日が暮れ掛かっている。

少しの後ろめたさと我慢していた欲求の大きさに、の心臓は苦く暴れた。

厩の奥に建つ離れからは、馬の世話役であるヘンリーたちの夕食の支度の煙が上がって見える。

どれもこれも懐かしい光景だ。

柵の中へ入り、緊張のせいで最初はなかなか馬に近寄れなかった。

触ってしまったら最後、父親の言いつけをすべて駄目にしてしまうことが解っていたからだ。

ごくりと喉を上下させて、それでも徐々にしか距離を詰められない。

触れたい。でも触れられない。もどかしい――。

突然、後ろからすっと手が伸びる。

は驚いて伸ばしていた手を慌てて引っ込め振り返る。

するとスチュワートが立っているではないか。

まるで臆病な自分の背を支えるようにして、確かな勇気で促すように。

彼はの肩にそっと手を置くと、耳元に顔を寄せて小さな声で囁きかけた。


「私の真似をして」


そう言いながら彼はやはり自分の手を前に差し出し、

は言われた通り彼の真似をして、同じように右手を前に掲げた。

背後からぴったりとスチュワートの身体が付いてくる。

そして一歩、また一歩と馬に向かって歩み寄る。


「大丈夫だ――私とイヴリンを信じて」


スチュワートとの掌に、艶やかな馬の毛並みと力強い体温が伝わる。

懐かしさに涙が出た。

は吸い寄せられるようにイヴリンの首に抱きついた。
















「目は腫れてないかしら」


スチュワートは愛しげに微笑むと「完璧な君だよ」と言った。

食卓に向かってふたりは並んで歩く。

急ぐでもなくのんびりと、勿体ぶるようですらある。


「イヴリンのお腹には赤ちゃんがいるのね」

「ああ。もうじき4ヶ月になる。

 来年の春が楽しみだよ」


スチュワートはまるで我が子の誕生を待ち望む父親のような表情で笑った。


「キャンドルベルのお腹にも小さな命が宿っているよ。

 きっと同じ頃に生まれるだろう。どちらとも美しい子が生まれるはずだ」


本当に楽しみでならぬのだろう。

励まされる思いがした。

ぽっと灯った小さな火が心を慰め、そして温める。


「私……やっぱり馬に乗りたい」

「私もそう思う。君は馬に乗るべきだ」


スチュワートとは互いに見つめ合って、微笑みを交わした。


「実を言うと私もジェームズもいい加減、馬に乗るが恋しくてたまらないのさ」


は恥ずかしそうに俯くと黙りこんでしまった。

何より、自分と同じ気持ちでいてくれたふたりに感謝した。
















晩餐の席で、は父親に自分の本当の願いを申し出た。

父親とはこの2年間、ほとんど口をきいていなかった。

大佐はしばし沈黙していたが、ワインを飲み干すと大きく息を吐き、娘を見据えた。


「まさか500年前のフランスの小娘じゃあるまいし。

 盾を持たせて人を殺すための馬術を仕込むなんて出来るわけなかろう。

 それは解っているな――。だからお前には競技用の馬術を教えよう。

 異存なければ早速明日から始めるぞ。

 全く――お前は誰よりもこの家の血が濃いと見える。

 私や弟以上にな。だがお前が男に生まれれば良かったなどとは言わないぞ?

