックが立ち合ってくれる事が嬉しくてたまらなかった。

バレリーナたちが汗と涙を流すこのレッスン場で、毎日それを共有する存在――、

それがこのグランドピアノなのだ。

頻度がある分、よく手入れされているらしかった。

エリックは使い込まれたグランドピアノの声を聞くように、鍵盤をひと撫ですると、

自分の地下帝国とはまた違った良さを見出したらしい――敬意をはらう様な表情を見せた。

調律を確かめるように即興で紡がれた旋律に合わせて、

私は縮こまっていた手足を存分に伸ばし、身体を温めた。

―気持ちが良い…―

身体が温まり始め、しっとりと額に汗が滲む頃、

マダムが「ではバーレッスンから始めましょうね」と―ちらりとエリックを見てから―

鏡を覆っていた布を引っ張り、するすると取り去った。



晒される水銀の膜――移り込む世界――。



鏡――?



そういえば私は――あの日以来――鏡を――……、





見て…――いない――…?





嗚呼――、



鏡の世界の自分と――目が、合う――…、





…――そして――。





「っ……ったい…、痛い――…!きゃああああ…!いやあああああ…!!」





耳を劈くようなけたたましい悲鳴を上げて、私は床に打ち崩れた。

――背中が――…燃える様に、痛んだ。

激痛にのた打ち回りながら、視界に顔を蒼白にしたマダムとエリックの顔が映った途端、

意識の糸は切れ、私は身体を貫くような痛みに――悶絶した。











T O P /  N E X T








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自分で書いといてあれなんですが…

ヒロイン、悶絶落ちって――どうなんでしょうか(聞くなよ)

まさかの30話越えに一番びびってる作者です(どきどきどき)

20090911 呱々音