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trois 少女の背中を守るように、自分のマントの中に彼女を隠し、 闇という無限の帝国を牛耳る、ミネルヴァの梟の様に、音も無くシルクを後にした。 それにしても…この少女のなんと軽い事か…。 私が再びセーヌの岸辺に戻った時には、もう"ここから逃げろ"という類の警鐘は止み、 人気が無いのを確認して、少女をそっと懐から出してやった。 「…その傷が酷く痛むようだから手当てをしなくては、」 聞こえているのかいないのか… 少女は覚束ない足取りで、石畳の感触をしっかり踏みしめ確かめていた。 「…………」 「それほどの火傷を受けて、よく細菌に感染しなかったな…それとも何処か酷く痛むか?」 少女はブンブンと大きく首を振って、おずおずと言葉を漏らし始めた。 「私は…大丈夫です、人より治癒能力が長けているようだし、それに…」 「それに?」 「……………し……消毒だけは…してもらって…いましたから…」 今度は急に、消え入りそうな声になって、その目には怯えや憎悪などが見て取れた。 「消毒とは?一体どんな?」 消毒などとは名ばかりで、きっとろくでもない事だったのだろう。 思わず出た私の声のトーンに、少々身体をびくつかせ、 少女は言うのを躊躇っていたが、ここまで来たら言うしか他無い事くらいは解るようだ。 「…………アルコールを―…」 「かけられたのか…?酒を…!!」 何という事だ!あんなもの…!窮地に立たされた状況でこそ役には立つが… 彼女が細菌に蝕み殺されるには、充分過ぎるほど手荒な処置だ。 その話からしても、彼女の言った"治癒能力"の高さは、強ち嘘ではない事だけは解った。 「……ここで待っていなさい。すぐに戻るから」 呆れと哀れみが入り混じったせいなのか、大きく溜息をついて、優しく言った。 「嫌…!どうか置いていかないでください……旦那様」 マントの端を、細い指はしっかりと握り締めて、完全に怯えた目で私に縋っていた。 「旦那様…、私はそんな結構な者でもなんでも無い。もう呼ぶな」 私に縋るものなど…世界の果てまで行っても、出会う事は無いと思っていたのだが―… 「では…なんと呼べば…よろしいの…?」 私は自分の名前を名乗るつもりは更々なかったから、 少々順序が悪いだろうが…少し屈んで、小さい少女の背丈に、目線を合わせた。 「おまえの名前は?」 「…と申します…」 「歳は?」 「18」 なんと…!18…!失礼だがまるで18の娘には見えない…せいぜい14か5か…。 オリエントというのは幼く見えると聞いたことはあったが…まさかこれ程とは。 「…では、良く聞くんだ。私はすぐに戻るから、ここで待っていなさい」 「ああどうか…!置いていかないで、嫌…怖いわ!」 宥めるつもりが、更に怯えを煽ってしまったらしく、 その華奢な腕からは、想像も出来ない程強い力で、しっかりと腕を抱えられてしまった。 可愛そうに…しかし連れて行くのは不可能なのだ。 このセーヌの木陰にそっと隠れていれば、すぐに必要な消毒液や清潔な包帯を持って、 たちまちに戻ってくると説明を繰り返すが… は聞き分けようと努力はするものの、 やはりどうしても、自分の内から込み上げる恐怖には勝てないらしかった。 ―無理もない―…。 抜け出せたといっても、檻は檻。 檻とは逆に言えば、隔離ではなく、形は歪めど、庇護の元にあったのだから。 ある日突然望みが叶ったとは言え、 彼女に施された、庇護とも呼べない様な、残酷な庇護は、 漠然とした恐怖として、一生この娘を苦しめ脅かし続けるのだろう。 仕方が無いので、まずは彼女がほんの数分間耐えられるだけの、 信頼を得るという事を優先させることにした。 「…落ち着くんだ。解ったから。……」 その名を呼ぶと、何か小さな花の蕾が、心の奥底でパチンと開く様な感じを受けた。 小刻みに震えていた肩は、次第にゆっくりと呼吸を整え、 ごめんなさい…と小さくな頭を垂れた。 河縁の草に腰掛け、座るように即した。 「少し君の話を聞かせてくれ、」 はこくりと頷き、何から話せばいいかと聞いてきた。 「国は?」 「…ニホンという国…ご存知ですか?」 「そこから来たのか?一体どうやって…?確かに手段が無い訳ではないのは聞くが…」 「……それは…話すととても…とても長くなるので―…、 それに…きっと…とても信じて頂けるような話では…ないでしょうから…」 甚く好奇心を擽られたが、彼女の伏せた睫毛を見てしまっては、 ここは私が大人になって、目を瞑るべきだと、自制した。 「…あのテントにはどれ位?」 