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あれから数年の月日が過ぎた。 榎木津は帝大に通い、僕と関口もそれぞれ進学した。 それでも僕らは各々あししげく草園図書館へ通い続けている。 そして――通う理由は本の閲覧のためだけでは無くなっていた。 初めは食い入るように本に溺れたが、 気がつけば訪問の度に幸せそうな顔で出迎えてくれる 家の人たちの魅力にすっかり呑まれていた。 館長は読めない本があれば時間を惜しまず丁寧に翻訳をしてくれ、 夫人は必ず軽食を出してくれた。 遠慮して拒もうものならわざわざ袋に包んで帰りしなに持たせようとしてくれた。 そして――ここにはがいる――。 彼女は本を読む僕の隣に、実に控えめに、かつ自然に寄り添っていた。 換気のために開け放たれた窓からそよ風が流れ込む度に、 の香しい清楚な香りが僕の鼻を擽る。 髪に手を伸ばせばーー彼女はうっとりと眼を閉じる。 僕は二十そこそこの人生の中で、何よりも尊い、幸福の存在を見つけてしまったのだった。 彼女以外は――有り得なかった。 僕との間に息づく甘美な念はとてもささやかなのに、 心の中では大きく膨れ上がっていた。 腫れたような気持ちが辛い時もあれば、空に舞い上がるような晴れやかな心情の時もある。 ――そして僕はこれが恋の正体なのだと識った。
信頼を持って接してくれている証拠に、彼の仕事の手伝いを頼まれることもざらだった。 元議員としての仕事や、教授業、各地での講演、執筆―… これだけ様々な分野に引っ張りだこのくせに、 彼は頑なに予定管理のための助手を雇おうとはしなかった。 自分ですべて把握しておきたい、が口癖という位だから、それも頷ける。 書斎で書類の整頓を手伝っているとき、館長はおもむろに口を開いた。
「…――ええ」 「この図書館はきっと、いの一番に検挙の対象に引っかかる」
それでもその時が来るまでは、自ら本を手放すような真似だけはしないとも言った。
僕の勝手な事情で離ればなれになるなんて――忍びないじゃない」
僕にはどうしても忘れられなかった。
容赦の無い寒さの前では外套の襟も無力に等しい。 逃げ込むように邸の呼鈴を鳴らすと、待ちわびていたように扉が開いた。
お待ちしておりましたのよ。どうぞ上がってください」 「ありがとうございます、奥様」
奥に通されたが、温室庭園にの姿は無かった。 夫人が熱い茶と甘い菓子を出してくれた。
「…ええ、今主人と話をしていますわ。 ここで少しお待ちになって下さいますか」
一刻ほど経った頃だろうか――が図書館の方から戻ってきた。 目が少し赤い。 僕の顔を見つけるとは安堵の表情を浮かべた。
丁度、父が秋彦さんを呼んでいたのです―…一緒に来て下さいますか」 「ああ。すぐに行こう」
平素と違う厳粛な空気が漂っていた。 僕は否応なしに、時代の風潮がこんな所にまで迫って来た事実を――感じ取ってしまった。 短い廊下で、の肩に両手を添え、顔を覗き込んだ。 やはり――泣いていた。 アルビノの兎のように目を赤くして、静かに涙の筋が頬を伝う。 何も言わずに親指でそっと涙を拭ってやった。 弾かれたようには胸にすがったってきた。 柔らかなその肢体を、僕は初めて自分の両腕に閉じこめた。
「ええ。今年の冬は特に――寒さが身に染みます」 「…実はね、少し君とお話がしたくて。いいかな」 「はい。もちろんです」
館長も自分の椅子には腰掛けず、同じ椅子に座った。 「その前に――先に僕から良いでしょうか」
お嬢さんは――僕が、必ず、護ります」
彼は慌ててハンケチーフでそれを拭うと、仕切り直すように満面の笑みを作った。
僕はそれだけ聞ければ――もう思い残す事はないんだ、何もね」
しばらくの沈黙の後、お父上はぽつりぽつりと話し出した。
日本は、否世界は、大戦を始めるんだろうと思う。 そんな折りに…僕はまた欧州へ旅立たなくてはならなくなったよ。 様々な思惑が渦巻いているね。 僕は――今回ばかりは妻を連れていく。 いつ大戦が始まるか解らないからね。 もちろん、無事に帰国したいと願っている――けれど…、 思った通りにいかないのが人生だからね。 妻は僕が生涯添い遂げると誓った女性だ、僕は、彼女を護らなくてはいけない」
この娘が本当に愛した人と一緒になって欲しいのだ。 爵位を棄ててでもね。 中禅寺君――身分とは、愛し合う者たちに、引き裂かれる苦しみしか与えないんだ。 愛の前では、遥かに無意味な記号なんだね。 …正直、を連れて行きたいというのが…僕の本心だ。 でもね、娘は君を――愛している」 「僕の気持ちは――それをも凌駕する事でしょう」
僕は淀みのない声で続けた。
顔も識らないその女性の認めた字で僕はその方の美しい名を識り、 愚かにも恋心を抱きました。 そして必然が如く、僕は彼女――さんと出会ったのです。 彼女は僕の拙い想像以上に、計り知れない優しさに満ち溢れていました。 気がつけば僕は――さんを愛してしまいました。 僕が生涯をかけて愛するのは、さんしかいないのです。 どうか――さんとの婚約を、許しては頂けませんか」
君たち二人はそういった話をしていたの?と聞いた。 は放心していたが、なんとか首を振って否を示した。
君が今言った事と全く同じ事をね。は先刻、僕に打ち明けてくれたのだよ」
僕の手を握りしめ涙を流しながら、一生懸命に言った。
たまには僕も準備を手伝おう。 二人とも少ししたらいらっしゃい。 母さんの料理が出来ていると思うから」
僕はその背中に向かって深く頭を垂れた。 彼は振り返りはしなかったが、右手を少し掲げて、重い扉の向こうへと消えていった。
「あ…き、彦さ…」 「僕は善き夫と成ろう――それには最愛の君が必要だ。 、僕の善き妻と成ってくれないか」 「…っあきひこさん」
そんな仕草までが心底愛おしくて、僕は情熱的な振る舞いでの唇を塞いだ。 感性の指示するままに柔らかくふくよかな唇に溺れ、 彼女の呼吸が絶え絶えになる頃合いを見計らって、耳元で呟いた。
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爆弾発言ですね、わかります。
20100210 呱々音
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