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婚約を許された身とは言え、秋彦は祝言を挙げる事を頑なに拒み続けた。 かく言うとてそう何度も願い出た事はない。 ――ただの一度だけ、それも答えを知りながら、あえて躊躇いがちに慎ましく聞いたのだ。 案の定、秋彦はなんとも苦渋に満ちた表情でそっと告げるに留まった。
闇雲に結婚の誓いを立てる事は出来ないのだ。 もちろん僕は君を護る。どんな事があっても、それだけは真実だと誓おう。 けれどね――の将来を思えばこそなのだと…諒解っておくれ」
これ以上僕に軽弾みな事を言わせないでくれ…――たまらない」
女の頬にそっと触れ、何を恨む訳でもなく、ただ――最愛の未来を案じて――。 はその手に優しく指を這わせて、味わうように瞼を閉じる。 哀切と感慨に、言い表す事の敵わない無形の愛しさを感じながら――。
“ふたり”の将来を思っています。片時も忘れる事無く、思っていますから――だから、」
先は内地勤務だが――多くどころか端ほども語れぬ、特殊な任務であるらしい。 後ろ髪を引かれるようにして欧州へ渡ったの両親も、引き離されたまま大戦へ突入。 悲しいかな――館長の読みは全く勘良く当たってしまったのだった。 草園圖書館はその収蔵本の性格こそ特殊ではあるが、功績には代わりなく、 国によって押収される事が決まっていた。 まだ大戦突入前、館長はと秋彦に、 自分の子供達ともいうべきその本の数々を引き取らせていた。
私の大切な本を、生きる励みと思える君たちに持っていてもらいたい。 ただし、もし万が一の時は、それで罪を被る必要は無いからね。差し出してしまいなさい。 そして私たちの事は一旦忘れなさい。 各々が自分たち夫婦の人生を、精一杯生きるんだ――いいね」
すっかり“消して”しまった。 その隠し場所をに教える事は決してしなかったが、後に判明した折り、 それが榎木津邸の隠し蔵と、青森の祖父宅だったと言うのだから――。 とにかく全ての本を匿う事は到底不可能だったが、 それでも結果として多少の本を護る事は叶った訳である。 その甲斐あってか、どうやら国に回収されてしまった本も、 殲滅対象とされたのは数える程度で済んだらしい。 ――あの頃、ほとんどの物が焼けて無くなってしまった。 しかしそれでも、残すべきだと判断された物は、 人の命より重んじて生かされ、残され続けたりもするのだ――何とも皮肉なものである。 さて秋彦不在の間、は単身、敦子の預けられている、昔馴染みの京都の和菓子屋へ 疎開する事が決まっていた。 それは榎木津、関口含め、身内では最も良しとされた疎開先に違いなかった。 まず始めに、帝大在学中である華族の一海軍将校として榎木津の任地が決まる。 続いて赤紙が届くままに、見送りこそ間に合ったがあれよあれよと関口が出征。 榎木津もそれを見送った後日、内地派遣の秋彦に思いの品を託しに来た。 榎木津はすでに、出陣の正装を身に纏っていたが、 飾りが地味であまり好きではないと言って戯けてみせた。 茶を出しては席を外したが、それでも榎木津のことが心配で心配でならない。 さりとて泣くようなみっともない真似は出来ぬ――せめて気丈に振る舞ってやらなくては。 短い座談の後、帰り際の玄関口で榎木津はの《名前》を呼んだ。 日頃より、己の事を神だ神だと仰せになる榎木津大明神は、鳶色の瞳でまっすぐを見据えると、 ただ一片の迷いも無く、明朗快活に吠えた。
例えどんな事があっても、姫は強く美しく生き延びなくてはならないよ。これは神の命令だ」
は堪えきれず、裸足のまま榎木津の胸に飛び込んでいた。 彼はそれを窘め、ぎゅうと抱きしめ、無邪気に笑う。
全く本当に優しい娘だねえ。うふふ、良い香りがする」
事実、兄弟姉妹を持たぬにとって榎木津は実の兄のように特別な存在であったから。 今日以降の見送りは結構とだけ告げて、いつの間にか榎木津は海の向こうへと姿を消した。 あれは殺しても死なない男だ、と秋彦はすげなく笑っていたが――、 それでもこの時、海という戦場は、最も悲惨な惨状とされていた。 秋彦とて日を開けずほぼ同時期に、出征の前夜を迎えた。
「諒解っています」 「先立って京の敦子が手紙をよこしたが――君のお出でを首を長くして待っているらしい。 あれも不安なのだろう……側に居てやってくれ」 「もちろん。そのつもりで行くのです」 「――“困った時”は」 「諒解っています!…諒解って…いますから――秋彦さん、どうかご無事で」
女である時、毎度改めて思う――。 この腫れたような乳房を飾る白い胸に、どうか今一度戻ってきて欲しい――と。 何に例うべきかも見失う程に、無情なまでに、狂おしい。 御国のため、御上のためと口を揃え、一心不乱に苦い土を食べ、 孤独に肩まで浸る事を選択せねばならぬ時代が来たのだ。 それでも――それでも今一時、この瞬間だけは、夫となる男の腕の中で、 無我に鳴き、泣き、哭き――。
が床を出ようとすると、その手首を掴まえ、秋彦は静かに首を振った。 間もなく一階の学徒出陣に変わりないはずの秋彦を、なぜだか一台の車が迎えに来た。 日の出の中に吸い込まれるようにして消えていく車を見送りながら、 はいつまでも旗を――手を、降り続けた。 美しい顔で凛々しく微笑みながら、心の中で慟哭した。 お願いですから私からあの方を奪わないで――と。
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ご無沙汰をしております。
ここまで延滞する更新頻度に陥るなど誰が予測したでしょうか…。
本当に、深く深く反省しております。
気持ちばかりではございますが、今回この七話はノア様へ献上したく存じます。
5周年の折、続きが読みたい、と仰って頂けた事、
心より感謝申し上げます!
そしていつも読んで下さっている皆様、本当にありがとうございます!
20111006 呱々音
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