「ここに来てすぐだから……多分、1年ちょっと…」 「自ら進んで、あんな化け物ショーに参加した訳ではないのだろう?」 彼女はそれはないと大きく首を振って否定した。 「まさか!ああ…!飢えて弱っている所を見つかってしまって… 死に物狂いで逃げようとしたの…でも結局捕まってしまった…。 どうしていいか解らなくて…ただもう怖くて…」 遠い過去だが、私自身の古い傷跡、あの心の底から感じた恨み、憎しみ… そしてそれを乗り越えさせた血生臭い記憶が 彼女を通して実に鮮明に思い出された。 思わず溜息と共に、イライラと仮面を押さえた。 「…ごめんなさい…!ああ許して…ご気分を悪くしてしまったのなら謝ります、どうか」 「…―大丈夫だ」 はホっと胸を撫で下ろして、目尻に溜まった雫を、隠すように拭い取っていた。 「それで…何故烙印を?魔女だなんて、実に非科学的で根拠の無い名称だ」 「…最初は異邦人を面白可笑しく呼びたいだけだったのかもしれませんが… ある日私が…酷い仕打ちに鞭を食らった時、最初の悲鳴を…上げたんです…」 先刻、闇を劈いた哀しい悲鳴が、私の頭でリフレインする。 「なぜだかシルク中の人たちが集まってきて……それに目をつけたセルジュが… 私に鳴かせることを始めたんです、」 「……もういい。」 彼女はふるふると頭を振った。 「しばらくは鞭で声を上げていましたが…そのうちわざと声を出さなくなって… 歯を食いしばれば、声を押し殺す事が出来たし… でもそんな抵抗が続くわけも無くて…それ以来……焼けた鉄を…当て…られて… 興行が無い時と食事以外は、私が自決しないよう、口に布を詰められていました…」 のその様な状況を、自分の仕打ちと重ねて、鮮明に思い巡らせば、 私の心を彷徨う黒い感情が、沸々と大きくなって行き、 体中の熱と怒りを持って、激しい憎悪を感じていた。 「………でもひとつだけ…彼らを出し抜けたの、」 は顔も上げずに、ぽつんと言った。 「セルジュが私を…無理矢理押し倒したとき…嘘を教えてやった、」 ……それで良く解らない病に感染するだのと言っていたのか。 「東洋の…魔女にしかない奇病と言ってやったの… 私をどうして使い物にならなくなるくらいなら、娼婦でも買えばいいと言っていたから… 本当に…それだけはもう怖くて…怖くて…」 さぞ怖かったろうに…。 だが無垢な少女を弄びたい男に、咄嗟にそんな嘘を言えたのだから、 なんとも頭の悪くない娘だなどと、関心してしまった。 しかし… 「…そんな話を私にしていいのか?」 例え、私にそんな気が無くても、パトロンになった男に、彼女の唯一の護身術を、 そんな身を売るような話を打ち明けるとは…あまり関心できなかった。 「…いいのです…だから…どうか…私の秘密と引き換えに…」 伺うような言い文句に、反射的にカっとなるのを感じた。 なんだ!?この仮面のことが聞きたいというのか…! いらぬ事に触れなければ気がすまないのか!この娘も…!! 「…どうか……あなたのお名前を…教えてください…」 ……在りもしない被害妄想で怒った私は、すっかりぽかんとしてしまい… それこそこの仮面がなかったら、なんとも間抜けに呆けた顔を晒していたに違いない。 なんだそんな事…そんな事と引き換えに、重要な告白をしたというのか…! 信頼以上の感情を覚える前に、早くここを離れた方が良いのかもしれないと どこか遠くのほうから聞こえた気がした。 「…………エリック」 呆れたように、仕方なく取り立てて面白くも無い名前を教えてやった。 するとは、心なしか頬を紅潮させ、まるで慈しむかのように大切に、 私の名前を何度も口で転がしていた。 「エリック…エリック…なんて素敵なお名前かしら…」 素敵かどうかはさておき、彼女の声が私の名前を繰り返す事は…半ば罪に近かった。 彼女の美しい声は…ああ毒だ―…! 私という存在に、隈なく愛撫を施すような… とにかく先程の本能的な警告は、正しかったのだ…! 「……そろそろいい加減に行かなくては。いいか、お前はここで待っているんだ」 撥ね付けるように、厳しい口調で言った物だから、は泣きそうな顔をしていた。 はやり置いていかれるのが怖いのだろう。 しかし今度は、今までの会話の甲斐あって、己の恐怖を抑圧し、 素直に聞き分け、どうか直に戻ってきてください、と哀願した。 がまるで、恐怖から逃れるように、草陰に身を縮込ませるのを確認してから、 身に当たる風で、熱を覚ますように、一心不乱にオペラ座までの道を駆け抜けた。
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やっと…名前を呼ばすことが出来ましたね…(汗)
20070501 狐々音