trente-sept












その日のパリの空はどこまでも晴れ渡っていた。

早朝の空気は澄み、レッスン場は身が引き締まるほど

清らかな冷たい空気で満たされていた。

目覚めた瞬間から私の中には、なにか確信めいたものが在った。

だからエリックの制止にも大して耳を貸さず、

取り憑かれたように上階のレッスン場を目指して、

この劇場という大きな体内を、上へ上へと足を進めた。

オペラ座の朝の身支度にいそしむ人間も少なからずいるだろうに、

そこかしこで気配は感じるのに、不思議と遭遇はしなかった。

明かり取りの丸窓から透き通った陽の光が差し込み、顔を暖めた。

目を閉じて肺いっぱいに空気を吸い込めば、

あまりにも清々しい、まさに冬そのものが、

身体の隅々までくまなく染み渡るのがわかった。

駆けてきたせいか身体は随分温まっていた。

よく筋肉を伸ばしてから、年季の入った愛おしいバーに手を添える。

丹念に、丁寧に、バーレッスンに集中しながら、記憶を反芻する。

音楽はいらなかった。

なぜなら私の頭の中では、エリックが昨夜この心身に植えつけて魅せた

素晴らしい音楽が絶えず流れ続けていたからだ。










昨夜の彼は例によってなかなか床に入ろうとせず、

かといって私はエリックの創作欲を妨げることは望んでいなかったから、

せめて濃い目に入れた紅茶と少々の焼き菓子を

彼の手の届く場所へ置いておこうとした――まさにその時。

エリックは今初めて水の中を泳ぐための、

もっとも正しい呼吸法を知った幼子のように顔を上げると、

その純粋さに満ちて輝くふたつの瞳で、まっすぐに私を見つめ、言った。


「聴いてくれないか」


返事の代わりに微笑んで、そっと肩に手を添える。

彼の心はまだ半分あちら側で、幻想と現の狭間で漂っていた。

くるりとピアノの方に身体を回すと、その長く優雅な指先を滑らせて、

白と黒の鍵盤を爪弾いた。

と共に、溢れだすあまりにも美しい音符の洪水に目眩がした。

まるでこの世で一番完璧な愛撫に、戦慄が魂を持って応えているかのようで…!

ときに溢れ出る悦び、期待、そして得も言われぬ切なさ、悲しみ、別離───。

それをもすべて凌駕する慈愛の念───。

繊細に、情熱的に。

けたたましく打ち鳴らされた最後の音が、

地下の闇に溶けて消えるまで、私は呼吸を忘れ、感動に喘ぎ続けていた。

ピアノを弾き終えた彼は、もういつものエリックで、

満ち足りた様子で、まるでなんてことも無いと言わんばかりの仕草で

軽やかに再び私の瞳を振り返った。

すると私の頬は涙で濡れていたから、

エリックは大層申し訳なさそうな顔をして見せた。

私の喉の奥が感情の波に締め付けられる。

涙が止まらない。

精一杯の一言を「ありがとう」と絞り出して抱きついたのを受け止めると、

暗闇を音楽で支配した恋人は、満足そうに口端を上げた。

それはとても満たされている美しい笑顔だった。

彼の瞳から目が離せない。


「とても素敵───まるであなたそのもの、」

「これは君なんだよ。私にとってのだ」


驚きに添えていた手を離し、さらにもっと近くに寄って顔を覗き込む。


「これが…わたし…?」

「ああ」


白い仮面は相変わらず幸せそうに満ち足りて笑っていた。


「素晴らしいだろう?

 君に救われた者の戯言だと一蹴しないでくれるね。

 ───この曲を、君に贈りたい」


エリックに力強く抱き締められる。

どうあがいてもこの幸福感からは逃げられない。

なんて美しい旋律だろう。

私の身体は熱くなる。

彼はそっと、けれども明瞭に、大切な言葉を私にくれた。


「───背中の傷が消えたお祝いだ」










エリックが“わたし”だと言った音楽は、私を優しく支配する。

頭に絶えなく流れ続ける美しいその音に身体をゆだねて一心不乱に踊り続けた。

もう鏡は怖くなかった。

床を突き刺すように力強くポワントで軸を貫き、

肉体は弧を描き、しなやかに空を裂き、

この世の重さから解放されたように回転する。

新緑の妖精、白鳥の王女、火を踊る獣───。

エリックの与えてくれた音楽の世界で、私はどんなものにでもなれた。

すべてをめぐる。

踊ることで生を謳歌する。

歌うことで愛を叫ぶ。

私の身体がしきりに強く訴える。

エリック───あなたを愛していると。



























T O P /  N E X T








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気付けば36話から10年経っておりました。
大切な友人に捧げます。オペラ座フレンズ、ふたたび、あつまれー!

20250604 呱々音