気がつくとあの劣悪な捕虜収容所にいる。

  彼は飢えと寒さに死にかけている。

  するとどこからともなく馬のいななきが聞こえる。

  そこでいつも、彼の心は小さな希望を覚える。

  トップソーンに乗ったニコルズが彼を探して乗り込んで来た。

  彼らはスチュワートの名を呼ぶ。

  だがここだと叫びたくても、瀕死の彼は声が出ない。

  ひゅろひゅろという息を吐くのがやっとだ。

  ドイツ兵がトップソーンとニコルズを追いかける。

  それでも彼らはスチュワートの名を呼ぶことをやめない。

  いますぐ逃げろと叫びたかった。

  もどかしくて気が狂いそうだった。

  でも声は伝わらない。

  彼らはついにドイツ兵に囲まれてしまう。

  鉄の雨が彼らの肉と骨を容赦なく撃ちぬく。

  真っ赤になった彼らの身体は力なく地面にくずおれる。

  スチュワートは叫ぶこともできなければ、這っていく事もできない。





























スチュワートは相変わらず悪夢にうなされる日々を送っていた。

は彼がそんな自分を弱い人間だと責めていることを知っていた。

裁判所への復職も認められたし、乗馬も再開した。

人々の前では毅然とした態度で、

誰に対しても礼節を重んじるジェイミー・スチュワートそのものだった。

だがを前にすると、彼の懸命な取り繕いは意味をなさなくなる。

彼女は彼を理解していた。

スチュワートの心の傷が癒えるとしたら、の隣でしかありえない。

黙ってなにも言わず、ふたり寄り添っているときこそ彼の安息で、

なににも縛られない解放の瞬間だった。

大切な親友と、わが子のように可愛がってきた愛馬と生き別れた哀しみを、

ふたりは静かに共有していた。

希望はある――との結婚だ。

だがいまのこんな状態の自分と結婚したがる女性がどこにいるだろう。

情けない夫にはなりたくないという思いが、あと一歩のところで彼を制していた。

は咎めない。

ただ彼の隣にいられるだけで幸せだった。




















少将の持ち帰った一報が、にわかな希望をもたらすこととなる。

帰宅するなり庭先で馬と戯れていたとスチュワートを呼び、

ロバートとサラも同席させた。

少将はこの話を、どうしても全員に聞かせておきたかった。






陸軍病院の医師マーチン中佐――当時は少佐――から奇妙な話を聞いたと言う。

諸用で訪れた陸軍本部で、騎兵隊大連隊を統べる少将を見かけた途端、

話しておきたいと申し出たそうだ。

マーチン少佐はドイツ兵と睨み合う中間地点で、寝る間も惜しんで傷病兵を診ていた。

雪がちらつく晩の出来事だった。

その日は前線に立つ兵士たちが、ドイツ兵の散布した毒ガスによって目や喉をやられていた。

突撃も相まって、やはり多くの負傷兵が運び込まれたため病床は足りず、

軒先で手当を受け寝かしておくほどだった。

そんな中、ひとりの兵士が人も立たぬ中間地点の暗闇で、

有刺鉄線に阻まれて身動きの取れなくなった馬を救出したと言ってきた。

獣医隊などもうとっくに残っては居なかったし、

マーチン少佐はもちろん人手不足のため多忙だった。

ちらっと見ただけで、その馬が破傷風に掛かっていることがわかった。

馬にとって破傷風は致命的だ。

苦しむまえに殺してやるのが馬のためだと判断した。

するとそこへ、どこからともなく人だかりの向こうから、

フクロウの鳴声を真似たような笛の音が聞こえてきた。

馬はそれを聞くと興奮したようすで音を追った。

その先には昼間の毒ガス戦闘で目を負傷した若い兵士が立っていて、

このボロボロに汚れた奇跡の馬は、確かに自分が故郷のデヴォンで育てた馬だと言う。

アルバート・ナラコットという青年だった。

4本の白い足、額に白いダイヤの模様――その馬を探すために彼は従軍したのだという。

馬の名をジョーイという。

彼が名を呼ぶと、体中が痛んで辛いはずであろうその馬は、喜んでみせた。

連隊中の人間がジョーイを助けたいと願っていた。

マーチン少佐は、一か八かの治療を引き受けた。

それは終戦間際に起こった奇跡だった。

ジョーイは見事に生命の危機を脱したのだ。

だが将校の馬以外は競売にかけられてしまうというのが、終戦直後の決まりだった。

連隊の仲間は皆、なけなしの小銭をカンパして、

ナラコットのためにジョーイを競り落とそうと必死だった。

だがひとりの老人が誰も太刀打ちできぬような破格の値段でジョーイを競り落とした。

