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vingt-deux 今宵のオペラが終わり―もちろん私達も鑑賞した―真夜中頃、その素敵な席は用意された。 慣れた様子で壁の中を歩きオペラ座の中を移動すると、エリックは慎重に廊下に出て、次に手招きして私を呼んだ。 少し薄暗いこの廊下は、人の気配など全くと言って良い程存在していなかった。 私が緊張気味にエリックのマントを握ったので、彼はそれを一瞥するとふっと笑った。 そして聞き取れぬ程小さな声で―良い子だ―と言って、彼の前の扉を、独特のリズムで叩いた。 すると…待ち侘びていたかの様に、キィという音を立てて扉が開かれた。 挨拶も早々に済ます暇も無く、エリックは私の肩を抱き、するりと部屋の中に滑り込んだ。 同時に、パタン、と扉は閉められて、扉を閉めたその女性は…安心したように私達の方を向いた。 あの日あの晩、ボックス席の暗がりでお目に掛かった、とても姿勢の良い、美しいご婦人だった。 「…―ボンソワ、マダム」 エリックが舞台役者の様に頭を垂れると、マダム・ジリーは更にほっとした様に表情を緩めた。 「こんばんわ、エリック…そして―…」 「はい、です…マダム・ジリー。あの晩以来ご挨拶が遅れました、申し訳ございません…」 そうして私も、どこかの戴冠式の日の妃の様に、ゆっくりと身体を屈めた。 「そんな事はいいのですよ。どうせエリックが時期を見計らっていたんでしょう」 そう言うとマダムはチラリとエリックを見て、エリックは困った様に肩を竦めた。 「さあさ、どうぞお掛けになって。何も無いけれど、お茶を淹れましょう。 それと…クッキーがあるわ。これさえ有れば、彼方達とのお喋りには十分足りるでしょう」 厳格そうなマダムはにっこりと微笑むと、再び私達に背を向けて、小さなコンロでお茶を淹れてくれた。 少し使い込まれたクッションと椅子は、それでもとても独特の美しさがあった。 エリックはそれに掛けると、足を組み、手摺りに肘を付いてリラックスし始めた様だった。 一見すると飾り気の無い部屋の様にも見えるが、実はそうでは無い。 意識的かはさて置き、私の心を魅了して放さない―…バレエの細々とした道具たち…! 私は既にこのマダムの事が好きになっていた。 そんな事に夢中で、どこか落ち着きの無い私を見て…エリックが可笑しそうに微かに笑った。 そこへマダムがお茶を持って来た。 変わった香りだ―…ああ何処と無く懐かしい香り。 それに…この陶器は―… 「…………湯呑み…?」 マダムが目を瞬かせる。 「ええ、そうよ、ああやはり…貴女、ジャポネーズね」 マダムが私の顔を見て、何処か嬉しそうに微笑んだ。 その発言には、流石のエリックも些か身を乗り出した。 「……ニホン…ああそうか、そうだったのか!君は…!ああは!なんだジャポ二スムの―…!」 私はこんがらがって、何が何だか解らず、しかし確実に…言い様の無い期待に動揺していた。 何より…エリックが激しく私の肩を掴んだからだ。 「昨今の事に興味は無いけれどね。しかしこの国の表現に措いて、流石にジャポニスムは無視出来ないのだ。 ニホン…、そう言われてぴんと来なかった自分が!何という…ッ!酷く滑稽だ…!」 エリックは私の肩を開放すると、マダムを見つめ、努めて呼吸を落ち着かせようとしていた。 汲み取ったように…マダムが話し出す。 「…ここの踊り子たちの間でも、少し出回っているのよ。それこそ…薄い"キモノ"を化粧着代わりに 着たりしていた子も居たかしら…、街では海を越えて学びに来たジャポネを見かけた事もありますよ。 最も、私も街に出るよりは劇場に居る事が多い人間なので、そうそうお目に掛かる事は無いけれど…」 マダムが一息置く。 「エリックも…当然といえば当然、それに…ジャポニスムが息づいていたとて―…、 の置かれた…、この奇妙な状況は―…、変わりませんよ」 …そうなのだ。 文化における共通理解という意味では、大層な収穫かもしれないが、私の身の上の不安定さを裏付けるには 到底足りるものでは無いのだ。 しかし今のマダムの口振りからして、どうやらエリックは粗方の事をマダムに話してくれたらしい。 私はもう余計な事などは言わず、押し黙ってこくんとひとつ頷いた。 それを見たエリックは少々ばつが悪そうに新緑色のお茶を啜ると、足を組み直し小さく咳払いをした。 「…ああ・マダム、が貴女にちょっとしたプレゼントを差し上げたいそうなんだが、」 話題を切り替えた…というより、本来の目的を示唆され、私ははっと顔を上げた。 「そう、そうなんです。あの…」 マダムの顔を見ると、とても穏やかに笑う目元に安堵感を覚えた。 「マダムさえ宜しかったら…貴女のために一曲歌わせて下さいませんか?」 その唐突な提案は、マダムの一層の微笑みで、快く歓迎される事となった。 「とても素敵な提案ね!ぜひ聴かせて頂戴」 「ああ良かった…!それじゃあ…何かアリアを一曲」 「あら!ではその前に」 マダムが敢えて強調した口調で遮った。 エリックもマダムのその言葉を少し量り兼ねたようで、私と共に不思議そうにマダムを見た。 マダムはそれに応えるように目を大きく見開いて、まるで当然の事の様に言った。
