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vingt et un 翌朝目が覚めると、私の良き友となり懐でぬくぬくと言っていたはずのアイシャが、 昨夜、エリックに言われるがままに鍵をかけた扉の前で、何も言わずにきちんと座っていた。 私はぼんやりとする暇も無くベッドを抜け出すと、錠を外し、扉を開けてやった。 きっとアイシャはすっかりお腹が減ってしまっていたのだ。 そう思うと何だか申し訳無くもあり、またちょっとだけ微笑ましくもあり、自然と頬が緩んだ。 寝巻きのまま、高級な朝食を摂りに行くアイシャの後を付いていっても良かったのだが、 流石に―昨日の今日では―と思い、先ずとにかく、クロゼットの中身に着替える事にした。 しっかりと髪も結い上げ、おずおずとパイプオルガンの間に出て行く。 あの気紛れな紳士の機嫌が、大変良好になっている事をこっそりと願いながら。 しかし…見渡せど、エリックの姿は見えない―…、エリック、呼んでみる…返事が無い。 何処かへ―…出掛けたのだろうか…。 しゅんと目を落とすと、細かな柄の美しい銀の皿に盛られた餌をカツカツと、 けれども至極優雅に、朝食を食べているアイシャが目に入った。 そうだ、朝食―…、そう思って(ここで唯一飾り気の無い質素な部屋)キッチンへ向かおうとした。 そこでアイシャが一声、にゃあと鳴いて私を引き止めた。 何かと思い振り返ると―…ああ!私はようやく気付いた。 小さめのテーブルの上には、銀のドームカバーが1つ乗っていて、 その横には、私のお気に入りのティーカップがソーサーの上に伏せられてちょんと添えられていた。 ―その蓋を開けずとも、中身の正体はもう大方解っていた― そっとカバーを持ち上げると、案の定、ふわふわの卵にパンにソーセージ―… そして…エリックの書いたメモが、1枚。 …―彼の字は、変わる。 それもあらゆるシーン、人、譜面、メモ―…何に対しても、とにかくまるでそれが一種のドレスコードだから当然 とでも言うかの様に、細かく(しかし大変めりはりがある)使い分ける。 それが故意なのか無意識なのかは私の与り知らぬ所だが、エリックが"私に対して"使う文字は…そうひどく、美しい。 ―メロディアスな竜泉を滑らかに伝うインクが、紙の上で優雅に踊っている様だ― そんな愛の篭った字体は、このメモにこの様に残されていた。 “直に戻る。朝食を食べて待っていると良い” 私はその綺麗なメモを大切に畳むと、ドレスのポケットにそっと忍ばせた。 特に意味は無い―いや―きっとこの綺麗な文字が、私の小さなお守りなのだろう。 私の口の端は少し吊り上り、大人しく椅子に着くと、鼻歌交じりにパンを頬張り、サモワールでお茶を淹れた。 丁度食事が終わる頃、見計らった様に水面が波を立てた。 暗闇に目を凝らす―…ボートがゆっくりと水の上を滑り、黒く蠢く影と白い仮面がこちらを見ている。 私は船が着くのも我慢出来ずに、水辺の岩縁に駆け寄った。 彼が最後のひと漕ぎを終えると、オールを離し、ひらりと船を降りた。 「おかえりなさいエリック」 たったそれだけの出迎えの句に…彼は少し面食らった様だった。 「…っ……ただいま、…」 私はくすくすと笑うと、更に続けた。 「おはよう、エリック」 これにはエリックも少し微笑んで、 「おはよう、お寝坊さん」 と返してきた。 私が黒い革手袋で覆われた彼の手を握ると、私達はゆっくりとボートに背を向けて歩き出した。 「エリック…朝食をどうもありがとう、あの卵とっても美味しかったわ」 「…それは良かった」 掌から伝え合う彼の冷たい熱は、私にとっては温かい。 私はそう感じる度に…こんなにもうっとりとしてしまう。 エリックは名残惜しそうだけれど、とても自然に私の手を離し、 優雅な手付きで羽織っていたマントを掛けると、耽美な様子でカウチに腰掛けた。 その姿を見て、彼に紅茶を出そうと思い踵を返しかけた私の手を、彼はぱっと掴んで、引き止めた。 それに加え、仮面から覗く瞳もそうでない方の瞳も、両の目が…私を捕えて離さない。 「…、ここへ」 エリックの哀願は、私をとても従順な恋する小娘にさせる。 慎ましく腰掛け、彼の方に身体を向ける。 覗き込んで、そっと問いかける。 「…なあに?」 彼は自分の中で言葉を形良く纏めたらしく、反芻する様に私に打ち明けた。 「…今日の夜、君とマダム・ジリーを引き合わす手筈を整えたから、」 私は思わず溜息の様な息を吐き、満面の笑みが零れた。 「ああ…エリック、本当に?」 「本当だ」 流石に昨日の事もあったので…、感情に任せて、抱き付いて喜ぶような真似はしない様にした方がいいだろう…! 「そこで提案なんだけれどね。マダムに歌を一曲プレゼントしたらどうだい?」 彼はそこまで言うと、大儀そうに長い足を組んだ。 「マダムに君の歌の事を話したら大層興味を持っていた様だしね。 それに君の踊りの事も…気になった風だったな。 まあそれは私もまだ拝見した事が無いから、どうにも説明は出来なかったのだけど。 とにかく、マダムに"一曲歌ってみてくれないか"と頼まれるのは―… まあ、簡単に予想出来る事かな、」 「…あの…、…私―…、歌っていいの…?」 歓喜を理性で抑圧した為に、声が震えた。 そんな私を見て、エリックは優雅に肩を竦めながら言った。 「良いも何も…。はもっと喜ぶと思ったんだけどね」 その言葉は引き金となった―…! 結局私は、思いっきり彼の胸に抱き付いて、ありがとうだの、大好きだの… とにかく大いに喜んだ。 エリックは(主人の胸で舞い上がる犬を宥める様だ、とでも思ったのだろう)ふっと笑って、私の頭にキスをした。 「だからしっかり用意するといいよ」 |
エリックの文字で、彼の気持ちが解るという…
なんだかそんな願望があります。
几帳面そうだし。でも万能そうだし。
禍々しい字から蔓の様に綺麗な弧の字までなんでもござれ!
…だったらいいなー…!(もんもん)
20071016 狐々音