老人にはジョーイを競り落とさなければならないわけがあった。

戦中、その老人と孫がジョーイと黒い馬の世話をみていたのだという。

亡くなってしまった孫の「2頭に会いたい」という唯一の願いを叶えるためだった。

だが老人はジョーイがナラコットと離れたがらないのを見ると、

心を打たれたようすで、金も受け取らず手綱をナラコットに手渡した。

そして青年と馬は、壮絶な前線から故郷デヴォンへ帰って、無事誓いを果たしたという。






スチュワートとロバートは言葉を失ったまま互いの顔を見た。

明らかな戸惑いに、ですらなにから話していいかわからなかった。


「ジョーイは、生きているんですね」

「そのようだ」


少将もたちから、にわかに聞き及んでいただけに驚いた。

ニコルズの手紙に綴られていたあの名馬。

スチュワートにしてみれば、同じ戦いを共にした仲間。

そして言うなればニコルズの忘れ形見も同然だ。


「デヴォン、とおっしゃいましたね。

 フランスへ渡る前、ジェームズはたしかに一枚の絵画を送っています。

 フランスには持っていけないだろうと言って笑っていた…

 ああ――そうだ、ナラコット。アルバート・ナラコット。

 ジェームズは彼に贈ると言っていた」


興奮と動揺に記憶の扉がこじ開けられる。

はスチュワートの手を無意識に握りしめていた。

できるだけ平静を努めて、が口を開く。


「…お父様、その老人は――“2頭”と仰ったのですね」

「マーチン少佐の記憶が確かなら、2頭と言ったそうだ。

 ――。私も同じ事を思った。

 だが、いたずらに希望を持つべきではない。

 ただし私個人の意見としては、確かめてみる価値はあるとは思う」


はしばらく何かを考えていたが、

決心を決めたようにスチュワートの目を見据えてはっきりとした口調で言った。


「――ジェイミー。

 私思うの。あなたは一度、ジョーイに会うべきだわ。

 ジェイミー以外にもあの悲劇から生還したものがいるってことを、

 実感するためにも」
















その数日後、とスチュワートの姿はデヴォンの片田舎にあった。

駅の近くに宿を取ると、散歩がてらイズリーの小さな町を見て回った。

道すがら小さな教会に足を止めたり、流れる小川に目を凝らしたりしながら、

ナラコット氏の家まで、ふたりはまるで導かれるように目的地を目指した。

牧場地帯の緩やかな坂を登り切ったところに、石造りの小さな家がある。

裏手には豊かな牧草地と見事な畑が続いていた。

柵を入ると、どこからともなく1羽の元気なアヒルが番犬のように走ってきた。

スチュワートは反射的に、を守るように自分の後ろに隠す。

たかがアヒルである。

しかしそのアヒルはけたたましく鳴きながら、突進してくる。

スチュワートのズボンの裾にくちばしを立てると、

遊べとせがんでいるのか威嚇かも解らぬほど激しく首を振った。

とスチュワートは思わず感心したようにアヒルに見入ってしまった。

鳴声を聞きつけたこの家の主らしき男が顔を出した。

彼は足が悪いらしく、鋤を片手に慌てて駆け寄ってアヒルを追い返した。


「許してやってくれ。

 こんな綺麗な格好をした人がうちに訪ねてくるなんて、無いことなんでね」


そう言いながら、どう見てもよそ者であるふたりの姿を怪訝そうに眺めた。

スチュワートは帽子を脱ぎ、一礼した。


「失礼。挨拶が遅れて申し訳ありません。

 私はジェイミー・スチュワート。彼女は婚約者の

 アルバート・ナラコットさんはこちらにいらっしゃいますか」

「――テッド・ナラコットだ。息子なら裏で畑仕事をしてる」

「急な訪問が失礼なのは重々承知しています。

 駅前に宿を取っています。

 お約束を取り付けて頂けるなら、日を改めてまたこちらへ、」


主人は顔をしかめると首を振った。


「そんな必要ない。呼んできますよ。

 ――ところで要件はなんです」


それに答えたのはだった。


「ジェームズ・ニコルズ大尉と、ジョーイについてのお話ですわ」


主人の顔が微かに驚きをたたえている。


「……すぐに呼んできましょう。

 汚い家ですが、どうぞ中へ。家内と嫁に茶を淹れさせます」



































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責任感の強い人間ゆえの苦悩があるのかなあと思って。

20121127 呱々音