より択んだ本を抱えて窓際の机に戻ると、関口は独りだった。

―どうやら上手く厄介払いをしたらしいな―

関口は頭を抱えながら教科書と睨めっこをしている。

その様ははたから見ると、字が読める猿そのものである。

猿は健気に人語ならぬ数学を理解しようと、必死に足掻いている最中なのだ。

安易に猿の集中を切らせてしまっても得する事等ひとつも無いし、

僕は僕でそんな面倒を視界に入れて巻き添えを食らうのも勘弁願いたかったから、

関口から椅子3つ分隔てた机の端席に腰を据えて、

物言わない媒体―本―から今日も知識を貪ろうと本をめくった。



正にその時だった。



「おおこんなところに居たか本馬鹿!」


図書館特有のこの静寂を切り裂くかの如く颯爽と姿を表し、榎木津は高らかに吠えた。

――右手に少女を捕まえて。

榎木津という人間は、見た目も派手だが行動も派手だから、付属品ならぬ付属人や取り巻きの存在は、

平素ならもう少し発見が遅れても良さそうな所なのだが――、

―生憎その少女は……美しかったから―。

榎木津は長い足をズカズカと動かし、こちらに向かってくる。

西洋的な榎木津の容姿に引けを取らないのだから、ぱっと見て認識しただけの今この瞬間でさえ、

少女の印象は頗る可憐で、とても爽やかなものである。


「―先輩、そちらのお嬢さんは」


言いながらちらりと目端で関口を見遣る。

案の定関口は無言で、しかしその口はぽかんとしてまるで閉まっていない。

突如舞い降りた見慣れぬ美しさに、戦々恐々しつつもどこか憧れを抱く子供のようだ。

榎木津は紹介などはせず、早々に薄目を作り僕の頭上の虚空を見ていた。

そしてなんだあと可笑しな声を出して残念そうに少しだけ肩を落とした。


「何だあ本馬鹿、お前もちゃんを知っているんじゃないかァ」

………―――、さん…ですか、貴女が―、」


随分奇妙な遣り取りが展開されているにも関わらず、

彼女は至ってしおらしく頷き、恥じらって微笑んだ。

「お初にお目に掛かります、と、申します。

 嗚呼―貴方が中禅寺秋彦様―、」

「はい。僕は中禅寺秋彦と言います。

 さんの御名前はよく存じ上げています―、」

「私もそう…同じです」





同じ――…なのだろう。

僕が彼女の名前を見知っているのと、

彼女が僕の名前を見知っているのとは、おそらく同じ理由なのだから。

この図書館で手にする本を介して出会う、顔も知らぬ女性の名前。

綺麗な字で「」と名乗るそれは、僕が今まで借りてきた書物の奥付の裏に

悉く生息していたのだ―…。





「―――中禅寺、同じとは…一体どういう意味だい?」


「関君にはデリカシイが無い。無さ過ぎる」

「君はついに自分の名前も忘れたのか」


まず“人”として順序を改めろ、自分の名前を名乗れ、と言わんばかりに

呆れを隠すわけでもなく僕と榎木津は関口を睨み付けた。

忘れていた訳では無いのだろうが、自分の失態を思い出した関口の顔は

見る見るうちに真っ赤になり、しどろもどろに舌を噛みながら、

緊張による汗と共に声を噴出した。


「ッあ…ア、ぼ…僕は関口巽と言います―…は、はじめまして、っ」

「関口様、はじめまして――と申します」


彼女は至って丁寧に返したのに、こんな状況であっても

嫌味の片鱗さえ全く窺わせなかった。

関口は関口で緊張が収まるどころか悪化していた。

各々の自己紹介が済んだので、関口は誤魔化すように経緯を知りたがった。




「閲覧カアドだよ。そこでお互いの名前を目にしていた、という事さ」




彼女は少し申し訳無さそうな笑顔を作って、相槌を打つ。


「お会い出来て光栄です。私とても嬉しくて…言葉がありませんわ。

 お恥かしい話です…こんなに本を読んでいるというのに言葉が無い、だなんて―…」


そしてそのまま首を傾げる素振りを見せると、ぽつねんと呟いた。

妙に白いくせに病的な印象を受けない――それはそれは美しい少女――。


「ですがどうして―…榎木津様は、私が中禅寺様の御名前を気に掛けているのだと

 お解かりになられたのでしょう…?」


薄々察してはいたが、やはり榎木津は「視えた」から連れて来たらしい。

この破天荒者は反省するでもなく、当たり前の様に威張った。


「視えたからに決まっています!」

「み…えた?」

「名前ね」

「中禅寺―と」

「そうそう」


やけに嬉しそうな榎木津を遮るように、

その手の話をしている時の榎木津を、殊更面倒くさがる関口が

これ以上話題を広げまいと割ってはいる。


「なあ…外へ出ないか。榎さんの声が煩いから、先程から司書に睨まれているよ」













