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quinze エリックが来る日は、必ず新しい花を買ってきて飾り立てるのが日課だった。 今日もまだ明るいうちから、彼に許されている安全な行動範囲内で、 質素ではあるけれど―、食材と、色とりどりの花を見繕うつもりでいた。 けれど…近頃はどうも、外は不穏な空気でピリピリとしている。 今に始まった事では無かったけれど…緊張は日を増すごとに高まりを見せ、 陰り行くパリの容貌は、ただただ悲しみを湛えるばかりだった。 そんな考えを振り払うように、もたもたと裁縫をしてみたり、 文字を認めてみたりして、持て余す時間を潰した。 しかし一向に、何か嫌な予感が胸に支える。 自分がこの国…そしてこの時代に、あまりにもそぐわない存在だという事は自覚している。 エリックに受けていた、危険な行動は避けるように、という忠告を優先し、 彼が来るまでは、とにかく大人しくしていようと溜息を吐いた。
その音は微かでは在ったが…何だろう?と思い、ドア越しに廊下へ耳を欹ててみる―…。 と同時に、勢い良くドアが自分に向かって開かれたではないか…! 思い切り身を退いたお陰で、髪の毛を1本掠っただけで済んだが、 私は危うく、ドアに潰される所だった。 もちろん、住人の私以外でこの部屋に入ってこれるのはエリックだけだ。 いつもは物音ひとつ立てず、しなやかな雄猫の様に華麗に登場するだけに、 今日のエリックの登場の仕方は…らしく無い。 どうかしたの?と、笑ってあげようとしたのだけれど…。 それどころではない…というのが、直様見て取れた。 ―何かあったのだ―。 反射的に私の身体に、冷水を喉に流し込んだ時の様な緊張が駆け抜ける。 部屋に勢い良く飛び込んできた彼は、肩で息をしながら、 緊張の面持ちで、キョロキョロと部屋を見渡す。 その様子は、すぐ隣にいる私を、ひどく困惑させた。 そして、すっかり固まってしまった私の姿を、目の端に私の捉えると、 大層安心したようで、大きく息を吐いた。 「…?エリック…一体どうしたの?」 戸惑いを露に、彼の燃えるような瞳を、しげしげと見つめる。 エリックはそんな時ですら隙が無く、後手に素早く鍵を掛けた。 「……早く此処を離れるんだ、」 すると今度はスタスタと部屋を横切り、隅に置いてあったボストンバッグを手に取った。 全く状況が飲み込めない…。拙い子供の様な私の前で、エリックはただ機械的に、 私の身の回りの荷造りを始める。 「エリック…、ねえエリック。何があったのか教えてちょうだい、」 彼のマントの端を引っ張って、こちらを向くように仕向けるが、 エリックの手が止まる気配は、一向に感じられない。 エリックの気性の安定しない態度は、ここ最近では珍しかった。 解ってはいても…しょんぼりとしてしまう。 不安のせいか、私は思わず、目から温かい物を堪えたくなるようだった。 小花柄のエプロン、七面鳥の羽ペン、作りかけの刺繍―… 私のお気に入りの物ばかりを、淡々と詰め込んでいく エリックの様子をぼんやりと見つめながら、 先程、彼の口から飛び出した言葉を、改めて反芻してみる。 いざそんな事を言われると、やはりとても怖ろしくなった。 目の前で、黙々と同じ動きを繰り返すその腕に、思わずしがみ付いてしまう。 「…ッ私、一体どこへ行けばいいの?」 エリックの手が止まり、はたと私を見下ろした―…。 と同時に、窓の外から、パリーンというけたたましい音が聞こえて、 彼はとても敏感に、その方角を見る。 その姿は、まるで威嚇をする獣の様だった。 ガラスの割れる音は、遠くの方からではあったが…、 エリックの行動が、何を意味しているのかを読み取るには、充分だった。 「もうすぐ地上は安全じゃなくなる」 私によって、しっかりと抑えられてしまった自分の腕に、視線を落としながら、 エリックは小さく、そう告げた。 