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それはいつもと変わらない平穏な朝のことである。 ジョンは寝ぼけ眼で階下へ降り、日常的にそうしているようにテーブルの上を見る。 明らかな異変を感じて眉を潜める。 レンジの中やオーブンの中、冷蔵庫、果ては冷凍庫の中も見るが――。 ――おかしい。 物音につられるようにシャーロックも寝室から出てきて朝の挨拶を述べた。 だがジョンは眉を寄せたままだった。
「なにが」
くるりと椅子に着地し新聞を開く。
「何もないなんて事はありえない。 僕はを家政婦として雇ったんだぞ? もしそれが事実なら職務怠慢で解雇しているところだ」 「いや、シャーロック。本当になにもないんだ」 「おい…ジョン…!」
だがこれではっきりした。 今朝のは朝食の準備はおろか、シャーロックの手の届く場所に 新聞を置いておく余裕すらなかったという事だ。
律儀でマメなにしては珍しいし、こんな事は今まで一度も無かった。 ――昼休みにでもお詫びのメールが届くかもしれないな。 ジョンはちらりと時計を睨む。
君は適当に残り物のストックを温めて食べてくれ」
そのまま二階へ駆け戻り、ものの3分で身支度を整える。 男は楽だとつくづく思う瞬間だ。 足早に階段を駆け下りると、レンジの中に頭を突っ込んでいるシャーロックに短く挨拶を残し、 玄関のノブに手を掛ける――が。 やはり少し気に掛かったので、一応出掛けに地下室のドアをノックしてみた。 2回――音沙汰はない。 きっともう家を出てしまったのだろう。 ジョンは気を取り直すと、足早にフラットを後にした。 臨時で頼まれた診療の仕事が彼を待っているのだ。 せっせと足を動かしながら、の事がどんどん心配になっていく。 病院についたらメールを入れておこう――ジョンは独りごちた。
というよりも、それどころではなくなったというのが正しい。 今朝は玄関ドアの開閉の音も聞こえなかった。 時間が無くても彼女ならメモくらい残すはずだ。 携帯の液晶をにらみ、メールを受信するが新着はない。 何もかもがらしくない。 ――となると結論はひとつだ。 まずは着替えを済ませ、ヒゲを剃る。 飾り棚に陳列してあるエジプト風の小壷をひっくり返して、 から預かっていた部屋の鍵を取り出す。 携帯電話と共にガウンのポケットへ。 足早に階段を降りると、先ほどジョンもそうしたであろう 地下室への扉を――の部屋をノックする。 2回――応答はなし。 電話を取り出しの携帯へ掛けてみる。 すると微かだが――階下から着信音が聞こえて来る。 シャーロックは合鍵で施錠を外すと、横柄に、 けれども出来るだけ音を出さぬよう慎重に階段を降りた。 2枚目の扉を静かに開けると、シャーロックはすん、と鼻を鳴らす。 ――マーク・ジェイコブスのデイジーとセルジュ・ルタンスのダチュラノワール。 相変わらず淡い花のような香りだ。それに少し鼻に甘い。 “の香り”で満ちたここはただの女の部屋でしかない。 実に忌々しいことだが――好みの香りではあると密かに思う。 案の定カーテンすら開いていない。 暗闇を睨んで、彼は静かにベッドに近づいた。 が骨董市で買ったと言っていた 鈴蘭を模した小さなテーブルランプを付けてやれば オレンジ色の柔らかい光が暗闇を照らし出す。 ――やはり。 予想していた通りだった。 ベッドの上には“病人”が居る。 “病人”ことは明かりに促されるように薄ぼんやりと目を開いた。
――の顔は赤く、明らかに熱が高い。朦朧としている。 この様子では熱を計るどころか起き上がることもままならぬのだろう。 薄っすらと潤み、不安げに彷徨う瞳にわざと捕まるようにして、 シャーロックは顔を近づけ目線を差し向けてやった。
今ハドソンさんを連れてくる」
そして実に手際よく、熱を計り、薬を飲ませ、身体を拭いて着替えさせてやった。 ドアの外で待っていたシャーロックを安心させるように、 ハドソン夫人は穏やかな声音で報告をしてやった。
「あとはジョンが帰ったら診てもらいますよ」 「でもあなた良く気がついたわねえ、さすがだわシャーロック」 「単純なことです。こんなもの推理とも言わない」 「でも…心配よね…。 お友達とランチに行く予定を入れてたんだけキャンセルするわ」
胸元が開いていないところを見る限り、誘惑する必要はないから友人は女性。 リバティまで買いに出向いたその労力を考えると、 しばらく会っていない大切な友人。 少しの見栄もあるがまあ許容範囲だろう。 利き手の小指には青い万年筆のインクが付いている。 つい先ほどまでメッセージカードを書いていた証拠だ。 貴女を呼びに行った時、玄関にリバティの紙袋がぶら下がっていた。 おそらくささやかながらプレゼントがあるんでしょう。 袋のサイズから見て手袋か、ストールか――とにかく」
ハドソンさんはどうぞ自分の用事をしなさい」
