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dix-sept 私のマントを受け取ると、立派な装飾の施されたコート掛けに見た目良く吊るし、 彼の黒いマントも、同じようにして掛けられた。 ここにある何もかもの、美しい事と言ったら―…! 「この部屋の中を…見て回ってもいい?」 好奇心を押し殺して聞いたつもりだったが、どうやらその台詞では隠しきれて居なかった様だ。 私の顔を見たエリックが、優雅に肩を竦めて見せた。 「が思っている程、面白い物があるかどうかは解らないけどね」 少し迫り上がった階段の上で、彼のユートピアの核に相応しい壮麗なパイプオルガンが、 何千何百もの蝋燭の灯りでゆらゆらと表情を変え、 少し離れた所にある立派なグランドピアノも、また同じようにオレンジ色に染まって見えた。 聖域…とでも言えば伝わるだろうか。 これらを囲むように建て付けられた机の上には、物珍しい細密なデッサンや赤インクで埋め尽くされた譜面。 それに紛れて白鳥の羽根ペン、金のインク瓶ケース、長さも減りもばらばらの、コンテや鉛筆… 私にとってはどれも、息を呑むほど興味をそそられる物ばかりだった。 これだけ溢れかえった創造の現場であっても、驚くほど生活観が感じられないのは、 この地下の帝国が、まさにエリックの生き写しの様な存在なのだと裏付けるには十分だった。 口を開けたまま、わあだの素敵だのとはしゃぐ私を見て、彼はきっと呆れたに違いない。 ああけれどそんな事、構いやしない…! だってここは、どれもこれも大変に素敵な物で埋め尽くされている…! 「エリック…ここはとても素敵な所だわ」 すると黒革の手袋を外しかけたエリックの動きが、一瞬ピタリと止まった様に見えた。 「……気に入ったなら良かった」 不思議な事だが、そう言いながらこの闇の世界に佇むエリックの姿を見ていると、 この地下の装飾も岩も蝋も…全ての物が、彼の帰りを今か今かと待ち侘びていた様に思える。 「サモワールがあるけれど…」 ロシア式のぽってりと腹の膨れた湯沸かし器を指差して言った。 「驚いた。サモワールを知っているのか?」 予想以上に嬉しそうに聞かれたので、少し顔を熱くして、こくんと頷いた。 「ロシア式のお茶が好きなら、教えてくれれば良かったのに、」 そうしたら週2回の訪問の際に出す紅茶は、もっと貴方好みのお茶が出せたかもしれないのに…。 「私、サモワールをまだ使ったことが無いの……あの、使ってみても?」 「もちろん、好きにするといい」 使うといっても、火を入れるだけでいいのだけれど… エリックはカップとジャムの在り処、奥の台所まで案内してくれた。 ここは全く散らかる様子も無く、こざっぱりと必要最低限の物だけが並べられている。 私はその中に、本物のロシア陶器のカップとソーサーを見つけて嬉しくなった。 けれども、どの立派な食器も…一組しか揃っていないのだ…。 彼の生涯の孤独を、目の前に付き付けられた様に思って、思わずそっとカップを手にとって包み込んだ。 それに気付いたエリックが、しまったという顔をしたのが解る。 「…………好きな物を選ぶといい」 そう言うと、彼もひょいとカップを取って、優雅な素振りでまたパイプオルガンの間へと戻っていった。 一組しか存在しないカップとソーサー…私がカップで、彼がソーサー…それだって決して悪くは無いけれど… でも、同じ仲間が二組あったって…別に悪い訳は無いわよね? レモンを切り、ジャムを小さな器に取り分け、それらを銀のトレイに乗せると、 エリックとサモワールの待つ間へと運んでいった。 このサモワールさえ、趣味の良い適度に使い込まれた一品で、私の目は一向に飽きる気配すら見せない。 ふと視界に、赤いヴェルヴェット張りのカウチが入った。 それに腰掛け、しなやかな身体を預けるエリックの横で…なんと見事だろうか、 美しいシャム猫がエリックを誘うように、喉を鳴らしているではないか。 「まあ…なんて綺麗な子…?このご婦人のお名前は?」 見蕩れながら思わず顔が緩み、サイドテーブルでお茶を割る手が、 なんとも落ち着きのない物になっているのが自分で良く解った。 