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un 夜も遅くになると、ひと目を避けるようにマントを羽織り、シルクハットで顔を隠して、 適度な冷たさを含む空気を、胸いっぱいに吸った。 本当にごく稀にあるのだ。 地上でしか得られぬ伸びやかな空気が欲しくなる事が… しかし大概の場合、もうあと10分もすれば、 夜の街に飛び交う、浮かれに浮かれたパリジャン、パリジェンヌの楽しそうな声に当てられ、 私の地下の帝国に、1分1秒でも早く帰りたい!と願うのは目に見えていた。 というのも、今夜は、役に立つジュールに、頼みそびれた物が多すぎた。 全く以て私らしく無い…次の訪問まで待てばいいだけの話なのだが、 たまには理由を付けて、夜の外に出るのも悪くはない。 断っておくが、私にしては本当に珍しい行動であり、 それこそ自分でも、少々気に掛かった。 セーヌの岸辺沿いでも歩いてみようか、と思った矢先、 ぞろぞろと人の群れが、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。 私はすかさず暗がりの路地に入り、姿を隠した。 こうなってしまうともう闇の中に身を潜め、 その人だかりが捌けるのをじっと待つしかなかった。 まったく…ついていない…! 仕方なしに、息と耳を潜めて、彼らの熱を持った笑い声や話し声を聞いていると、 まるでナイフが胸を貫くような…忌々しい言葉が耳に入ってきた。 「見世物小屋、」 まだそんな愚かしい物を、パリで観たがる奴がいたのか…! 突然湧いて出た怒りに、喉元が焼けてしまい、もう声が出ないのでは、と思った。 どうやら通り過ぎる集団は、今まさにその"見世物"を観終えて 帰っていく一行だったらしい。 高らかな話し声が、もう遠くまで消えてしまった事がしっかり確認出来ると、 再び路地から、通りへと飛び出した。 「………あのテントか」 顔を上げて、遠くの方を見れば、確かに遠くの方に、ぽつねんと光るものが確認できた。 今度は顔を足元に向けてみれば、しわくちゃになった見世物一座のビラが落ちていた。 どうやら地区の郊外に留まっているようだ…あんな物…! ビラを拾い上げ、すっかり破いてやろうと思った瞬間、目が剥がせない謳い文句を捉えた。 "東洋の魔女、檻に生け捕ったり!" 檻―檻―…檻…!! この醜悪な檻はいつだって、愚かな人間の悪趣味な欲を埋めるための、 恰好の道具なのだ! オリエントが珍しいというのは認めたにせよ、"檻"に"生け捕り"…という辺りでは、 この"魔女"とやらが、自ら望んで見世物になっている可能性は低く思えた。 私が善だの悪だのと考えるよりも早く、足は郊外へ向けて凄まじい速さで歩き出していた。 もうその檻を打ち崩す事しか頭になかったのだ。
どうやら既に物珍しい物を見て、満足しきっているからであろう、 行き交う人は私には目もくれず、例の魔女の話などに熱を上げていた。 見世物テントの賑わう広場に紛れ込む頃には、 まるで自分がこの一座の一部であるかのような錯覚に襲われ、絶望した。 過去と現在、そしてこれらも続いていくであろう、自分の生まれた星の運命。 とっくに考え尽くした、やり場の無い怒りの矛先に、吐き気を覚えながらも、 今自分のしている、興味本意と取られても仕方が無いような行動に、自嘲してしまう。 自分がここという場所に、違和感無く存在し闊歩できているという、 認めざるを得ない事実には、今は敢えて目を瞑って、 そこそこに広い、このシルク内を見渡す。 火の輪くぐりのライオンに、毒蛇を体中に巻きつけた褐色人… 目線をしきりに動かし、状況を良く把握する事に専念していた…その時。 突然、耳を劈くような、甲高い悲鳴が広場に響き渡った。 驚いて、悲痛な叫び声の源を辿ると、いかにも其れらしくレタリングされた看板を見つけた。 …ここだ。このテントだ。 グロテスクなグリーンで纏われたテントには、既に人集りが出来ていた。 並んでいる者に加え、悲鳴を聞きつけた者も吸い寄せられていく。 そして不思議な事に、魔女が泣く声は、醜い者の歪んだ好奇心を 満足させるだけの力を備えていた。 出て行く客は、満足げに熱く談笑するものもあれば、 ごくたまに、好奇心の過ちだったと気付き、顔を蒼白にして帰っていく者もいた。 テントから絞り出されるその悲鳴は、客足が途絶えるまで、何度も発せられていた。 自分もかつて、このような形で、客を満足させなければいけなかったなんて―… 思い出しただけで、ムカムカと吐き気が襲ってきた。 私の体中で沸騰した血が、今にも毛穴から溢れ出し、心身がズタズタにされる思いがした。 こんな、気が狂う思いをしてまで、私がここに留まる理由など、何一つ無いのだ。 そう無いのだ、無いはずなのだが… 何故だか解らないが、このまま逃げるように家路に着く事だけは、どうしても憚られた。 とにかく…! 今は耐えろ・耐えるのだ…!あの檻を消し去ってしまうまでは…! もちろんだが、すぐ隣で客の欲望を満たしている醜悪なショウを、私が観る訳が無い。 奴らに混じってソレを観る位なら、死んだほうがましだった。 例えその行為を、万物の神がしたって、私は絶対にしない…!! ざわめくテント小屋の影に、身を小さくして隠れ、早く終わってくれと終演を待った。
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まだしばらくお名前変換が出てきません…
ごめんなさい…(汗)
シルク=サーカス ですね。
サーカスというよりは、皮肉も込めて、
あえて見世物小屋という意味で使ってます。
20070501 狐々音