「地上…?」 「―ああ。地上だ。 血の気の多くなった人間は、見境が無いのだよ。 それまで目を瞑っていた事にも、酷く敏感になるからね。 異教徒にマダム、そして子供たち―…。それから…私たちの様な者には、特に」 語尾の意図する物が何で在れ、その声が一瞬にして冷ややかになったのは確かだった。 私の手足は縮こまり、彼にしがみ付いた手が、きゅっと力を込める。 エリックの威圧感のせいで、目が忙しなく動いてしまうのが解る。 だが気丈に持ち直し、再び彼の目を見れば、何かを迫る様な―、 とても緊張の走る面持ちが、向けられていた。 「…―…。一度だけ聞こう、」 彼を掴んで離さない私の手に、彼の黒革で覆われた手が、そっと添えられる。 「………私に…付いて来る覚悟は…あるか?」 そんな決まりきった事を聞かないで、と口にしようとすると、 まだ早い、と言わんばかりに、エリックの骨ばった人差し指が、私の唇を遮る。 「…私の秘密を知り、私から逃げられない地獄…という牢に繋がれる覚悟は…あるか?」 エリックの瞳には、酷く冷酷な火―…怯えや憎しみに近いものが、渦巻いて見えた。 自らの凄んだ気迫によって、エリックが今にも潰れやしないかと、怖ろしくなった。 彼は―…エリックは、私たちにとって、とても重要な選択を迫っているのだ…。 実際、私に添えられた手は、業火の如く猛り震える彼を熱いまでに感じている。 ちっぽけに空いている片方の手で、狂気に震える彼の頬を、そっと包み込んだ。 そしてまだ、彼の瞳の何処かに宿っているであろう、 冷静さを探るように、しっかりとエリックを見据えた。 「たとえ貴方が、それを地獄や牢だと言い切っても…、 私がそう感じるかは、解らないでしょう?」 彼の切迫していた癇癪に火が着く。 「解らない?いいや解る!そうに決まっているのだから! 知らねば良かったと…! 生きて私に出会ってしまった事を、心の底から後悔するだろう!」 怒りに任せて払い除けられた手は、乱暴に宙に投げ出され、 やり場を無くした彼の癇癪は、てっきり私に向けられるのだと思い、 反射的に目を瞑り、息を呑む。 しかし彼の幾ばくかの理性が、私から的を逸らせたらしく、代わりに、 横にあった椅子が、大きな音を立てて壁に打ち付けられた。 肩を激しく上下させ、荒い息を吐くエリックの影だけが、 唯々虚しく、青い壁を蠢くだけだった。 そんなエリックの姿を見て、なおも、言い知れぬ―熱っぽい感情が―… 行き場を無くして溢れ、すっかり困り果てている自分を改めて実感してしまう…。 いつからだろう…。 もう…長い事、終わりの無い隠し道を、独りひっそりと歩いている様な―。 身を弁えろと自嘲すればする程、エリックに会う度に、更に身も心も焦がれていくのだ。 恐ろしく器用な仮面の紳士は、その反面で、とても不器用な心の持ち主… その仮面が彼そのものなら、私は痴がましい事に、いつしか仮面の存在にすら、 彼の優しさを、見出してしまっている。 それに…、この世で唯一の理解者であるというだけで…、果たしてここまで尽くされるのだろうか。 …私は…エリックの何に、なれたというの? 嗚呼神様…!どうかこの―…憐れな恋心を、エリックに打ち明ける勇気を下さい! 残酷な愛の告白は、一歩間違うだけで、それこそ最悪の過ちにも成りえる。 それがエリックならば、余計に―…。 気が付けば私は、自分に与えられた肢体の総てで、彼の背中を包み抱きしめていた。 ―なんて大きな背中、…なんて温かな背中。なんて…淋しそうな背中…。 もうただ切なくて、泣き声の様な声しか出なかった…。 「エリックは、私に優しく、してくれた、」 彼の荒々しい呼吸が、だんだんと静まっていくのを感じる。 「エリックは、私を、こんなに、大切にしてくれた、」 反する様に、自分の声が嗚咽となってゆく。 