ジェームズ・ニコルズは愛すべき母校イートン・カレッジで教鞭を執ることを夢見てきた。

大学卒業後もそのまま大学院へ進学し、文学研究に励んでいる。

ニコルズには彼が尊敬してやまぬ優秀な姉がいて、彼の一番の理解者だった。

弟が予てから切望していた教育者になる夢を片時も非難することはなかったし、

そういう意味では実の両親ですら、

娘の言うことならまず間違いはないだろうと信じきっていた。

4つ上の姉にはもう2人の子供が居たが、両親思いの彼女は毎日にように実家に顔を出した。

もちろん子供たちを伴って。

ニコルズ姉弟のさらに下、15歳になった末の妹アリスも

全寮制の学校へ通っているため週末しか帰らない。

遊び盛りで奔放な年頃の彼女が、毎週末戻ってくるかと言えばそんなことはないのだ。

ただし大好きな兄が戻るときを除いて。

その週末ジェームズはヘアフィールドへ行かず、

久しぶりに実家で過ごすと連絡を入れた。

するとアリスは金曜日の日暮れの頃にはもう家に帰ってきて、

兄を迎えるための準備を率先して手伝った。

夕食には姉夫婦も加わり、一家揃って囲む晩餐はとても賑やかなものとなった。

食事の間中アリスが馬のことばかり尋ねるので、ジェームズは降参したように首を振って笑った。


「そんなに気になるなら一度ウィックフィールドに会わせよう。

 ほかにも馬がいるし、もうすぐジェイミーの馬に子供が生まれるんだ。

 それからロバートの馬にもね。

 アリスにその気があるのなら、来週末に大佐のご自宅に妹を連れて行くと伝えておくよ」
















その頃、邸はにわかにざわめき立っていた。




虫の知らせとも言うべきか、ジェイミー・スチュワートは金曜日ということもあって

いつもより早めに勉強を切り上げると、その足でヘアフィールドへ向かった。

平素なら土曜の早朝に赴くので、

予め連絡を入れてひとつ余分に夕食を用意してもらう手間をお願いし、

その代わり上物のスコッチと色とりどりに包装されたチョコレートを手土産に献上することにした。

今週ニコルズはこちらへ来ないと聞いていたから、

とくに駅で待ち合わせることもせずまっすぐ邸へ到着した。

すると出迎えに訪れたのは奥方とサラで、すぐに厩に行ってやってくれと頼む。

彼が慌てて厩へ向かうと、ロバートと世話役のジョーがランプを掲げて

緊張した面持ちで柵の中を照らしている。


「ロバート、ジョー」


暗くなり始めた闇中にスチュワートの姿をみつけると、

ロバートの顔が幾分か明るくなったような気がした。


「来てくれてよかった、ジェイミー。

 イヴリンの子供が生まれそうなんだ」

とヘンリーは?」

「姉さんは着替えに行った。すぐ戻るよ」


するとヘンリーが年季の入った薬箱を持って戻ってきた。


「こんばんは、サー・スチュワート。

 馬のお産にはこれがいるんでね。

 しかしあなたのイヴリンはさすがだ。

 このところじっと静かにしていたと思ったら、

 そろそろ生まれるわ、なんて自分から訴えてきましたよ」


スチュワートが仕切りの中を覗き込むと、イヴリンの目がお産の苦しみを訴えていた。

どうやら陣痛が始まっているらしい。

ズボンに履き替え髪を結い上げたが、

人影の中にスチュワートの姿を見つけると足早に戻ってきた。


「イヴリンはあなたが来るのを待っていたみたい。

 今日は天気が良かったから放馬して草を食べさせたの。

 厩に入れるときジェイミーから連絡があったって伝えたら

 数時間後に産気づいたのよ」

「大佐はどちらに?」


まだ帰っていないのだろうか――見渡すが彼の姿はない。


「父さんは急な出張でカーディフなんだ。今夜は戻らない」

「だからね、ジェイミー。

 私はイヴリンの希望を尊重して、あなたが取り上げるべきだと思うの」


スチュワートはその顔に小さな動揺を滲ませたが、

しばしの目を見つめて決心を固めたようだった。


「喜んでそうしよう。、君も手伝ってくれるね」

「もちろんよ」


スチュワートは袖をまくり上げながらイヴリンの様子を観察する。

しきりに力んだり耐えたりしているのが見て取れ、

彼はイヴリンが命がけで産み落とす新しい命を、必ずこの手で取り上げてやらねばと意を決した。


「ヘンリー。私とで取り上げるから、君は側に付いて指示してくれ。

 もしイヴリンと子馬の異変に気づいたらすぐに教えて欲しい」

「そうしましょう」


出来る限りお産に集中できるよう、ロバートとジョーは他の馬たちを移動させ、

目隠し用の仕切りを慎重に設置して安心できる空間を作ってやった。

皆ぴたりと動かず微かな呼吸すら飲み込まん勢いで見守っている。

やがてイヴリンが破水すると、はヘンリーに包帯を貰い、

イヴリンの尾毛を邪魔にならぬよう束ねてやった。

ヘンリーの指示でスチュワートが産道を覗きこむ。

半透明の膜に包まれて子馬の足が見える。

羊水に濁りや出血は認められない――ひとまず安心だ。

あとはイヴリンが順調に産んでさえくれれば問題ないはずだ。


「頑張るんだイヴリン」


スチュワートは無意識のうちにそう声をかけていた。

陣痛に苦しみながら、イヴリンは持ち得るすべての力を注いで、

子馬を産み落とそうと必死に力み続ける。

ヘンリーが懐中時計をみやる。

確かに蹄底は正常な下向き、子馬の前肢2本と頭部が覗き始めた。

だが破水から40分以上が経過しようとしている。

ヘンリーは清潔なガーゼと消毒液を取り出すと、

食い入るように見守る若いふたりに新たな指示を与えた。


