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横になったものの、シャーロックは一向に眠れずにいた。 忌々しいかな、思考が睡眠を妨げる。 かと言って、飲み物や暇つぶしの道具を取りにのこのこ居間へ行くこともできない。 何よりを起こさぬためにも、物音は立てたくなかった。 もっとも、疲れきっているはずだから多少のことでは目を覚まさぬだろう。 寝ていれば――の話ではあるが。 ――眠れているはずがない。 頭の片隅で彼は確信していた。 彼女は強い。だがその強さの根源には繊細な心がある。 ――僕とは大違いだ。 心は傷つきやすく、感受性をまとって息づいている。 だが大概の人間は気が付かない。 はそのおおらかさで、本質を包み隠すのが上手いからだ。 そういう人間は、知らず知らずのうちに自己犠牲を選択しがちで、彼女もその典型に違いない。 自己犠牲――今夜など、まさにそうだ。 モリアーティはシャーロックを、気付かぬふりができないところまで追いやった。 彼女の丁寧に作り上げた柔らかな肉を剥ぎ取り、 無垢に鼓動をうつ小鳥のように愛らしく繊細な心臓を、 飼い主と称した探偵の眼前にありありとさらしたのだ。 凍える心臓を一突きすることもできたのに、モリアーティはそうはしなかった。 肉と心臓をバラバラに分けて返してきた。 シャーロックは自分とのあいだに起こったことを――、 たった一度の素晴らしいキスを、悔いたことなど一度もなかった。 例えそれがいけなかったのだとしても。 モリアーティという大敵に、格好の餌として映ったのだとしても。 今日までの彼女の献身に報いる術を用意することで、 モリアーティは逃げ道と理由を与えたのだ――彼がシャーロックに戦争を仕掛ける理由を。 彼の思惑通り――そうと解っていても、 いまの心の傷を癒せるのがシャーロックだけだということには変わりはない。
シャーロックはそっと目を瞑る。 あのドアの鍵とともに、この決心もしっかりと閉めたはずだ。 だが彼女は――は、ドアの向こうに佇んでいるに違いない。 そして彼女は、彼が眠っていないことを知っているだろう。 どちらも動かず沈黙だけが時を埋める。 心を決めたか、諦めたか、シャーロックは観念したように身体を起こした。 ドアを見つめて、ひとつ深い呼吸を吐く。 立ち上がり施錠を外してドアを開けてやる。 すると案の定、部屋の前では俯いたがちんまりと立っていた。 ここまで来てどちらにも動けなくなってしまったというのが正しいのだろう。 ソファに戻ることもできなければ、ドアをノックすることもできず、 飼い主が気に留めてくれるのをずっと待って。 ――子猫、か。 シャーロックはなにも言わず身体を引いて、を部屋の中へ招き入れた。 二番目にお気に入りのガウンを手繰り、肩に掛けてやる。 身体はすっかり冷え切っていた。
シャーロックは目を細める。
なにかを恐れるように、シャーロックと目を合わさない。
「君は僕に期待したからドアの前に立っていた」 「いけないことだった…?」
彼の胸がにわかにざわめく。 ――そんなこと。 シャーロックはの隣に腰掛ける。 スプリングがきしんで、相手のほうに沈み込む。 見つめ合ったままだった。
僕と君がキスをしたせいであの女もあの男も大喜びのお祭り騒ぎ。 ジョンには恋だの付き合えだの余計なことまではやし立てられるし、 ハドソンさんはクリスマスでもないのに、 僕らのためにとお気に入りの上等なワインを開けて恩着せがましい真似までした。 君はわざわざあの男に弱みを握らせるような兄妹ごっこを始め、 僕も同じようにあの女とのゲームに興じた。 男女の仲なんて、厄介な代物以外のなにものでもない。 ほんと――むかつくよ」
