モリアーティと歩いていて感じたのは、

彼は誰の目にも留まらず歩く術を知っているということだった。

突如として闇に降臨する光のように大胆に振る舞うことも出来れば、

静かな蜘蛛のように、闇を操ることも出来る。

彼はそういう男なのだ。

この世のすべての闇が彼を愛して、彼に味方する。

モリアーティはの先をするすると歩く。

後ろ手に引かれて、は彼の後ろ姿を見つめることしか許されていない。

だがモリアーティは見えていないはずの妹に向かって、

「あんまり泣いてるとマスカラが取れちゃうよ」と声を掛けた。

ホテルの玄関に見事なタイミングで乗り付けたハイヤーに乗り込むと、

スモークの掛かった静かな密室で、妹は声を押し殺して泣いた。

兄は慰めるでもなく、妹の涙が流れるままに任せた。

彼は涙に興味がなかった。

かと言って邪険に一蹴するほどの嫌気も、

強いていうならその意味と存在すらも、

道具ではあれこそすれ、やはり興味の対象外だった。

だからの涙がおさまるのを待つという当たり前の行為を、

沈黙をもって許してやった。

ロンドンの喧騒は、今だけは窓の向こうのお伽話に過ぎない。

チャリング・クロスからピムリコを経由し、ベルグレービアを通過する。

時間つぶし以外、とくに意味を持たない経路だった。

そうしてどれほど経っただろうか――モリアーティの思考を遮るように、

耳に心地よいの声が沈黙の法を可憐に侵す。


「…ジム、あなたは一体、なんなの。わたしの、なに?

