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trente-neuf 婚礼を終え、翌日一夜限りの祝祭のオペラとして、 まるで密かにその結婚を祝うようにエリックの書き下ろしたスコアが、世に発表された。 熱狂する観客に向けていつも以上に完璧に歌い切ったは着替えもそこそこに、 今宵の成功を賞賛するエリックに手を引かれ、旅馬車に飛び乗った。
は、エリックが旅の前にぽつりと言った言葉がどうしても頭から離れなかった。
あの地下に帰ることが決して健全だとは思ってはいない。 だが───しかし───。 あそこが家なのだ。 いつしかエリックだけでなく、の心もまた、 地下5階の帝国に安らぎを感じるようになっていた。 もちろん、エリックがいてさえくれば、どこだって天国に違いない。 そもそもエリックがあの地下に“しか”住めないとしたら? 本当は、いや、当然ながら、やはり他の人々と同じように 地上で陽の光を浴びながら生きたいと願っていたら? ───私はどう答えるべきなのだろうか。 そんな困った顔をして答えあぐねている妻の様子を見て、 エリックは彼女がなにを考えているかすぐに察したようだった。 の顎に指を添え、自分の瞳を見上げるようにそっと促すと、やさしい声で言った。
───私が放浪の末にさまざまなものを見たことは知っているね」
ペルシャの話は大好きだ。 だがその一方で、耐え難い辛酸も伴ったと聞いている。 もしかしたらエリックはすべてを話してはくれないのかもしれない。 だが彼の孤独なはずの放浪記は、の大のお気に入りなのだ。
こりごりするようなことばかり起こる身の上だけどもね。 、君にはどうか素直な心で、行く先々で出会う未知の世界を堪能してほしいのだ」
「そう…そうなのよね。帰る場所が、ちゃんとあるのよね」
こうしてふたりの旅は、静かに幕を開けたのだった。
黒い眼帯を少し大きくしたような仮面をうまく作って、 目立ちすぎぬよう努めていた。 もしこの旅がエリックひとりなら、 まずどんな出立ちでいようが一向に構わないのだが ───目立ったところでうまく姿を消す術を知っている─── 大切なご婦人を伴っての道中である。 ましてや東洋の美女とくれば、嫌でも目立ってしまう。 過剰な好奇にさらされ、反感を買うことだけは勘弁願いたかったから、 エリックはそこだけは慎重になろうと決めていた。 訳ありに見えるのは致し方ないが、 あくまでも戦火の負傷兵とでも思ってもらえる程度の風貌を装うことを決めた。
オスィール、ディションと周り、途中小さな村を転々としながら ローヌ地方へ入り、リヨンに着く。 リヨンでは1週間ほど滞在し、さらにマルセイユに1週間滞在した。 ゆっくりと旅を堪能しながら、気がつけば移動に1ヶ月半をかけ、 エリックたちはようやくニースへ辿り着くことができた。
ふたり静かに暮らすように滞在を楽しむことになっていた。 屋敷の主人フォーレ氏は、巷では少々有名な執筆家だった。 彼の書く寄稿や文章に感銘を受けた折、 エリックから匿名で手紙を送ったことがきっかけで、 そこから長い歳月をかけて手紙のやりとりを続けてきた。 (届け先はさすがにジュール家の所在を使っていたが…) 友人と言うにも、それでよいものかと迷った時期もあったが、手紙ということもあり、 お互いに自分自身のことを踏み込んで打ち明けることも増え、 今では寛大な理解者と呼ぶにふさわしい間柄になったように感じていた。 ついぞエリックにしたって、誰かを信頼することなどほとんど皆無に等しい質である。 そういう人生をおくってた。嫌というほど、人の悪意を学んできた。 だがこの細々と、けれどもどこか濃く、 そして熱心に続いてきた不思議な信頼に満ちた縁を、 気づけばエリックは信じ、確信していた。 だからこそ、自分の憎たらしい容姿だけでなく、 歪んだ生い立ちや、完璧とは程遠いこの人格さえもまっすぐに愛し、 肯定してくれた最愛の人に、結婚を申し込もうと考えていることも手紙で打ち明けていた。 フォーレ氏はエリックのほとんどすべてを知り、 また書かれていない部分を彼なりに察した上で、エリックの背中を押し、 その際にはぜひニースの邸宅を訪ねてほしいと熱心に書いた。
