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「大学なんてつまらないわ」
今の気持ちをそのまま繁栄したかのような、有り触れた物憂い。 もしフランス人ならアンニュイ――そう表現するべき場面に違いない。 隣に座る人物は相変わらず真意の読み取れない声でやんわりとなだめた。
これにもまた彼は不思議な笑みで応える。
「どういたしまして。また楽しい話を聞かせてくれ」
入り際に背後を振り返ったが、やはり黒塗りの高級車は跡形もなく消えていた。
予想通り――暖炉の火は赤々と燃えていた。
「ああ、おかえ――」
はその細い首を傾けて「なあに?」と甘い声で微笑みかけた。
髪も上品にセットされ、靴は新品のブランド物だ。 彼女は普段からフォーマルでシックな物を好んで身に着けてはいるが、 こんな平日の昼間から、ここまでの身嗜みというのは珍しい。 ジロジロ見るのが失礼な事ぐらいもちろんジョンはよく理解しているが それでもどうしても頭の先から足の爪先まで、何度目線で往復したか解らない。 は急に眉を垂らすと不安げに胸に手を当てた。
「いやものすごく良く似合ってるよ!ってそうじゃなくて!」
デスクの上でタイピングを続けながら、シャーロックはさらりと述べる。
「仕事…ちょっと待ってくれシャーロック、仕事ってなんだ」 「仕事だよ」 「だから…!」 「スパイ業務だ」
今はそれだけで容赦なくジョンの心を置き去りにした。
「許可も何も僕が行けと言った」
そんな姿がかわいそうになって、は種明かしを始める。
強いて上げるとしたら私の作っている献立の話。 マイクロフトは貴方たちが食べた物を知りたがってる」 「まるで本当に“お母さん”だな……」 「気持ちの悪い話だ」
容赦なく机を踏み越えて、長いソファに寝転んだ。
私マイクロフトの所で仕事を教えてもらってるの。 大学を出たら国に務めないかって提案してくれて。 私にはそういう才能があるからって。 もちろんそうするって決めた訳じゃないけど、 何事も経験だからって。インターンみたいなものよ。 マイクロフトの仕事の都合にもよるけど、 私には学校もあるし、週に1日程度」
可愛い妹分の表情を見れば、 これは彼女にとって楽しい仕事の部類に入るのだと悟って諦めたように微笑んだ。
もうひとつハッキリさせておきたい事があるんだが、」
嫌な予感を察知したシャーロックは、 五感の機能を停止させようと頭の下からクッションを引き抜くと そのままぎゅうぎゅうと顔を覆う。 ジョンは自信を得たかのようにきりっと眉を上げ、 予てから彼の心中に支えていた疑問の礫を投げかけた。
「それ私も聞きたいわ」 「ほらもこう言ってる――なんだって?おい…勘弁してくれよ」
ジョンが察する限り、このふたりの間には“何か”があった。 あったのだが――どうやらその先の“出来事”がないらしい。 シャーロックはだんまりを決め込んでいる。 ジョンが何かを言い出す前に、は抜け目なく助け舟を出した。
無理強いは良くないわ。私もしたくない」 「――君は人が良すぎるよ。 全く…良く出来た子だ…。 おいシャーロック!少しは見習ったらどうだ」
これは宜しくない――というか、勘弁願いたい。 シャーロックは相変わらず外界との繋がりを拒んでクッションと口づけしているし、 は今朝作り置きしておいたクロテッドクリームを取り出して、 マイクロフトがお土産に持たせてたであろうスコーンに塗ってせっせとおやつを作っている。
「…………ああ」
だが悪い気がしないというのは、彼女が持って生まれた才能だろう。
シャーロックはクッションの隙間からちらりとティーカップの存在を確認すると、 ガバっと身体を起こし優雅にティーを受け取った。 そこには微かにぶつかり合う茶器の音と、穏やかな静寂があった。
「キスよ」「キスだ」 「き…すって……あのキス」 「そうね」「そうだ」
というのがジョンの心の叫びである。 そうだった――これは一般人じゃない。 よりにもよってシャーロックとの問題なのだ。 どこから突っ込んだらよいものかも咄嗟には判断が付かなかった。 言葉を失うジョンの目の前で、今度はシャーロックが開き直っている。 あるいはその逆か――とにかく。 あの女性どころか生きている人間にすら興味を抱かない変人シャーロックと、 上品で美しく大層モテるくせに男性経験はゼロのが、 その場の雰囲気だけでキスするなんて有り得ない。…と思う。 それどころか普段となんら変わらない態度を装って見せる目の前のふたりが 若干心配にすらなってきた。
「ええもちろん」
ジョンは自分の怖ろしい考えに失笑し、心のなかで十字を切った。 そして彼はもう、ただただ赤い液体を喉の奥へと飲み下すことしか出来なかった。 |
もとは短編だったのですが、連載にして仕切りなおしてみました。
お付き合いくだされば幸いです!
20120728 呱々音
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