vingt-neuf





どれ程眠ったのだろう―…夢のまどろみから目を醒ますと、出掛けたはずの彼の気配がした。

目前に姿が見えずとも確かにそう感じる…ここまでくるともう本能に近かった。

――仕方が無いのだ。

だってこの地下に息衝く素晴らしい夜の帝国は、

エリックが留守になるとたちまちに生の香りを失う。

まるで荊に覆われ深い眠りに静まり返る古城の如く、

時を刻むのを拒み、主人の帰りを今か今かと待ち続けるのだ―…。

私の特殊な思い込みだとしても…これはそれなりに的を得た表現に思う。

現に冷たい城にはエリックという生気が舞い戻り、今城は歓びを湛えているようだった。

半身を起こしてみると、気怠かった身体は随分楽になっていた。

一晩中占領していた彼の寝台からするりと足を滑らせ抜け出す。

エリックのこだわりが垣間見える美しいガウンを羽織ると、彼が居るであろう湖水の間に向かった。

石畳の階段を数段降りると――机に向かうエリックが私に気付いて振り返る姿が見えた。

嗚呼…!彼への愛しい思いが身体中を駆け巡り、私の全てが今にも溢れてしまういそうだ…!


「エリック」


思わずそう呟いた私の声は、さぞかし歓びと嬉さに満ちていたのだろう。

エリックは少し目を見開いたが、呆れたような幸せそうな面持ちで、

駆け寄り抱きつく無邪気な私をその安息の腕の中へと囲った。


「おかえりなさい。御用が済んだのね」


胸いっぱいに染み込む物がエリックの香りだったので、更に堪らなくなる。

どうやら彼も同じらしい。

包み込んだ腕の中で一生懸命呼吸をしている私の香りを

肺いっぱいに吸い込んで傍目には到底解らないであろう、微かにほくそ笑んでいた。


「…ただいま。労わるべきを独り残して留守をするのは流石に忍びなくてね。

 用事をひとつだけ済ませてすぐに帰ってきたんだ―――ほら、君への手紙を預かってきたよ」


エリックが懐から大切そうに取り出したのは、私宛の手紙だった。

手紙…!

嗚呼それはこの世界ではまだ一度も受け取った事の無い物!


「手紙なんて…一体誰から――…嗚呼!マダム・ジリーからだわ…!」


ほんのりと香水の香るクリーム色の封筒の裏には、品の良い文字でマダムのサインが綴られていた。


「エリック…本当にありがとう…!…開けても…?」

「もちろん」


手紙は親愛なるへ、と始められていた。

私に魅せられた踊りの事や、レッスン場が手当て出来る日にちや時間などが認められていた。

そして最後にはこう書かれていた。


『エリックにカシュクールを預けました、受け取って下さい。

 私が少女の頃、羽織っていたカシュクールです。もし貴女の背中が疼くようなら、使ってください』


弾かれたようにエリックの方を見ると、彼の手にはマダムから預かったのであろう包が用意されていた。

―いつ取り出したのかも解らない!―

興奮と微かな緊張で少しぎこちない手付きでパリパリと包装紙を開けると―…白いカシュクールが入ってた。

それは確かに少し古く、大切に着込まれた物なのだが…

私の目には、この世で一番素敵なカシュクールに見えた。

目に熱いものを湛えて鼻を啜る私を、エリックはそっとカウチに座らせた。

心配したのか、アイシャがそっと頭を擦り付けてくる。

まるで私の心を慰めるために、くすぐっているみたいだった。

はらはらとこぼれ落ちゆく優しい感謝の雨を、私は取り払う事が出来ずに俯く。

だからエリックが何かコトリと物を持ち上げたのは微かに耳で捕えた。


「……私からはこれを贈ろう」


次の瞬間、見っともない泣き顔だと解っていても顔を上げずにはいられなかった…、

弾いているのだ―、エリックが―、素晴らしい―、ヴァイオリンを―…!

彼は、その誰にも盗まれる事の無い眩い才能を駆使して、

美しい音を生み出す撓る尾を持つ名馬をも彷彿とさせる、

高貴で崇高な、偽りの無い音に鮮やかな生を―…、与えているのだ―…!

魔法や夢――そんな存在以上の純度の高さ――。

今この夜の世界は、彼の生み出した音の洪水で、溢れている…!

私は窒息しないよう、喘ぐように息をする事しか出来なかった。

演奏の終焉と共に、私はやっと彼の甘美な音の世界からの解放を許される。

感銘のままに拍手を打ち鳴らす事さえも、なぜか滑稽な行為なように思えた。

目を見開いてエリックを凝視しながら、彼の前に立つと、その完璧な指で懸命に私の頬を拭った。

私の瞳が感動の涙を滴らせていたからだ――それも、無意識に…止め処なく。


「私…涙が止まらないわ…―だってこんなに素晴らしいヴァイオリンを…聴いた事が無いの、」

「……お気に召したかな」


エリックは私の頬にそっとキスを落とすと、ゆらゆらと揺れる瞳を覗き込んだ。


「…もっともっと、聴いていたい」


悪戯っぽくはにかんだ。


「ではのために、ずっとずっと弾いていよう」


そしてわざと肩を竦めて、悪戯っぽく彼の得意なジョークを続けた。


「そうだな――がもうヴァイオリンなんて見たくないわ!と言い出して、

 部屋に逃げ帰り枕に顔を埋めるまで、何て言うのはどうだろう」


私は可笑しくてくすくすと笑った。


「あら構わないわ?だって私、絶対、逃げないもの!」

「おやおや―、怪人を嘗めないで頂きたいね」


そして彼は再び馬の尾を撓らせて、何とも幻想的な演奏で私を甘美な音の世界へと誘う。

エリックのさじ加減ひとつで、私は演奏に泣いたり、歓んだり、哀しんだり、笑ったりした。

だからきっと私に疲れを感じさせて寝かせる事も出来るのだろう。

でもエリックはまどろみの魔法をかけてくれた。

心地よさの音で私の瞼を落とさせ、夢の縁にそっと身を委ねさせて―…。

いつの間にか演奏は終わり、エリックは私の身体を掬い上げシーツの海原へと送り出してくれた。

私は満月の素晴らしい夜の青紫色に輝く海の夢を見る――。

滑らせた小舟には白いカシュクールを纏った私と

黒いマント纏った彼が寄り添って、星の唄を歌っている――。

そんな――美しい夢を――見た。











T O P /  N E X T








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お久しぶりです!が、にもかかわらず、

なかなか進まなくて申し訳ないです…(あれ毎回云ってるな…)

ヒロイン寝てばっかですが怠けてるわけじゃないんです…!

20090123 呱々音