きっと新婚の君たちは気に入るだろう。 だからどうか、ニースを訪れてほしい。 何ヶ月だっていてもらって構わない。 パリの喧騒をたまにはすっかり忘れてみるのもいい。 お願いだからどうかきてほしい。妻とふたり君たちを心から歓迎するよ”
フォーレ氏は驚かず、本当に嬉しそうにエリックを迎えてくれた。 まるで旧友との20年ぶりの再会を喜ぶそれのように、喜びに溢れていた。 フォーレ夫人さえも笑顔で、 まるで実の娘が帰ってきたかのようにを歓迎してくれた様子を鑑みるに、 夫からとても良い言葉でこの客人たちの話を聞き及んでいたのだろうことは 想像にかたくない。
追い返されるかもしれないと、心のどこかで覚悟をしていたのもまた事実だった。 そんなことを道すがら馬車の中で聞かされていたは、 そう呟くことでエリックが、自分の不安を否定したり肯定したりしながら 受け入れようとしていることをよく知っていた。 白い窓を開け放つと、遠くにニースの海が見える─── 手紙に書かれていた通り、ここはとても素晴らしい部屋だ。 ニースの穏やかな気候にまどろみ、何度も抱き合い、 飽きることのない悦びを分かち合って、パリの地下とは異なる世界をふたりで生きる。 ほとんどの晩をフォーレ夫妻と食事を共にし、 エリックとフォーレ氏は食後にはチェスをして、は夫人に歌を贈った。 日中はふたりで木陰の下で読書を楽しんだり、馬を借りて森林を散歩したり、 もちろん一日中部屋にこもって過ごすこともした。 の希望したとおり、人のこない美しい川で、 まるでニンフのように一糸纏わず泳ぎもした。 ワインを飲み、景色を愛で、男性陣が話に興じているときは、 若妻は夫人に刺繍や、ニースの料理を習ったりした。 立派な刺繍のエプロンが完成するころには、ここへきて2ヶ月が経っていた。
ようやくとっぷりと暗くなるのだが───夜も更けて星が見えるようになるころ、 フォーレ氏が中庭でワインを飲もうとエリックを誘った。
口にしてはいなかったのに、この御仁にはなんでも筒抜けになってしまうのだな、 とエリックは口端を上げた。だが不思議とそれが心地よかった。
微笑みながらエリックのグラスにワインを注ぎ足す。
その陰に、エリックの目にもそうとわかるほど悲しみが滲んで見て取れた。
ふたりはパリで暮らしていたんだが、流行病で───亡くなってしまってね」
ひと昔前のエリックなら、もっと早く話してくれたなかったことを多少なりとも責めただろう。 だが、今ならわかる。 話すにはあまりにも傷が深く、失った寂しさがまだ癒えていないのだ。
フォーレ氏は目に光るものを拭うと、エリックの肩を力強く、けれどもやさしく、 確かな力をもって叩いた。
「私もです」
左手をポケットに差し込みながら、考え事を反芻しながらゆっくりと離れまでの道を歩いていた。
家の前のカウチに座って、瞬く星でも眺めていたのだろう。 ショールを肩にかけ、エリックに駆け寄る。
「ああ───そうだね」
またいつでも、自分たちの家だと思って訪ねてくるようにと 何度も言い含めて見送ってくれた。 どことなく里心がついて、エリックはもし自分に帰る故郷があったならば、 こういう気持ちになるのだろうかと思った。 ───過去の墓場に捨ててきた故郷のルーアンとは似ても似つかないニースだが、 自分に与えられる権利などとうの昔に諦めきっていた、 このとても親身であたたかい愛情と尊敬の意味が、 今なら少しだけ理解できるような気がする。 それはが忍耐強く教えてくれたあたたかな気持ちが根幹にあるからで、 という存在を通してエリックの世界もまた広がりつつあるという、
確かな証拠に違いなかった。
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T O P / N E X T
思いがけず、故郷のようなものを手に入れてしまい、戸惑うエリック。
新たな一歩。やさしさと出会う旅。
20250712 呱々音