ロンドンのビル建築は、今まさに最盛期を迎えている。

このビルもその象徴だ。

空に向かってそびえ立つ優雅で前衛的なこの建築物の屋上には、

空中庭園が設けられている。

建物の外観からは予想もつかぬほど見事なイングリッシュ・ガーデン。

植え込みも草花もイングランドの誇る丘陵地帯を意識して創られている。


「まるでピーターラビットの世界ね」


真っ白なパラソルの下でアフタヌーンティーに興じながら、はそう述べた。

目の前に座る男は大きなサングラスをしている。


「この国の人間はみんなあのうさぎの話が大好きだ」


気のない声でそう言いながら男は口端を上げた。

この庭園には彼と彼女しか居ない。

は手元の携帯を見る。


「そろそろ行かなきゃ。

 美味しいお茶だった。ごちそうさま」

「――あの男はどうしてる?」

「元気よ。彼女が生きてたから」


男は満足したように声をあげて高らかに笑った。


「そりゃあいい。

 で?肝心の君たちの仲はどうだ?

 なにか目覚しい進展でもあったかな?」


この男がひどい人間なのは十二分にも理解している。

だからいちいち取り合って向きになったり、

腹を立てた勢いで無闇に挑発に乗るのは、ただの無駄というものだ。

は席を立つとクラッチバッグを小脇に抱えてゆっくりと歩き出す。


「なんなら兄さんが奪ってやろうか?

 今の世の中インセスト・タブーもゴムを付けたら無効だろう」

「アイリーンも私を調教したがってる」

「ああ…そういえばそんな事言ってたな」


男の声は途端につまらなそうな声に変わる。

はくるりと振り返ると、見送る彼を見据えながら後ろ向きに歩き続けた。


「変人に好かれる運命みたい」

「誇りに思えば?」


再び向きを変えると、は出口に向かって颯爽と足を動かした。

去り際の一言は彼への挨拶だった。


「さよならジム・モリアーティ。

 紅茶とお気遣いをどうも」


モリアーティは愉快そうに笑った。

ガラスの向こう、エレベーターに消えていったのは実の妹。

まあ――彼女自信はその事実を頑なに認めようとしないのだが。

彼は胸ポケットから携帯電話を取り出すと、一通のメールを打って紅茶を飲んだ。

事のあらましは――あのプールでの事件まで遡る。
















“悪”という物が形をもって存在するとしたら、それはおそらくこの男のことだろう。

――ジェームズ・モリアーティ。

世界中の悪党たちがこの悪を頼って、悪に近づき、悪に跪いて頭を垂れる。

悪に教えを請い、悪に愛される方法を模索する。

自らをコンサルタント犯罪者と名乗り、

緻密さの上に築きあげた犯罪の巨塔の最上階にしつらえた、

髑髏の玉座に鎮座する影の首謀者。

シャーロック・ホームズはそんな男から目を付けられていた。

だからこそ招いた事件――いわゆる「大いなるゲーム」と呼ばれるものだ。

もちろんこの名は、事後ジョンが付けたに過ぎぬのだが。

シャーロックとモリアーティの危険なゲームは関係ない人間まで巻き込んで命を弄ぶ。

しかし悪は気まぐれだ。

「大いなるゲーム」に関して言えば、

ルールの主導権は常にモリアーティの手中にあって、

彼はシャーロックの弱みも尽く見抜いて利用した。

爆弾のついたベストを着せられたジョンと、モリアーティを銃で威嚇するシャーロック。

モリアーティはふたりを殺すつもりだった。

――だがそこへ入った一本の電話で、事態は急変する。

抹消へ向いていたモリアーティの狂気の矛先は保留となり、

彼らは一命を取り留める事となった。

ではこの時の話から始めよう。

テレビに向かって散々怒鳴り散らしていたくせに

「ちょっと出かけてくる」と言って家を出ていったシャーロックのことが気になって、

は彼のノートPCを開いた。

案の定、モリアーティへのメール送信がつい先刻まで続いていた事が見て取れる。

だがこれはわざとだった。

でなければ立ち上げたソフトの履歴を

パスワードも掛けずに残して家を出るなんてこと彼はしないだろう。

が見つけると知っていたのだ。

もちろんいつだってその可能性があることも彼は重々承知している。

シャーロックが望むことはただひとつ――「来い」

そしての介入には多少の時差が必要だという意味だ。

――正当に乗り込んでは駄目。それから銃が必要だ。

はシャーロックの枕元のベッドの隙間に手を差し込み、探していたそれを引き抜いた。

小銃はの小さな手にも容易かったが、

軽いはずのそれはずしりと冷たく掌に質量を感じさせた。

――覚悟を決めなくては。

逼迫の状況に陥った時、誰の命を犠牲にするかなど、答えは容易いのだから。
















電話口の相手に話しかけながらモリアーティが指を鳴らすと、

シャーロックとジョンの向けられていた銃口はたちまちに姿を消した。

無数の殺意の気配が音もなく闇に溶け――。

だがここで再び予想もしなかった事が起こる。

蹴破るようにドアが開き、モリアーティが現れたのだ…その手にの腕を掴んで。


「そうそう一番大事なことを言い忘れてたよ」


引きずられるようにプールサイドを滑り、抵抗はほとんど意味をなさず、

モリアーティはシャーロックと自分の間にを立たせた。


「君とのゲームに夢中になってたけど…実は今回ちょっとした感動があったんだ」


腕を捻り上げられて、は小さく悲鳴を上げる。

モリアーティはたっぷりと勿体つける。


「だが肝心な相手はシャーロック――君じゃあない。

 この娘だよ。君の大切なペットの子猫ちゃんだ」


シャーロックの目に極度の焦りと不安の色が滲む。

と目線が絡みあう。

痛いほどに身を案じてくれている――は強くそれを感じ取った。

大きな溜息を吐くと、背後の凶悪な男に向かってうんざりとした口調で話しかけた。


「銃はもう取られてるんだし、逃げるつもりもない」

「うん知ってるよ」

「…このいかにもヒロインですみたいな拘束、どうにかならない?