 * * *











結局、庭へ出た。

どうやら更に愉快な話が聞けるのだろうと思ったらしく、

関口は勉強道具をまとめて許可も得ず当然のように付いて来るらしかった。

まあ――昼時も近かい。

皆持参した握飯を広げ、庭に唐突に植えられている大樹の下に腰掛けた。

お互いの制服を見れば通う学校も解るから、

年が近いことも容易に知れ、男子と女子とは言え、話は滑らかだった。


「いつかお会い出来ればとは思っておりましたが…―こんな出会い方もあるのですね」


清らかな印象を隠せないまま彼女は笑った。


「まさか榎さんが攫ってきてしまうとはね」

「攫ってなどいない!可愛いものが落ちていたから拾ったのだ!」


関口はしゃしゃり出て、榎木津は威張った。

中禅寺は思うところがあるのか、少し考えるような素振りを見せると

むさ苦しい連中には決して見せないような、温厚で悪意の無い紳士的な物言いをした。


「失礼ですが“福崎”と仰れば……草園圖書館の?」


はて…関口など耳には縁遠そうな名前が浮かんだものである。

そのくせ榎木津は「ほう!あのツタヤシキか!」と吠える。

ただその問い掛けにの顔がたちまちに華やいだのは明らかだった。


「ええ…!そのツタヤシキです」

「矢張り。閲覧カアドで“”という名前を拝見した時から、

 草園圖書館長の御身内の誰かかと何となく察してはいたのですが…」

「さすがと言いましょうか…中禅寺様は聡明でらっしゃいますのね」

「買い被りですよ。―――ああ、宜しければ『様』など取って楽に呼んでください」


当然の申し出と云えば当然なのだが、やはりはじめは戸惑うようで、

は少し俯いてから、困ったように微笑んだ。


「あの…ええと…では…――あ…秋彦さん――と―…」


中禅寺は肯定する代わりに、穏やかに微笑んだ。


「中禅寺だけずるい!おいちゃん、僕の事も好きなように呼びなさいっ」


彼女は小さな口元にそっと手を添えてくすくすと笑った。


「はい。そう―…ですね…ええと、礼二郎…さん?」

「やだ。もっと砕けた感じで」

「…けれど…仮にも先輩の御名前ですわ、そんな…」


すると中禅寺が握飯を食べながら、手元の本をわざとらしく睨み付け、榎木津を攻撃した。


「嗚呼そうかじゃあ先輩は『礼ちゃん』でいいじゃないですか」

「おお!云うじゃないかこの本馬鹿!」


そう返した榎木津の眉目秀麗な様に、何故だか急に、

颯爽とした腕っ節の良さを見た気がして、は慌てて止めに入る。


「え…!…あ…あのっ!えっと…礼ちゃん!」


礼ちゃんと呼ばれた男は、彼女の機転により見事に興味の対象を反らされた。

になら女っぽい呼ばれ方をされても嬉しいだけのようである。

鳶色に縁取られた大きな瞳をやけに輝かせながら、

榎木津は満足気に何度も頷いてみせた。


「そして、巽さん」


関口の方を見て、は美しい笑顔を作った。

関口本人にしてみればひどく唐突な出来事だったのだろう。

咄嗟に反応できずに、ううとかああとか呻きながら、どうにかやっと口を動かし、

しどろもどろに「ありがとう、照れるよ」と下を向いた。


「私の事もどうぞお好きに呼び捨ててやって下さいね」


至極真っ当にそう云ったつもりであったのだが、のその様な申し出に対し、

異常に嬉しそうな反応を示す榎木津…を遮るように、中禅寺と関口が眉間を曇らせた。



「そんなのはこの榎木津先輩を喜ばせるようなものです」

「そ、そうだよ。この人は自分が人の名前など全く覚えないのを棚に上げて、

 それはそれはひどいあだ名を付けるのだ」


二人とてこの無法者を止めても無駄なことは解ってはいたが、

が不思議そうに「そうなのですか?」と小首を傾げると同時に、

忠告空しく、榎木津礼二郎の声がけたたましく且つ快活に、

広大な図書館の敷地中に轟いた。



「姫っ!!」



中禅寺は溜息をつき、関口は落胆し、

目を丸く見開いたは――恥かしそうにはにかんだ。

























前へ /  表紙へ / 次へ


















★::::★::::★::::★::::★

ご無沙汰をしております。

す…っごい久々だな…と思ったら1年近く開けていたという…

そんなサイトです…ごめんなさい。

今回は榎さんがなんでさんを「姫」って呼ぶのかの経緯が書きたくて。


応援して下さる皆様に多大なる感謝を込めて…絶対終わらせます(当たり前だ)

みんなで秋彦の嫁になろう!(合言葉)

20090509 呱々音