trente-trois





エリックは止めたが、その日の日付が変わる頃、マダム・ジリーの部屋を訪ねた。

ひとりで行けると言うと、エリックは顔を歪めたが、

ここへ来てから散々彼に習った、人に見つからずにオペラ座を歩く方法を、

私は思いのほか上手に身につけていた。

エリックは渋々その申し入れを受諾し、あまり遅くならないようにと告げた。








ひとりで訪ねてきた私を見て、マダムは目を丸くしたが、悪戯っぽい口調で

「もう子供では無いしね。エリックにも良い薬になるでしょう」と微笑んだ。

マダムはソファに私を座らせると、熱い紅茶を出してくれた。


「少しだけキュラソーを垂らしておいたわ。飲めば落ち着くでしょう」


そう言うとマダムの手は、そっと私の頬に添えられた。


「……随分怖い思いをしましたね。こんなに痩せてしまって…」


私は堰を切ったように泣き出した。

もうぼんやりとしか思い出せない母の温もりを思って。

幼い頃、あの白い手に「泣いていいのよ」と諭された言葉だけがふいに浮かんだ。

俯いて涙する私の頭を、マダムの手は撫で続けた。


「私の愛情が辛いのなら、もうここへは来なくていいのよ。

 でも…そうでなく、が私から受け取る物がまだあるのだと感じたなら、

 いつでもここへおいでなさい。

 母と思えば良いのです。私はを自分の娘だと思って接するわ」


「う、マダ、ム…っ」


行き渡る愛情は“母”にしかたたえる事のかなわない、これは無償の優しさ。

自分のお腹を痛めて生んだ者にしか、到底たどり着けぬ悠久の愛。

心を乱してしまった私を落ち着けるように、

マダムは他愛も無い話を始めた。


「貴女を見ていると、ある人を思い出すの」


そう言ってマダムはベッドの下に手を伸ばした。

年期の入ったワインの木箱を引っぱり出すと、

大切にしまってあった一冊のアルバムを取り出した。

私の隣に腰掛けて、おもむろに話し始めた。


「…昔、まだ私が少女だった頃、とても仲の良い友人がいたの。

 そして良きライバルでもあった」

「その方も、バレリーナ…だったんですか?」

「ええ――そうよ」


そこでマダムはちょっと俯いて見せ、その表情に悲哀の色を滲ませた。


「イザベルは――鏡の事故で亡くなったの。

 レッスン場の大きな鏡が倒れて、その時割れた鏡の破片で、深い傷を負ってね」

「あの、ちょっと、ま…待ってください」

「まあ…、顔が真っ青だわ」

「イザベルと、おっしゃるのですね?その方は」

「ええ、そうよ。私と同い年。イザベル・ルフェーベル」

「…―イザベルの傷は――左腕――でしたか」

「貴女、なぜそれを…」


身体中の血がわんわんと沸騰して、脳の血管をうるさく圧迫しているのに、

やけに手足が冷たくて――とにかく混乱しながら、私はひとつの答えに至っていた。






「…イザベル・ルフェーベルは――私の…大祖母の名前です…」
















T O P /  N E X T








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ひいおばあちゃん、出てきたー…!

20100124 呱々音