「歌を歌うのなら、劇場に行くのが普通でしょう?」
私の呼吸はもう既に正常では無くて、例え観客もオーケストラも、ましてスポットライトも無いと解っていても、 思わぬ事の運びに、期待と緊張が溢れ出して気付いた頃にはもう、心臓が爆発しそうだった。 ランタンを持って先頭を歩いていたマダムは、エリックに少し待つ様に言うと、 必要最低限の明かりを灯しに行った。 エリックは少々…いやかなり緊張した様子の私を一瞥すると、そっと肩を抱いた。 「おやおや…可愛そうに、こんなに震えて。心配無い、君はプリマだろう?しかも…私の自慢のね」 エリックの優しい声はひどくくすぐったい感じがした。 違う意味で…鼓動が乱れた気がした。大きく息を吸って、ゆっくり肺から緊張を吐き出した。 幾分か―…落ち着いた様な気がする。 するとようやっと、自分の置かれた状況が少し冷静に見れた気がした。 そうだ…ステージで歌うのなら…まず…このコルセットが邪魔だ。 マダムが戻ってきた。 「お待たせしたわね。エリックがピアノを弾く…それで良いのよね?」 エリックは返事の変わりにふっと笑って見せた。 「では…、緊張しないで。これは私のちょっとした楽しみ。貴女が不安になる必要は」 「マダム、少し着替えを手伝って頂けませんか?このままでは…ドレスが邪魔で歌えないのです」 私の飛んだ発言に、マダムとエリックは驚いていた。 マダムは少々戸惑ってエリックの顔色を伺ったが、それでも遠慮がちに…「解ったわ」と小さく言った。 「では幕のほうへ」 「いいえ…ここで結構です」 私はちらりとエリックの方を見たが…最早彼は自身の訴えを飲み込むような仕草で私から目を逸らした。 私はマダムに背を預け、寸分違わぬ精巧さで誂えたドレスのホックを外して貰った。 隠している背中が…徐々に空気に晒される。 マダムの慣れた手付きが止まったのが解った。 「……嗚呼…ッ何て事…!こんな…こんな…!」 マダムのそれは、私自身へ…というよりは、この様な仕打ちを施した、顔も名前も知らない"犯人"への 憎悪や嫌悪に満ちていた。 マダムの口元に添えられた、わなつく手が、ありありと想像出来た。 しかし…その手は意外にも…小刻みに震えながらも、私の痛々しいケロイドにそっとそっと、触れたのだった。 「おお…可愛そうに、嗚呼!なんて…!なんて酷い事を…」 一度触れると、その疵にはもう痛みが無い事を知り、マダムは手を這わせて、いびつな背中を手で撫ぜた。 私はまるで自分の母親に巡り合ったかのような感覚に見舞われて、切ない涙を隠すように、手で顔を覆った。 この…私の危うい告白の行方を怪訝し、拳を握り締めていたエリックも、 遣り切れない溜息を吐くと、手袋を外し、グランドピアノを弾く準備を始めた。 私は鼻を啜ると、まるで自分の殻を脱ぐ様に、するするとドレスを脱いだ。 マダムは歌うに支障無い程度に、コルセットを緩める。 白いコルセットとパニエ姿になった私は、取り去られた余計な物たちをそのままに、 くるりとマダムの方に向き直った。 「……マダム、ごめんなさい私…こんな…こんな方法でしか、打ち明けられなくて…」 懺悔する教徒の様に、私の声は震えていた。 「……」 マダムは私の肩に手を添えて、ただ一言「辛かったわね」と言った。 …―殻を脱いで、生まれ変わったのだと思った。 スポットは無いけれど、ステージはある。否、今実際に私は…立っているのだ! 既にもう涙の影は去り、恍惚とした期待で私は満たされていた。 どうかこの気持ちを…マダム、貴女に差し上げたい…。 私はマダムに御礼を言うと「どうぞ御席に」と即した。 短い階段を下り、マダムの腰掛けた席は、オペラを聴くには実に最適な場所だった。 マダムはにっこりと笑う。私もにっこりと微笑み、同じくステージ上ピアノで待機しているエリックを一瞥した。 彼も…嗚呼、とても優しい眼差しで私を見ているではないか。 …十分だ。十分なのだ。早く始めなければ…そうではない、早く始めたい…! この短期間の内ではあったけれど、エリック仕込みの声を思いのままに開放した。 喉が揺れ、何処までも延びる―…! 何一つ覚束ない状況で、私はこうして歌っている。 そして確実に己は己なのだと確信している―…今この瞬間だけは、これ以上の認知法は、最早無い! まるで繋がれた鎖を千切る様に…この空間へ飛び立つ。 何処までも続く高い天井、全身で踏みしめる古の舞台、たくさんの赤い客席―…! 闇が輝く―…エリックのピアノときたら…美しい、唯々美しい。 なんと調和の取れた旋律だろう…私は溶かされる。 嗚呼…この声だけでは…最早この悦びを表現出来ない…! 絶頂に達したまさにその時、私は自分の意識の及ばない別の行動…そう…踊りだしていた。 足が、手が、声とピアノに合わせて軽やかに、情熱的に、舞う舞う舞う。 ドレスを纏わない姿は…はてこんなにも軽い物だったか…。 嗚呼やはりここ―ステージ―こそが、私の生きる場所だったのだ―…! |
ヒロイン、ついに開眼です。
彼女もエリックも本来は、表舞台気質の人間なのに、
疎まれる容姿のせいで、闇の世界にしか息づけない…。
でも闇にも舞台は存在しました。
マダム・ジリーのお陰です。
20071016 狐々音