そして彼女は頼みもしないのに色々な指示を書いたメモを残して行ってくれた。 しっかりと着飾った夫人を玄関まで見送ると、 シャーロックは自室から分厚い本とPCを持参して、 寝息を立てるの側に座って長居を決め込んだ。 薬が効いたのだろう。 先刻まで苦しそうだった呼吸は、少し落ち着いたようだ。 随分悪そうだから昨夜あたりから辛かったのだろう。 ――メールの一通でもよこせばいいものを――。 眠りに浸りながらも、時たま寝苦しそうにしている。 シャーロックはその度に本を閉じ、 家を出る前、夫人が教えてくれた通り額のタオルを絞ってやった。
パチパチと鳴っているのは暖炉で燃えている薪の音だ。 辺りを見渡せば、すぐそこにシャーロックの姿を見つけて少し驚いた。 愚かな事を言う前に、生き返った脳を使ってみる。 思いの外、思考は大丈夫そうだ。 現状の把握に努める。 そうして徐々に意識がはっきりすればするほど、 は申し訳ない気持ちに襲われた。 と同時に、言い表せぬほどの感謝の気持ちが胸いっぱいにこみ上げる。 述べたい言葉はいくつも浮かんだが、 慎重に選んでひとつに絞った。
彼は名前を呼ばれたが反応せず、そのままPCの液晶から目を離さずに、 しばらくタイピングを続けた。 切りのいいところまで打ち終わると、そこでようやくPCを閉じ、 青緑に透き通るガラス玉のような瞳でを見つめた。
――ハドソンさんの代わりだ」
風邪の見せたまやかしで無いのは確かだった。 シャーロックは額に乗ったタオルをつまむと洗面器に放り込み、 代わりに自らの掌をそっと額にあてがった。 たくましくそして繊細な手が、 視界を塞ぐように優しく翳されて、は反射的に目を閉じた。 そうする事で、更に彼の触れる感触だけが五感を満たす。 どうやら熱は下がったようだ。
今まで彼が座っていた椅子の上には、今すぐこれに着替えろと言わんばかりに 丁寧に畳まれた着替えが置いてあった。 思わず頬が緩んだ。 シャーロックがハドソン夫人の作っておいてくれた食事をレンジで温めて 再び戻ってくる頃には、はすっかり着替え終わっていた。 オートミールにフルーツ、小さなラザニア。はちみつを垂らしたミルクティ。 それらをトレーに乗せてせっせと運ぶシャーロックを見て、 は笑い出しそうになるのをなんとか堪えた。 もちろんせっかくの彼の厚意を笑いたいわけではない。 自分のためにらしくない振る舞いをしてくれているシャーロックを 心底愛しく思えばこそだ。
「…ずっと頭を使ってた」
はオートミールを抱えながら小さく笑った。 彼にフォークを差し出す。
どうやら風邪を引いていたようです。 熱はもう下がりました。
慌てて仕事場を後にしたのは言うまでもない。 今朝もっと熱心にドアをノックすれば良かっただとか、 家で電話を掛けてみれば良かっただとか、 大概考えつくであろう自責の言葉がジョンの中に蔓延した結果、 彼はなぜか――ケーキを買って帰宅した。 ――僕はお父さんか! そう自分に吐き捨てる頃にはすでに家に着いており、 仕方なくそのケーキを手に抱えたまま、の様子を見に階下へ潜る。 ジョンの登場に嬉しそうに笑ったの顔色を見る限り、 大分回復したようだった。 ベッドの上のトレーには平らげられた食事の後が見て取れた。 シャーロックはジョンの手に収められた小さな箱を睨んで目を細める。
「そうじゃない!」
お詫びか、お見舞いか――とにかくこの、 君の好きなチーズケーキをもらってくれると嬉しいんだけど」 「“お医者様”が駄目って言っても食べるわ」
ケーキを食べながら、他愛もないお喋りに興じる。 シャーロックとジョンの声を聞くだけで、 は自分の中に温かくて力強い気持ちが芽生えるのを強く感じた。 当初の予定より少し早めに帰宅したハドソン夫人も加わって、 の顔色はすっかり回復したようだった。 ひとしきりの後、ジョンの診断も今夜は寝ていれば大丈夫と下された。
先に戻ると言って部屋を後にした。 は再び布団に身体を沈めて、 いま自分がとても穏やかな気持ちで、心身ともに満たされているのを実感した。
私もう大丈夫だから。シャーも上へ戻って?」 「確かに24時間という時間は貴重だが、 無駄になったかどうかは僕が判断することであって 君が決めることじゃない」
伸ばした手は再びの頭の丸みをそっと撫で、 何か特別な壊れ物を扱うかのように、そっと額にキスを落とした。
シャーロックは小さく微笑んで手を握ってやった。 不慣れだし、実際どういう効果が望めるのかなど 今まで深く考えたことなどなかったが。 ――今はただ“そうしてやりたい”と思ったから。 |
感冒やら熱やらにうなされている時に独りって
ものすごく淋しいし悲しくなりますよね。
シャーロックは孤独というものの良さも悪さも知っているかなーと思って。
だから彼女が目覚めたとき淋しい想いはさせたくないなと
無意識のうちに甲斐甲斐しく世話を焼いてあげたんでしょう。なんて。
20120801 呱々音
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