 女で良い。だからこそには幸せでいて欲しいのだ。

 馬の手綱を握ることでお前の人生が輝くのなら、これ以上私に止める理由はない」


の頬がバラ色に染まる。

母親の方をちらりと見ると、小さく目配せを返してくれた。

よっぽど強く説得してくれたのだろう。

父親はこほんと咳払いをすると、恥ずかしそうに呟いた。


「スチュワートとニコルズもこれで良かろう」


ふたりは押し殺した嬉しさに口端を上げながら礼を述べる。


「さすが先生。懸命なご判断です」

「寛大なご決断にも私たちも心から感謝ていますよ」

「ありがとうございます、お父様…!」


奥方は口元を押さえくすくすと笑っている。

ロバートが嬉々として言った。


「良かったね

 これでやっと姉さんに手ほどきしてもらえるよ」
















懐かしい我が家の味に舌鼓を打ち、一家は久方ぶりに和やかな談笑に興じていた。

蓋を開けてみれば、やはり大佐とて娘が可愛くてしかたがないのだ。

自らの箍を緩めたことによって、心の重荷も少し軽くなったのだろう。

上物のウイスキーを開けて、終始ごきげんだった。

は談話室でサラのつたないピアノに耳を傾けながら、ニコルズにお礼を言った。


「お父様に口添えしてくれてありがとう」


ニコルズは笑いながら首を振った。


「僕よりジェイミーに言ってあげて。

 破門覚悟で先生に食いかかったのは彼なんだ。

 長い付き合いの僕でさえ、

 まさか彼がそこまで無茶な頼み方をするなんて思ってもみなかった。

 ほら。ジェイミーはああ見えて自尊心の高い男だろう?」


は同意するように小さく笑った。


「そんな彼が恩師に向かって譲歩もなしに交渉するなんて誰も思わない。

 もちろん先生だって考えも及ばなかった。

 だがジェイミーはとにかく君がまた馬に乗れるようひたすら先生に懇願したんだ。

 あとは母君と僕の援護だ」

「僕もお父様に頼んだよ」


ロバートが割って入る。


「ああ、そうだねロバート。決め手は君だった」


ニコルズが誉めそやすとロバートは満足そうに笑う。

は感謝と喜びを噛み締めながら、先刻の厩での出来事を思い返して頬を熱くした。

無意識のうちに目線を彷徨わせると、ニコルズが頭を傾けて外をさす。


「ジェイミーなら先生とバルコニーで煙草を吸っているよ」

「ジェームズ」


ニコルズとは友情を確かめるように固く抱きしめ合う。


「さあ行って。サラは僕とロバートで見ておく」


は促されるまま、怖ず怖ずとバルコニーに向かって歩き出した。
















濃紺の空に向かって紫煙が吸い込まれてゆく。

大佐は肺の中から勢い良く煙を吐き出し、それは溜息のようでもあった。


「まったく――スチュワート。私は君を少し見くびっていたようだ」


2人はそれぞれ籐編みの揺り椅子にだらりと身体を預け、煙草を飲む。


「覚悟の上とは言え、先生には随分と失礼なことを言いました」

「過ぎたことだ。気にする必要はない。

 なにより、私が引くに引けないところまで娘を追い詰めていたのは事実だ。

 あの子の幸せが何かなんて、本当はとっくに解っていたんだがね。

 人間は愚かだな――気付かぬふりが出来てしまう」


スチュワートが燻らせた煙が穏やかな弧を描いて消えてゆく。


「ジェイミー。あの子が好きか」

「……私の気持ちだけでは何ともならぬ事です」

「なんだ、ジェイミー・スチュワート。それならば私にも解るぞ」


だが大佐はその先の言葉を咄嗟に喉の奥へ押しやる。

家の明かりのする方へ顔を向けると、穏やかに口を開いた。


「――だ。君に用があって来たんだろう」


大佐は腰を上げると、貝殻を模した灰皿に煙草を押し付け火を消した。

家の中に入ると父親らしい声音で娘と2、3言葉を交わす。

入れ替わるようにバルコニーに現れたのは、やはり娘の方だった。

スカートの裾をはためかせながら、は椅子に腰を下ろしてスチュワートを見つめた。


「ジェイミー…ありがとう」

「頼むから。感謝なんてしないでくれ。

 私は君にとって一番良いと思うことをしたまでだ」

「それでも。あなたのおかげよ。

 私、またあなたといっしょに馬に乗れるのね」


月夜を味方につけた少女は恐ろしく輝いていた。

そればかりか闇さえも従えて、彼女の美しさを讃え、際立たせている。

スチュワートは自分がに見蕩れていることを強く自覚しながらも、

その丸い月のようなうっとりとした微笑みのせいで目が離せなかった。


…」


まるでそれが美しさの誘惑を断ち切る唯一の呪文のように、

彼女の名を呼びようやく頭が冴えてきた。

短くなった煙草を肺いっぱいに吸い込むと、力にまかせて灰皿に押し付ける。

立ち上がるとスーツのボタンを止めながら小さく咳払いをして、自分の気持ちを誤魔化した。


「ここは冷える。中へ入ろう」


手を差し伸べる仕草はまさに紳士そのものだ。

は彼の掌にそっと手を預けると、優雅な猫のように彼に寄り添う。


「お礼にピアノを弾くわ。聴いてくださる?」

「それは嬉しい。リクエストしても?」

「もちろん」

「“英雄”なんてどうだろう」

「とても素敵ね。今夜にぴったりだわ。喜んで」


今は軽快に跳ねる音こそが、この家に集う人々の心を表現するには望ましいに違いない。

の奏でるピアノはそれでもスチュワートへの感謝の気持ちを表していた。

家に、久方ぶりに素晴らしい夜が訪れた。



































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少しずつ意識し始めるふたり。

優しく見守って助けてやるニコルズ(笑)

20121119 呱々音