 話に集中出来ないわ。っていうかそっち向いた方がいいんでしょ?」

「一理ある」


モリアーティがなんの躊躇いもなく腕を解いたものだから、

フロアにへたり込んでいたジョンは無言の驚きに目を見開いた。

はモリアーティの目を見据えながら、ゆっくりと後退りした。

銃を構えているシャーロックも同じように

モリアーティを睨んだまま、腕を伸ばしてを迎えに行く。


「耳の穴かっぽじってよく聞いとけよ?

 ――僕は君のお兄さんだ」


この上ない喜びを打ち明けたと言わんばかりの笑みを浮かべて、

モリアーティは今この場に最も相応しくない冗談を口にした。

なんの悪ふざけであろうか。

全く理解できなかった。

3人は互いの顔を見合わせる。

だがやはり何も理解できなかった。

なんのリアクションも返ってこないことに苛立ちながら、モリアーティが不満を漏らす。


「ああもう、もっと喜べよ!

 感動的な兄妹の再会なんだから!」

「…私に兄なんか居ないわよ?」

「そう!それ!そういうリアクションだよ。

 やっと解ってきたね」


嬉々としたモリアーティは彼が用意していた最高のシナリオ通りに物語を始めた。


「父親に聞いてみるといい。

 そうだ、なんなら今ここで電話を掛けたらいいんじゃないか?

 彼も驚くだろう。

 なんせ僕は死産だった……ということになっているからねえ。

 全く――取り上げた産婆はひどい悪党だよなあ。

 もちろんもうとっくに始末はついているけどね。

 ああいう女には敵が多いから…おっと話を戻そう。

 とにかく、ハァイ。お前の血の繋がった実の兄さんだよ」


ジョンとシャーロックは同時に顔をしかめた。


「ひどい話だな」

「ああ、シェイクスピアも真っ青の喜劇だ」


肝心のはと言えば――。

…飽きていた。

と、言うより…呆れていた。

それから徐々に腹が立ってきたとようだった。


「まず証拠がない」

「あるさ。喜んでDNA鑑定しよう」


はぐるりと目を回すととてつもなく深い溜息を吐いた。


「そんなもの何百回やったって貴方のさじ加減じゃない」


モリアーティの手にかかればロイヤルファミリーとだって実の兄妹になれる。


「だからとりあえず父親に電話してみろよ」

「それは構わないけど!

 でも仮にジェームズっていう死産の兄の

 死亡証明書が出てきたとしても、

 貴方ならそんな事実簡単に調べがつくんだし

 名前も顔も変えられるし出生地だって変えられる。

 だから私は貴方が提供するどんな情報も信じない。

 私が貴方を実の兄だって信じる理由にはならないわ」


モリアーティはイライラと地団駄を踏んだ。


「でも!兄なんだって!」

「だから!信じないって」


ふたりの声がプールサイドにこだまする。

それらは闇夜に吸い込まれ、再び静寂が訪れた。


「参ったな…自分の万能さがこんなところで裏目に出るなんて」


モリアーティは絶望と意外な展開に首を傾げている。

これもシナリオなのだろうとは見込んでいる。

この状態では何を言っても信じて貰えないという事も、

頭のいい彼なら概ね理解していただろうし、したはずだ。

彼は面白くなさそうに瞬きをする。


「いずれ認めないわけにはいかなくなる」


奇妙な笑みを残して、モリアーティは今度こそプールサイドを後にした。






シャーロックはすかさず手を伸ばすとの顎を捉えて左を向かせ、目を細めた。


「…殴られたのか」

「モリアーティじゃないわ。

 狙撃しようとしてた部下の方。止めようとして」


口の端が切れているのか少し赤い。

シャーロックは痛ましげに顔をしかめると、親指でそっと腫れた場所をなぞった。


「痛むか」


は「大した傷じゃない」と首を振った。


「――うちへ帰ろう…ジョンに診てもらえ」


は微笑んで頷いた。

座り込んでいたジョンに手を差し伸べると、彼は苦く笑って手をとった。


「なんだか僕らは3人は――独特な“兄”に…、好かれるタイプみたいだ」


ぽかんとしていたが思わず声を押し殺して笑うと、

ジョンも自分が口にした皮肉に苦笑して、困ったように首を振った。

このどうしようもない現実を憂いたシャーロックもついに諦め、

呆れたように破顔した。



































next


















―――――――――――――――――

どんな事実でも偽造できるんでしょっていうスタンス。

モリアーティに限らず全体的にお兄ちゃんたちは片思い状態。

20120729 呱々音