「大学なんてつまらないわ」


黒塗りの高級車の中から、気まぐれな雨に濡れるロンドンの街を見るのは嫌いじゃなかった。

今の気持ちをそのまま繁栄したかのような、有り触れた物憂い。

もしフランス人ならアンニュイ――そう表現するべき場面に違いない。

隣に座る人物は相変わらず真意の読み取れない声でやんわりとなだめた。


「まあそう言うな。君ならわけ無いだろう。卒業はしておけ」


彼の不思議な目を見つめて、ひとつ頷く。

これにもまた彼は不思議な笑みで応える。


「良い子だ」


ベイカー街に差し掛かり、車はなめらかに止まる。


「送ってくれて助かったわ。ありがとう――マイクロフト」

「どういたしまして。また楽しい話を聞かせてくれ」


車を飛び出し、小走りに221Bの扉めがけて走りこむ。

入り際に背後を振り返ったが、やはり黒塗りの高級車は跡形もなく消えていた。
















多少の雨水を払いながら2階へ向かうと、

予想通り――暖炉の火は赤々と燃えていた。


「ただいま」

「ああ、おかえ――」


ジョンがあまりにも奇妙な顔で凝視するものだから、

はその細い首を傾けて「なあに?」と甘い声で微笑みかけた。


「……あ……いや、君のその――どうしたのその格好」


肩の出た柔らかなシフォンのブラウスにハイウエストの黒いタイトスカート。

髪も上品にセットされ、靴は新品のブランド物だ。

彼女は普段からフォーマルでシックな物を好んで身に着けてはいるが、

こんな平日の昼間から、ここまでの身嗜みというのは珍しい。

ジロジロ見るのが失礼な事ぐらいもちろんジョンはよく理解しているが

それでもどうしても頭の先から足の爪先まで、何度目線で往復したか解らない。

は急に眉を垂らすと不安げに胸に手を当てた。


「嘘やだ…!似合ってなかったかしらこの格好」

「いやものすごく良く似合ってるよ!ってそうじゃなくて!」







「マイクロフトだ」







シャーロックが事も無げに結論づける。


「マイクロフト…?なんで君のお兄さんが出てくるんだ」


ジョンは更に顔をしかめ、今度はとシャーロックの間で視線を交互に動かした。

デスクの上でタイピングを続けながら、シャーロックはさらりと述べる。


がマイクロフトの所へ仕事をしに行く日だ」

「仕事…ちょっと待ってくれシャーロック、仕事ってなんだ」

「仕事だよ」

「だから…!」

「スパイ業務だ」


淀みなく軽快に動き続けるシャーロックの指先は、

今はそれだけで容赦なくジョンの心を置き去りにした。


「スパイ業務って――それ僕が断ったやつか」


はにっこりと微笑む。


「シャーロックの許可は取ってあるわ」

「許可も何も僕が行けと言った」


ジョンの口が言葉を失って喘いでいた。

そんな姿がかわいそうになって、は種明かしを始める。


「スパイって――そういうスパイじゃないわ。

 強いて上げるとしたら私の作っている献立の話。

 マイクロフトは貴方たちが食べた物を知りたがってる」

「まるで本当に“お母さん”だな……」

「気持ちの悪い話だ」


軽蔑を込めて吐き捨てた探偵は、PCを閉じるとすっくと席を立ち、

容赦なく机を踏み越えて、長いソファに寝転んだ。


「もちろんそういう話もするけど――ジョン、本当はね。

 私マイクロフトの所で仕事を教えてもらってるの。

 大学を出たら国に務めないかって提案してくれて。

 私にはそういう才能があるからって。

 もちろんそうするって決めた訳じゃないけど、

 何事も経験だからって。インターンみたいなものよ。

 マイクロフトの仕事の都合にもよるけど、

 私には学校もあるし、週に1日程度」


ジョンはいくらか安堵し長い溜息を吐く。

可愛い妹分の表情を見れば、

これは彼女にとって楽しい仕事の部類に入るのだと悟って諦めたように微笑んだ。


「教えてくれれば良かったのに。――君もだシャーロック」


睨まれたからと言って特別何かを感じる男ではないことくらい十も承知である。


「そうだシャーロック。

 もうひとつハッキリさせておきたい事があるんだが、」


開き直りがジョンの背を押したようだ。

嫌な予感を察知したシャーロックは、

五感の機能を停止させようと頭の下からクッションを引き抜くと

そのままぎゅうぎゅうと顔を覆う。

ジョンは自信を得たかのようにきりっと眉を上げ、

予てから彼の心中に支えていた疑問の礫を投げかけた。


「君たちは付き合ってるのか?」

「それ私も聞きたいわ」

「ほらもこう言ってる――なんだって?おい…勘弁してくれよ」


顔を顰めながらシャーロックとを交互に見比べる。

ジョンが察する限り、このふたりの間には“何か”があった。

あったのだが――どうやらその先の“出来事”がないらしい。

シャーロックはだんまりを決め込んでいる。

ジョンが何かを言い出す前に、は抜け目なく助け舟を出した。


「あまりいじめないであげてね。

 無理強いは良くないわ。私もしたくない」

「――君は人が良すぎるよ。

 全く…良く出来た子だ…。

 おいシャーロック!少しは見習ったらどうだ」


ガミガミと説教を垂れている父親のような気持ちになった。

これは宜しくない――というか、勘弁願いたい。

シャーロックは相変わらず外界との繋がりを拒んでクッションと口づけしているし、

は今朝作り置きしておいたクロテッドクリームを取り出して、

マイクロフトがお土産に持たせてたであろうスコーンに塗ってせっせとおやつを作っている。


「食べる?」

「…………ああ」


いつもそうだ。すっかりのペースになったと思ったら、紅茶の時間。

だが悪い気がしないというのは、彼女が持って生まれた才能だろう。


「シャー」


彼のことを短くそう呼ぶのもだけだ。

シャーロックはクッションの隙間からちらりとティーカップの存在を確認すると、

ガバっと身体を起こし優雅にティーを受け取った。

そこには微かにぶつかり合う茶器の音と、穏やかな静寂があった。


「で――君たちは何をしたんだ」

「キスよ」「キスだ」

「き…すって……あのキス」

「そうね」「そうだ」


聞かなければ良かった!そして聞いても理解出来なかった!

というのがジョンの心の叫びである。

そうだった――これは一般人じゃない。

よりにもよってシャーロックとの問題なのだ。

どこから突っ込んだらよいものかも咄嗟には判断が付かなかった。

言葉を失うジョンの目の前で、今度はシャーロックが開き直っている。

あるいはその逆か――とにかく。

あの女性どころか生きている人間にすら興味を抱かない変人シャーロックと、

上品で美しく大層モテるくせに男性経験はゼロのが、

その場の雰囲気だけでキスするなんて有り得ない。…と思う。

それどころか普段となんら変わらない態度を装って見せる目の前のふたりが

若干心配にすらなってきた。


「紅茶のおかわりをもらえるかな

「ええもちろん」


もしこのふたりが結婚なんかした日にはもう――。

ジョンは自分の怖ろしい考えに失笑し、心のなかで十字を切った。

そして彼はもう、ただただ赤い液体を喉の奥へと飲み下すことしか出来なかった。



































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もとは短編だったのですが、連載にして仕切りなおしてみました。

お付き合いくだされば幸いです!

20120728 呱々音