「彼女はアイシャ…少々気位が高く気紛れな所もあるが、まあ美人には良くある特権だろう」 そういうとエリックはその猫、アイシャをひょいと抱き上げ、変わった形をした猫のベッドまで連れて行った。 「さ、お休みアイシャ、もう夜も遅い…」 アイシャはエリックに言われると、うっとりとクッションに静まり、 夢の縁に寝そべって、眠たそうな眼でエリックの腰掛けるカウチの方を見ていた。 「アイシャは、私とお友達になってくれるかしら、」 そう言いながら、熱いお茶の入ったカップをエリックに差し出す。 「ああ、ありがとう。多分大丈夫だろうね」 「あら本当に?」 「うん、アイシャは私がのアパルトから帰る度に、入念に君の香りを調べていた様だから…」 私はそれを聞いて、思わずくすくすと笑ってしまう。 「アイシャは私よりも、君について詳しいかもしれない」 そしてエリックは、ふっと悪戯っぽく肩を竦めた。 自分のカップにも熱いお湯を入れ終えた所で、エリックがカウチの半分に座れるように腰をずらしたので、 図々しいだろうが、それが当たり前だったかの様に、彼の隣に腰掛けた。 さあ初めて淹れた紅茶の味は…?とちょっとカップに口を付けた所で… 「………は本当に、私を…拒まないんだね、」 と小さく呟いた。 ああ…!なんて事を言うの…? 私はサイドテーブルにカップを置くと、体を彼の方に向け、必死な様子で言った。 どうか、この声が誠実さの篭められた声だと伝わりますように…。 「エリック、私、」 エリックの手に握られた手付かずのカップから、真っ直ぐな湯気だけが揺らめく。 「あなたとお揃いの、カップとソーサーが欲しい、」 何を言っているのかきっと解らないだろうな…。エリックの顔はぽかんとしていた。 が、その顔はすぐに何かに気付いた様な面持ちに変わり、私から顔を背けると、冷静な素振りで紅茶に手をつけた。 彼が紅茶を啜る、ごく僅かな音だけが、闇に囁かれる―…。 もしかしたら…気を、悪くしてしまったかもしれない… 自分の言った事に後悔は無いが、ちょっと俯いて、黙り込む事しか出来なかった。 「…………………ロシア式の…ティーカップで良いのかな?」 エリックは確かに、ぽつりとそう言った。 「…うん、」 たったそれだけの事が、恐ろしい程嬉しくて、私は大きく頷き、不器用にはにかむ事しか出来なかった。 ありがとう、エリック…ありがとう、私とても嬉しい…。 「…ありがとう、」 "あーあ、いいかげんにしてちょうだいよ、じれったくて見てられないわ"
じっとこちらを見ていたアイシャは、そう言いたげに大きなあくびをひとつすると、丸くなって寝てしまった。
素晴らしい完成度を誇るゲストルームだった。 部屋の入り口まで見送ってくれたエリックは、何か言いたげに私の頬に手を添えるが… すぐにそんな仕草を止め、今夜は疲れただろう、とだけ言って、部屋を後にした。 ―エリック、解っているかしら、それとも気付かないふりを決め込んでいるの―? そうだとしたら…貴方はとても意地悪な人。 あの…愛しい仕草の先に待っている物を…私は望んでいるというのに―…。 馬鹿みたいに火照った自分の頬に幾分か冷たい手を添え、レースの美しい寝巻きに着替えると、 滑らかなシーツに足を滑らせ、久しく知らなかったやわらかい枕の感触に恍惚となった。 そしてそれと同時に、あのパイプオルガンの威厳に満ち溢れた音が、とても優しく、 この地下に存在する物全てを、その御胸に包み込む…。 それはまるで…愛を語るかの様な… …ああ…エリック… 繋ぎ止めようとしても、そのメロディーに私の意識はすぐに手放され、 私の疲れた体は、もっと聴いていたい…と、そのささやかな願いに踊らされていた。 |
なんでしょうか…この…カップとソーサーの話…!
ぬあああ…!ゲロ吐きそうな甘さ(しかももどき)みたいな…
わなわなしますね!しますよね!?
久々なのに調子こいてすいません。
しかもアイシャからの、調査済みだなんて…全く…(ふるふる)
話事態もあまり進んでいませんね…次からは進む予定です。
ゆ、ゆるしてくだせえ…
20070721 狐々音