|
onze の話が終わると、私は思わず声を上げて笑ってしまった。 目の前にいる女性の口からは、まるで雲の上を見てきた者のするような話が 次々と出てくるのだから―…! いや…彼女が嘘を言っている訳でもなければ、 これがジョークなどでもなく、ましてやの頭が異常を来しているなどとは 断じて一片も思っていない! しかし…笑ってしまうのだ。全く可笑しくも無いのに。 はある程度の覚悟はしていた様だが、それでもどこか気分を害したようで、 やっぱり信じてくれないのね…と小さく漏らした。 伏せられた睫毛にギクリとする。 私は慌てて彼女の顔を覗き込むと、出来るだけ御幣の無い言い方を選んた。 「いや、信じる。信じられない話だが…君の話は嘘ではない。 少なくとも私は……この世で生きる人々が、到底信じられない様な秘密を、 たくさん持ち合わせているからね。 おそらく君だって実際に見ない限り…私を信じてはくれないだろう」 どうであれその言い方に対して、困ったように笑い返してきたを見て、 私はひとまず胸を撫で下ろした。 「…ありがとう…エリック…」 その言葉には鉛の様な重みと、彼女に触れた時の様な温かさが 存分に含まれていた。 「あなたから預かったお金は…この橋の下に隠したの。 私がまた…あんなめにでも遭わない限りは、どうしても使う気になれなくて…」 そう言うと、の白く小さな手が、橋の下の暗がりへと伸ばされた。 土を掘り返すつもりなのだろう。 止めようとしたが、は止めないで、と笑うので、仕方なく私も黒革の手袋を外し、 その湿り気を帯びた土を、の邪魔をするように掘った。 「エリック、いいのに…」 「それで?文無しの君を住まわせてくれたあのご婦人は?」 少々皮肉っぽい言い方だが、まあ…ちょっとした仕返し気分なのだ。 私は作業を続けたまま質問を続けた。 「…ちゃんとした扱いを受けていたようには見えないが」 は哀しそうな声で、あの方は…と言う。 「もう…長いこと旦那様が…家に帰っていらっしゃらなくて… お使いで街に出たときに、よく違う女性を連れて歩いてらっしゃるのを見かけたわ。 ヒステリックで貧しくなった奥様の元には、従順なメイドも寄り付かなくなって… きっと私と同じように…困っていたのね。 何軒目だったか、あの荒んだドアを叩いたら、 押しかけの私を雇ってくれたの…。 私の条件は、このセーヌ川を…離れない事だったから… エリックに会えるかもしれないと思ったら、 どんな横柄なお使いも、ちょっとの叱咤だって…全然構いやしなかった。 そのうちパリでは、お金でパンが買えないようになってきたから… 奥様はますます酷い事を言いつけるようになってきた。 私に……体を売って…お金を持ってくるように言うの…。 髪を買い取ってもらったりして…急場は凌いだけれど、 それで何もかも丸く収まる訳じゃなくて。 何度も断ったし…何度も考えて… こんなに世間が貧しくなって、 唯でさえ異国の女がお金を稼げる方法といったら… そんな事しか…ないのよね。 …だってまさか、また…身を売るなんて、」 癇癪持ち特有の、塞き止めてもなお溢れ出る怒りと、 土を掘るという単純な作業の力を借り、静かに戦った。 黙って聞いている事が、久々に辛く感じた。 きっと私に―いや、おそらくもだろう―私たちに…してみれば、 先程の机上の空論の様な話よりも、こちらの方がよっぽど恐ろしかった。 「…それではどうしたんだ」 怒りで声が震えている事だけは、沸騰した頭でも自覚できた。 「…………わたし…、出来なかったの、」 一人思い悩んだ事を、鮮明に思い出しているのか、 は少々弱々しい声を発した。 「私…まさにさっき、エリックが現れるまで… あの庭で、その瀬戸際に立たされていたのよ…」 丁度その時、手には、探していた目的の物が、 すっかり黒くなってはいたが、ちゃんと見つかった。 「この…金貨を掘り起こして、ほんの数枚渡すか… それとも…身ひとつの覚悟で…この世界で"無"から銀貨を稼ぐか…、」 激しい怒りと同時に、その粗悪な行為が未曾有に終わった悪夢に感謝した。 今夜あのパンのために男を誘う女は… 何かひとつでも一足遅ければ、この子だったのかもしれないのだから…! 泥だらけの手で、の頬をしっかり包み込み、無理矢理こちらを向かせると、 捲くし立てるようにそれだけを言い聞かせた。 「…よく聞くといい。 もしそんな愚かな事を、これ以後考えたのならば…、 私はを一生呪って許さないだろう!!」 本来ならば、私の激情がこの様な言葉だけで済んだ事を、感謝すべきなのだ。 は大層驚いたようだが、…その分、反動も大きかった。 すでに己の何倍にも膨れ上がった、はち切れんばかりの重荷を、 彼女が…おそらく待ち望んでいたであろう…人物に、諭されたのだから―。 そのガラス玉から、大粒の涙をぼろぼろと零すと、 自分の泥だらけの頬と、私の泥だらけの手を清く洗い流すように、 私たちの触れた部分を落ちていった。 「ごめんなさい、もう、そんなこと、かんがえない、」 私の手の中に在りながら、この少女は怯えず、むしろ安堵し… 私の屈折した…ある意味での一種の愛を、真っ直ぐ受け止める―。 その様は、熱せられた胸を抉るには充分だった。 「そんな事は、私がさせない」 自分の口から確かに紡いだその言葉は、 不思議なまでに一瞬にして内の怒りを消し、 美しい睫毛を湛える、の瞼に…私から、キスを落とさせた。 土と涙の味が…舌を伝った。
|
ファンチョムの自虐ジョークが、
割と危うくて好きです。
この回で微妙にテンションが
上がって頂けてれば幸いです(土下座)
20070517 狐々音