「わっ、たしは、エリックが、…すき、」 そして、先程、彼が私に遣した重要な選択と同じ様に、 私もエリックに対して、大変重要な選択を迫った。 「エリック…どうか…、私を連れていって。 貴方から離れたら、きっと、私は息も出来ない、」 そう…酸素が足りない―…。 愛する貴方を失えば、もう陸の上の魚の様な息継ぎしか出来ない。 必死に縋る私を振り返ったエリックは、とてもとても…弱い顔をしていた。 まるで人類の原罪を、一身に科せられたような、あの張り詰めた呪いを脱ぎ去り、 聖母によって救済されたかのような―…。 彼の哀しく温かな涙が、つっと左頬を伝う。 朦朧とする頭でも、その涙が綺麗だな…などと思ってしまうのだから。 エリックは声も出せずに、綺麗な雨粒をぽろぽろと零しながら、 がくんと膝を着くと、戸惑いながら私を一生懸命に見上げた。 喉を押し上げる私の思いは、エリックへの愛に塞がれ、もう言葉に成らない。 自分の身の丈よりも小さくなってしまったエリックを そっと…けれども力強く、抱きしめた。 今度は私の雨粒が、彼にはらはらと降り注ぐ。 ああそうだ…エリックの涙は、私が舐めとってしまえばいいのだ―…。 胸に包み込んだ彼は、ゆるりと腕を上げると、 私の手を取り引っ張って、自分とと同じ様に、私を床に座らせた。 愛しさと不安にかき乱される胸中を探り合う様に、互いに、濡れた眼を覗き込んでいた。 するとエリックは、私の右手を握り、自らの頬にそっと持って行った。 …まるで一筋の望みに、縋るように―…。 彼の綺麗な雨垂れが、私の右手を洗って行く…その様が、とても切なく愛しかった。 ―彼は、とても暖かい―…。 触れ合った部分を味わう様に、彼はしばらく目を瞑って、ゆっくりと呼吸を整えた。 エリックの美しい目が、再び見開かれた時には、 その瞳には静かに燃える炎の様な決心が宿っており、 私を真っ直ぐ見据えたまま―…エリックは白い仮面を剥ぎ取った。 「これが、真実だ。」 声を震わせながら…彼ははっきりと、そう告げた。 仮面の下に眠っていた、ひどくひしゃげた骸骨の様な…それは…彼の顔だ。 私にとっては、滑らかな肌と同じ様に、いびつな肌を伝う涙も…やはり、綺麗なのだった。 目を見開き、一瞬動きを止めた私の口から、 おそらくエリックは、絶望を宣告されるのを待っていたのだろう。 …―エリック、貴方は忘れているわ―。 「…エリック…、真実って、美しいものね、」 私は泣きながらはにかむと、彼の胸にそっと手を当てた。 「真実はいつも、ここにあるわ、」 トクン、トクンと刻まれる、彼のリズムが掌を伝う。 「エリックの心は…とても美しい…。私はエリックの、すべてが、好きなのよ、」 その言葉をきっかけに、彼の痛々しい顔が、更に歪み、苦しそうに声を荒げて涙を流した。 そして、この世の者とは思えぬ力で、激しく…優しく、彼の腕に抱き締められた。 それは、一生克服出来ぬだろうと思っていた存在に、エリックが打ち勝った瞬間だった。 確実に―彼は今、やっと、啼いているのだ。 その腕が、距離などもどかしいと言わんばかりに、私を強く抱き締めるので、 それに応えるように、ありったけの思いを込めて、エリックの背中に腕を回した。 そして彼は、胸が潰れてしまう程、愛しげに囁く―…。 「本当に美しいのは……、君だ―…。 私はどうしようもない位…、君を、愛してる、」 私の本当の家は―…彼の腕の中にあったのだ。 そして見っとも無い位大きな声を上げて、彼の胸中で、泣きじゃくった。 どうしよう、エリック。 私はこんなにも…貴方を、愛してる。 |
難しかったです…本当難しかったです…
書き方がズレてズレて戻らない―…!(汗)
さて…ようやくカミングアウトと、
それに打ち勝つ愛の手はずがつきました…
長かったね…、君たちは本当に…不器用だ。うん。
中2か!(わからん)
ヒロインの盲目的な愛に頭が上がりません―…。
20070613 狐々音