「サー・スチュワート、お嬢さん、どうぞこれで手と腕を消毒してください。

 ここまでとても順調ですが、どうやらイヴリンには助けが必要らしい」


スチュワートとが、子馬の前肢をそっと掴み、

陣痛に合わせて少しずつ手前に引いてやる。

集中しているせいか作業自体は大したことないものなのに、珠のような汗がこぼれ落ちる。

慎重に助産を行い、ヘンリーに言われた通り後肢は母体に残して、

あとは自然に産み落とされるのを見届けるばかりだ。

子馬がしっかりと生まれ落ちた瞬間、誰もが歓喜に叫びだしたい衝動に駆られた。

スチュワートが慎重に子馬に顔を近づけ観察するのを皆、固唾を飲んで見守る。


「うん――よし、大丈夫だ。この子はちゃんと自力で呼吸している。

 よく頑張ったな、イヴリン。お前は本当に最高の母馬だよ」


すぐには立ち上がれないイヴリンが、

生まれたばかりの子馬に鼻面を押し付けて体を舐めてやる姿を見せられると、

スチュワートとは抱き合って喜びを分かち合った。

ロバートは目頭を熱くして、ジョーと肩を組んでいる。

ヘンリーは満足そうに微笑みながら、

清潔なタオルで子馬の身体や耳を拭いてやると良いと教えてくれた。

スチュワートがイヴリンの産後の調子を診てやる横で、

は子馬に優しく声をかけながら、丁寧に体を拭いてやった。

このか細い子馬は、それでも力強い生命力に満ちていて、

母馬よりいくらも深い漆黒の毛色を持ち、濡れた黒檀のように輝いていた。

不思議な事に生まれた時からの言っていることを理解しているようだった。

そうして子馬が必死に立ち上がる頃、母子ともに健康な出産を終えられたことを皆で喜んだ。
















そんな幸せな報せを受けた翌週末、約束通りニコルズは妹アリスを伴って邸を訪れた。

アリスはすぐにこの家を気に入った。

なによりロバートとお似合いの年齢だったし、

本人たちも自然と心を通わせたように見て取れたので、

あまりにも微笑ましくて兄姉たちが顔を見合わせて笑ったほどである。

ニコルズが案内せずとも、すべてロバートに任せておけば良いことになったから、

しばし3人は紅茶を飲みながらくつろぎ、

興味津々のニコルズに先週の子馬の誕生劇について話した。


「それで、その子馬の名前はもう決めたのかな?」


スチュワートは首を振った。


「センスの問われる役目だ。

 私は辞退して、にお願いすることにしたよ。

 実は私もまだ教えてもらってないんだ。

 この一週間、あの子馬の名前を聞くのを楽しみに過ごしたくらいだからな」


が恥ずかしそうに笑う。


「あの子馬が生まれた日はね、

 母の手入れしている庭でそれは美しいソーン――さんざしの花が咲き乱れていたの。

 だから私、あの子にトップソーンと名付けたわ。

 この名前を耳にした人は、あの子の生まれた素晴らしい季節を感じずにはいられないはずよ」


スチュワートとニコルズは思わず言葉を失った。

ただそれが最高の名前であることを示したくて、

ふたりはの肩を抱き寄せ、揺るがない友情の抱擁を交わした。






そこへこれ以上驚くことがあるものかと言わんばかりに、

穏やかな静寂をかき分けロバートとアリスが慌てて駆け込んできた。

そしてふたりとも目を見開いてこう叫んだ。


「キャンドルベルの赤ちゃんも生まれそうだ!」






これには大佐はもちろん奥方までもが厩に参じて、

キャンドルベルの出産を熱い眼差して見守った。

大佐の提案で、重要な助産の仕事はロバートとアリスに任じられた。

はサラの手を引いて遠くから見守っていた。サラは柵の中が見たいと訴える。

先日のトップソーンの誕生に立ち会えなかったのが、よほど気に入らなかったのだろう。

だが仕切りの中では音と気配に敏感な母馬がいるのだ。

どうしようかとが考えるより早く、スチュワートはサラに向かって膝を折り、

人差し指を立てると無言で口の前にそれを当ててみせた。

サラはそれが沈黙の約束だとすぐに飲み込み、同じように人差し指を唇の当てて応えた。

するとスチュワートはそのままサラを肩車して、

離れた場所からでも誰よりも仕切りの中が見えるようにしてやった。

サラは静かにしていたがそれでも興奮に目を輝かせている。

ありがとうと口を動かすに向かって、スチュワートは目配せをした。

ロバートとアリスは多少苦戦しながらも、見事に助産の任務をやってのけた。

キャンドルベルの調子もまずまずと言ったところだし、

なによりアリスは生まれたばかりの灰色の子馬をいたくお気に召したようだった。

母馬と子馬に優しく話しかけながら、子馬の濡れた体を拭いてやる姿を見て、

大佐はアリスに名付け親になってみないかと提案した。

アリスは嬉々として、その子馬に“ワイズ”と名付けた。

誰よりも賢く、聡明であって欲しいとの願いを込めたに違いなかった。

やがてキャンドルベルがわが子に鼻面をすり寄せ始めると、

それを待っていたかのように離れた仕切りの隙間から、トップソーンが顔を覗かせた。

仕切りが邪魔してお互いの姿など見えているはずもないのに、

トップソーンもワイズも、相手の存在を自分のことのように感じていた。

































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トップソーンの名前の由来。

ソーンの花が美しい季節に生まれた見事な黒馬。

ちなみにさんざしの花のピークは5月ごろ。

20121121 呱々音