 あなた…だれ…本当は誰なの」


必死にそう吐き出した。

責められたモリアーティが、ついにうんざりした顔を

自分に向けるのを期待していたのに、実際はまるで違った。

彼はふざけた調子も、ましてや怒りや苛立ちを湛えるわけでもなく、

風の吹かぬ湖のごとく、ただただ静けさを持ってして

自分の胸を打ち据えて必死に訴えるの拳を受け止めていた。


「……“つまらない”って、言えば?」

「“つまらない”」

「――どこへ帰るの」

「どこがいい?」

「どこでもいいわ。

 ……どこへ行こうがすることは一緒だもの」

「じゃあ――ここでも構わないってことだ」


モリアーティはの手首を掴むと思い切り引き寄せ顔を近づけた。

の表情が一瞬で険しくなる。

そんな姿を見て、彼は愉しそうに笑い、腕を放す。


「冗談だよ。怯えちゃって――可愛い」

「……試さないで」

「誘ってるの?」


の顔が真っ赤に染まる。

恥じらいと言うより、怒りに近かったのかもしれない。

だが弾かれたようにモリアーティの身体が自分の上に覆いかぶさって、

彼を睨む間もなかった。

狭い車内で、抵抗はほとんど無駄だった。

まるで本当に子猫をあやすかのように頭の丸みを撫でられる。

――どこを走っているのだろう。

こんな時なのに、脳の片隅に浮かんだのはそんなくだらない事だった。

うっとりとした眼差しが無言で抵抗を禁じる。

だからは目尻から小さな涙の雫を落としながら、呟いた。

彼の瞳に囚われながら。消え入りそうな声で。



――シャーロック。



モリアーティの怒りを買うには十分だった。

彼は壊れた玩具のように甲高い声で笑うと、

今度は恐ろしいほど低い声で怒声をまき散らした。


「ずっと迷ってたがお前の犯し方がたった今決まったよ。

 すぐには終わらせない。

 なんにも知らないこの身体に悪夢を叩きこんでやろう。

 言葉にするのも憚られるほどおぞましいやつをな!!!」


屍のように冷たく硬直したの身体が、

何かに突き動かされるように小刻みに震えながら、指先を送り出す。

凶悪さに顔を歪める彼の頬に、か細い指先がかろうじて触れる。

そこに浮かされた熱の交換は無かった。

モリアーティの表情が消える。

は幼い子供のように泣いた。


「あなたがもし本当に――本当に私の兄だったなら、

 これだけは言わせてよ。

 ずっと、ひとりだった、あの大きな家に、ひとり、

 さみしくて――、なんで――ねえなんで帰ってきてくれなかったの…っ」

「人間はみんな独りだ」

「もしかしたら、本当に…兄がいるのかもしれないって――」

「ちょっとは嬉しかったんだろう?」


は目を逸らし、小さく頷いた。


「…――残念。時間だ」


モリアーティが身体を離す。

彼の手がを引っ張り起こす。

その仕草は思いの外優しいものだった。

窓の外へ目をやれば、そこには見知った景色があった。


「どういうこと――?」

「まだまだ甘いねえ子猫ちゃんは」

「…騙したの?それともまた気まぐれ…?」


モリアーティは怪しく笑う。


「気まぐれなライオンはずる賢いのさ」

「あなた一体なにを始める気なの」


何よりも馴染み深く思い入れの強い場所――ベイカー街221B。

が困惑に任せ、これ以上何か言葉を口にする前に、

彼は車の外へ降り立ち、ドアを開けてに向かって腕を差し出した。


「“お家”についたよ子猫ちゃん。

 エスコートはサービスだ」
















階下の施錠の音にジョンは眉をひそめた。

そして思わずシャーロックを見やる。

彼はつい3分前から熱心にヴァイオリンを奏でている。

――わかってたのか…?

聞き慣れた軽い足音と共に、別の足音がする。

覗きに立とうとするより早く、足音は止んだ。


…!」


ジョンが両手を広げる。

はモリアーティの腕から手を離し、ジョンの首に抱きついた。

まるで実の兄妹が互いの安否を確認しあうように――。


「……シャー…ロック」


にそう呼ばれた男は、奏で続けていたヴァイオリンをすんなりおさめた。

肩越しに振り返り、を見つめて――そのまま目線を運び、モリアーティに向ける。


は君を選んだ。だから連れてきてあげたよ」

「そうか。それはわざわざご苦労だったな」


シャーロックは涼しい顔でジャケットの前を合わせると、

振り向きざまにモリアーティめがけて大きく拳を振りかぶった。

もちろんモリアーティはそれをするりと避けた。


「おいおい危ないじゃないか」


愉快そうに笑いながら、スーツの乱れを撫でて直す。

シャーロックは静かにまくし立てた。


に何を言って脅したかは知らないが大方予想は付く」

「君は死ぬ」

「僕は死なない」

「いいや。死ぬよ。僕が殺す」


モリアーティの目が艶めかしく光る。


「いずれ。そう遠くない未来にね。

 シャーロック・ホームズ――君は死ぬ」


睨み合うふたりの男。

解っている――モリアーティはただこのきっかけを欲していたのだ。

これは宣戦布告。

を餌にしただけの、ただの前戯ゲーム――そのはずだ。


「――受けて立とう」


モリアーティは掌をぱんっと合わせると、口端を上げた。


「よし、決まりだ」


嬉々としたこの笑みこそ、全ては彼の思惑通り、

順調に事が運んだことを意味していた。

シャーロックは温くなったコーヒーをひとくち啜ると、

不味そうに顔を顰めて、事も無げに言った。


「あとは僕がを抱けばゲーム終了だ」

「おい、そんな言い方…頼むからやめろ」


ジョンが困惑しながらから目を逸らし、シャーロックを睨む。


「なんで。は?僕は何か間違ったこと言ったか?」

「言ってないよ」


モリアーティはポケットに手を入れながら事も無げに援護した。


――いいかい。よく聞くんだ。

 これはお前が“選んだ”ゲームだ。

 お前は王子様に、愛する者に囚われながら

 弱々しく惨めに死なせる道を選んだんだ。

 はじめにしっかり“選ぶべき”ルートは忠告はしてやっただろ?

 でもお前はそれを無視した。

 決して忘れるな?

 これから起きる全てのことは――お前のせいなんだよ」


モリアーティはから目を話すことなく、後ろ向きに歩き出す。

くるりとドアに向かって向きを変えながら、

そうだ、と思い出したように付け足した。


「本音を打ち明けてくれてお兄ちゃんは嬉しかったよ。

 それからジョン・ワトソン――探偵の言うことを鵜呑みにしない方がいい。

 彼は僕らが思っているよりずっとずっと悪どい嘘つきだ」


ひらひらと手を振りながら、モリアーティは221Bを後にした。

シャーロックは窓の外を覗きこむ。

モリアーティが黒塗りの高級車の中に消え、

その姿がすっかりなくなるまで確認するためだった。

だがしかし、彼が最後に目にしたものは――。

車のナンバープレートに刻印された“IOU”の文字だった。



































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全く動かなくなったゲームの第二章を始めるための口実にすぎない。

これもモリアーティのゲーム。

20120927 呱々音