|
モリアーティという厄災が去ると、は大きなため息とともにソファに沈み込んだ。
「ジョン。そわそわするな、気が散る」 「そんな言い方よせよ。僕はを心配してるんだ。 ――顔が真っ青だ。横になるかい?」 「うるさいぞジョン」 「あのなシャーロック!」 「ああもう!」
私のせいですって!?なんなのよあの男! 兄だとか言って、それも本当はどうだか! 妹押し倒して、からかって楽しんでるただの変態じゃない! この世には許せる嘘と許せない嘘があるのよ! 今日のこれに関しては死んでも許してやるもんですか! それに、こんな格好にも、もううんざりよ! シャワー浴びてくる!ジョン!」
上官に呼ばれた軍人のごとく背筋を伸ばして反応した。
アクセサリーを毟り取りながらシャワールームに消えていくを見て、 ジョンは浅くため息を吐いてホッと胸を撫で下ろした。 先ほど威勢よくモリアーティに殴りかかったシャーロックは その長い指を鉄塔のように合わせて、心ここにあらずと言った様子だった。 ジョンにとって沈黙は決して苦でないが、 このような状況ではうるさいと言われようが拒否されようが、 根掘り葉掘り問い質す方が正しいように思えたから、 ジョンは意を決してシャーロックに話しかけた。
「“なぜモリアーティはを家へ帰したか?” そんなの決まってる」 「やっぱり、からかわれただけなのか?」 「ああ…だが違うとも言える。 判断は慎重に――かつ威圧的に――そう。 主導権を握った者が支配するゲームか――実に面白い」 「面白いもんか」
そんな事は十も承知だった。 すっきりしない疑問も山ほど心中に支えているが、今は何を言っても無駄だろう。 彼は諦めてキッチンへ行き、おとなしく湯を沸かすことにした。 が愛飲しているカモミールティーのバッグを取り出し、ティーポットに入れてやる。 棚を漁ると未開封のショートブレッドクッキーがあったので、 が空腹だった時、すぐ気付くようテーブルの上に置いといてやることにした。 シャーロックによって机上いっぱいに広げられた実験道具が心底邪魔だったので 慎重に押しのけてスペースを空けた。 ちらりとシャーロックの方を見やるが、彼は相変わらず 数千年前からそこにどっしりと鎮座する大木のようにまるで少しも動かず、 瞑想と意識の海を泳いでいる。 無駄を承知でジョンは咳払いをする。
じゃあ――僕は先に失礼するよ。 ええとだから…つまり――その――、 僕が居たら…邪魔だろうから今夜はどこかに泊まりに」 「は?なんで」 「君のことだから気にしないとは思うがやっぱり僕には気が重いし、それに」 「ジョン」 「頼むからくれぐれも優しくしてやれよ」 「おいジョン!」
合わせていた指先を開いて掌を天に向けた。
「何って――シャーロック、ゲームを終わらせるためには君が…、 …君が、その――あの子を…」
シャーロックはあからさまに溜息を吐き、首を振った。
「え」 「あんな馬鹿げたルールに僕らが本気でこだわるとでも? からかわれたんだよ。強いて言うならジョン――君がね」 「僕が」 「そうだ。重要なのは“飼い主”――つまり庇護者であって、 が誰に付くかによってこのゲームの進む方向が決まることだ」
そして脳の片隅に、モリアーティの残した台詞が蘇る。 ――探偵の言うことを鵜呑みにしない方がいい。 ――彼は僕らが思っているよりずっとずっと悪どい嘘つきだ。 シャーロックに限らず、あの場に居合わせたキレ者の三方は 皆このゲームの意図する本当のルールを理解していたという事か。 ちくしょうめ!――ジョンは心の中で唾を吐く。
そんな非人道的なことあの子にする訳ないだろう」 「…いや、待ってくれシャーロック」
もちろん一方的に思いを遂げれば非人道的行為とみなされるが、 仮にもあの子は――は、選んでいたのではないか――? もちろん彼が言ったように“飼い主”として、はシャーロックを選んだ。 だが本当に?彼女の意志がそれだけでは無かったとしたら――?