――ごめんなさい。 そう喉まで出かかって、は言葉を飲み込んだ。 違う――そうじゃない。 冷たい掌を彼の頬にそっと添える。 シャーロックの弱々しい熱が指先に伝わる。 頭だけが沸騰したように熱くて、朦朧とする。 気を緩めたら倒れそうだった。 その先の言葉を聞きたと願う自分と、恐れる自分の狭間で浮かされている。 互いの鼻の先が触れそうなくらいの距離で、相手の呼吸を伺うように全身で探りあう。
「そんなことわかってる」 「私は…わからない。 あなたは私のことをどう思ってるの…? どうしたい?私と同じように――愛してくれる?」 「――同じはありえない。 それは君の価値観だ。僕のじゃない。 だから、僕の言葉で言わせてもらうなら」
ジョンとは違う。特別な意味でだ。 愛してくれるかと聞かれたら答えはイエス。 具体的になにをしたらいいかなんておぞましいこと今は考えたくないが、 少なくとも君は僕との関係にチープなメロドラマを望むような女じゃない。 真面目、誠実、思いやり――どれも自己犠牲へつながる道だ。 だが最近じゃその献身の理由の多くをしめるのは僕だ。君は僕に尽くしすぎている。 だがなぜか迷惑だやめろと思ったことはない。 むしろ心地がいい――不思議なことにね。 そしてこの役目をこなせるのは・しかいない。 つまり僕が心を傾けるのは君以外ありえない」
どうしたいかの答えがまだだったな」
瞳を閉じて、初めてのキスの思い出を反芻するように――。 愛おしさのあまり、ただそっと触れただけの場所に痛みすら感じた。 離れ難く開放した唇は、にだけ囁きかける。
「じゃあ試してみよう」
「なるさ。 ――今すぐにね」
身体の上に彼の重みを感じるまで、倒れたことにも気付かなかった。 上等なスプリングだから下品な音はしない。 どちらも未経験なはずなのに、どちらも大胆に振舞った。 足を絡めて、舐め上げて――言葉は存在しなかった。 だがどちらにとっても相手の身体は神秘以外のなにものでもなく、 彼にしてみれば、愛でるにしては時間がいくらあっても足りぬほどの 魅力的なミステリーに違いなかった。 観察されると顔をそらし羞恥で瞳を濡らすのも悪くない。 だが確かに自分がされると――顔を背けたくなる気持ちもわかる。 一挙一動に翻弄される様は想像以上に美しく、彼の欲を余すところ無く満たしてゆく。 の小さな口にその欲がふくまれると、シャーロックはたちまちおしゃべりになった。
っ、なにか特別なスキル…っでも、 あ…るのか?――あっ」
「そうじゃな…いっ…、――興味…深いんだ」 「……私は嬉しい――みたい。 ドキドキして、なんだかやめられない。 シャーが気持ちがいいなら、続けたいって――思っちゃう」
目眩さえしたが、もちろん倒れることはなく、 始める前より何倍も強く彼女を欲していることに気がついた。
温かい――なめらかで、ひどく落ち着く。
手荒な真似はしないし、傷つけたりもしない。 ただ最初はやはり…その――僕が君を、」 「わたし、」
シャーロックは人知れず口端をゆるめて安堵した。 できる限り優しく組み敷いて、互いの身体を重ねあわせながらゆっくりと腰を沈める。 は泣いていたが、痛みよりも喜びのほうが遥かに優っていた。 彼は彼女の熱さを感じながら、何度も内壁を往き来し、その動きは一層激しさを増す。 甘い痺れとともに彼女の腰が浮き上がり、しなやかにそらせた身体を彼は抱えるように抱きしめた。 彼女の白くか細い腕が、彼を求めて力強く彷徨い、彼の柔らかな髪を胸に抱きよせる。 間もなく彼は絶頂に短い声を漏らし、彼女の上に雪崩れ込むように覆いかぶさった。 乱れた呼吸だけが酸素を求めて部屋に響く。 の心はいま、ショックを受けていた。 信じられないことだと思った。 だがそれは果てる瞬間に起こった紛れもない真実だった。 ――愛してる。 は確かに彼の声を聞いた。 |
これでジョンに怒られずにすむね!
20121205 呱々音
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