目線はジョンを通り越し、キッチンの奥へと向けられていた。 シャワールームから姿を現したが立っていた。 彼女の表情は明るくもなく、だが曇ることもなく、 ただ愛らしく見開かれた瞳がとても印象的で――皮肉だがつい子猫を思い起こさせた。 シャーロックとの間に立ち尽くす格好となったジョンは、 それでもやはり自分の判断が間違っていなかったことを悟ると、 ふたりの間の問題にこれ以上口を挟むこともないだろうと思い直し、 やはり今夜ばかりは外泊をすべきだと心に決めた。
それを飲んで少し落ち着くといい。 じゃあ――僕は行くからな、シャーロック。 “なんでも”いいが、絶対に、彼女を泣かすなよ」
ポットを傾けながら、は沈黙を優しく遠ざける。
「…スタンフォードに呼ばれて出ていった。 朝まで飲み明かすつもりらしい」 「そう」
彼女の唇がカップから離れる瞬間まで、シャーロックは目を離さなかった。 目線は交わさない。 だが焦れるようなこの空気は、つい数時間前まで談笑し、 平穏にピザを食していたであろう時とは全く違うものとなってしまった。 遊びの時は終わったのだ。 一体どのような恐ろしいゲームが幕を開けるのだろう。 そう――あの男は犠牲の上に成り立つゲームが殊更お気に入りなのだから。
「迷惑かけて、ごめんなさい」 「何のことだかさっぱり解らないな」
シャーロックは彼女からそっとカップを奪うとテーブルの上にコトリと置いた。 まだ濡れたままの髪から時折落ちる小さな雫が、彼女の纏うガウンに染みを作る。 それをいつまでも眺めていたいような気がしたばっかりに、 シャーロックは小さな危険を回避するように席を立った。
「ねえシャー…今夜だけ…ソファーを貸して。お願い。 ――独りになりたくないの」 「ご自由に」
この家で最も深い場所にある彼女の部屋へ下り、お目当ての毛布を抱えると、 と同じ香りがしてシャーロックは密かに狼狽えた。 二階へ戻ると真っ先に目に入ったのは、 ソファーの上に控えめに投げ出された眩しいくらいに白い二本の足だった。 背もたれに腕を預け、顔を埋めるようにしてうずくまっている。 シャーロックは腕に抱えていた毛布をソファーに放ると、咄嗟に声を掛けねばと思った。 ただ肝心なこと――彼女を心配する気持ちがそうさせた事には 全くの無自覚で、気付いてはいなかったが。
「ううん。だって“大丈夫?”なんて。ジョンみたい」 「そんなにおかしいか?」 「うん」 「…そうか」
「…――ありがとう。 おやすみなさい、シャーロック」 「ああ、おやすみ――」
ひらりと向きを変え、電気を消しつつシャーロックは自室へと消えていった。 まるで物理的な距離を確保するかのように、彼はいつにも増してしっかりと扉を閉じ、 無性に煙草が吸いたくなったが、ストックがこの部屋に無いことはすぐに思い出された。 かと言ってわざわざ取りに戻ることは絶対に避けたかった。 スーツを脱ぎながら彼は思う。 ――どうせなら泣いていてくれた方が良かった。 そうすれば両腕を広げて、この胸を貸してやれたのに。 もう泣くなと諭しながら彼女の荒い呼吸が収まるまで、肩を抱いてやれたのに。
怒りに任せて寝間着に着替えると、枕に顔を埋めて頭まで毛布を被った。 ――あの子の涙を願うなんて。相当ヤキが回っている証拠じゃないか。 |
これだけ「泣かすな」とか言うくせに「抱くな」とは言わないジョン。
20121008 呱々音
―――――――――――――――――