「…実は先程、稀譚舎に行って来たんだ。そしたら偶然、敦ちゃんに会ってね、」

中堅の出版社である稀譚舎の文芸誌に、私は不定期に執筆の仕事を貰って、何とか生活している。

その稀譚舎で、若いながらも立派に雑誌記者を勤めているのが、京極堂の妹、中禅寺敦子である。

私はそこでふと、目の前で鎮座している京極堂の表情を盗み見た。

この男は完全に、目で字を追う以外には、何の興味も抱かないつもりらしい。

出不精で凶悪な面相の兄とは、似ても似つかない敦子―敦ちゃん―は、

稀譚舎の廊下で私を見つけると溌剌と声を掛けてきたのだった。

そこで聞いた話なのだが、どうやらが文芸部から、装丁の仕事を頼まれるらしい、と云う。

そもそも先程から話題に上っている、の仕事と云うのは、本の修繕という職である。

旧制高校時代から、と顔馴染みである私が、戦争から命辛々帰ってきてみれば、

は私の知らぬ、そんな技能を身に付けていたのだ。

その為に終戦直後、人手不足の御国に置ける機密書物の修復人員に、

あわや駆り出されそうになる―…そんな事もあった。

実際は、女性という理由で、なんとか駆り出される事は免れたのだが―、

とにかく周囲の人間はほっと胸を下ろしたのを覚えている。

どうやらその修繕の技術というのは、戦時中疎開していた東北の方で、

本修理を生業としていた御宿老に、見よう見まねから始めて、鞭撻を乞ったらしい。

元々本という媒体に、縁の強い家に育ったなのだから、何もかもが消えて行ったあの時代―…

本を治癒させ後世に残すという行為に、彼女が強い興味を持ったのも、当然の様な気がした。

亭主の古本屋『京極堂』が開業すると、初めの内は、この『京極堂』に集められる、

朽ち掛けた本の修繕を、趣味が高じた程度の気持ちでやっていた。

しかし、のその見事な仕事ぶりを、たまたま目にした初老の好事家が、

金を払うのでぜひ仕事として頼まれてくれ、と頼んだのが、修繕屋『京極堂』の始まりとなったのだった。

評判が評判を呼び、繊細な仕事には、やや不釣合いな量の仕事を頼まれるにまでなった。

そんな折、の義妹でもある敦ちゃん伝に、稀譚舎から、老朽した本の修繕を頼まれた。

その時に居合わせた私も、偶々その本を目にしたのだが、傷みに痛みきった本―というより朽ちたバラ紙だ―には、

表紙らしき物は蜜柑の皮を千切った程度しか残っておらず、本来の色すらも判別の付かぬ状態だった。

幸い中身は辛うじて原型を留めていたので、稀譚舎からは、表紙は捨てて頂いて結構ですので、と一筆添えてあった。

その本は大層貴重な物らしく、書痴である京極堂を差し置いて、は修繕と併せて丁寧に読み込んだ。

そして見事に製本し直し、稀譚舎に返された時には、流石に本には表紙が必要―と、

他の仕事を請け負った時と同じように、独自オリジナル意匠デザインの新しい表紙が付けられていた。

にしてみれば普段と何ら変わらぬ仕事をし、更に嬉しい事に文学に関する貴重な書物も読めたのだから、

それだけで十二分に満足、と無事に仕事を納めた―はずだった。

だが実際の所、良い仕事とは縁を生むもので、の修繕した古書の表紙の意匠が文芸部の目に留まり、

今秋「近代文藝」から出す予定の、期待の作家陣の短編を集めた、秀作集本の装丁を、

ぜひに依頼しよう―…、という話になっているらしい。

…―私が敦ちゃんから聞いたのは、そこまでだったが、私の既知の知識と併せてみても、

矢張り真相ばかりが気になって、気付けば私の足は、そのまま話題の人物の住まう、

この『京極堂』へと辿り着いたという訳だ。

「…―それで、実際のところ、この話は本当なのかい?」

私の声は相変わらず、もごもごという、くぐもった音にしか聞こえない。

それでも好奇心混じりの私の話を、は途中で遮る事も無く、聞いていた。

本題を問いかけられ、そこでようやくは、その大き過ぎる翡翠珠の様な目を、更に瞬かせながら云った。

「御話は伝わるのが早いのね。実はその御依頼…もうお請けしたの」

そして、ほっそりとした手を、祈るように胸の前辺りで合わせ、恥ずかしそうに笑う。

どうやら私が聞いた時点より、真相はもうずっと先に、話が進んでいたようだった。

のそんな姿を見て、いつの間にか京極堂が横から入る。

「…因みにその短編集に載る作家は、まだ多くが未定だそうだよ。関口君」

これは明らかに、うだつの上がらぬ私を、惨めな話題に持っていく時の流れだ。

「な、何だよ…藪から棒に、」

「藪から棒なものか。君のつまらない小説は、短編でこそ、まあ、やっと何とか底々読める程度なんだ」

あっさり吐き捨てつつ、友人は袖から煙草を取り出すと、1本咥えた。

透かさず、が釘を刺す。

「1本だけですからね、」

京極堂は、愛妻の忠告を無視するように片眉を吊り上げ、凶悪な目つきで私を見た。

「いいかい関口君。お零れにしろ仮にも君だって、稀に『近代文藝』に寄稿しているんだ。

 また何かの手違いで、君に声が掛かる事だって、無きにしも非ず―…という事さ」

そこまで云ってから、京極堂は軽快な音でマッチを点した。

「そんな慰めにもならぬ事を…」

第一そんな本が出るというのも、ついさっき知ったのだ。

私の脳裏には、なぜか自分に赤紙が届いてしまった時の、何とも云えぬ場面が過ぎった。

「でも…そうなったら私、巽さんの御本の装丁をした事になるのね。凄く素敵な事だわ」

こちらのご婦人は、いつ会っても不機嫌極まり無い顔の亭主とは、全くの逆性で、

綺麗に整った顔は、いつもつっと小粋に微笑んでおり、身体は一見して細身ながらも、

肌理の細かい白肌が、会う度に眩しい位だ。

まるで、体温を持った陶磁器人形の様な、西洋的な美しさがあるのだ。

―それは出会ったときから、何一つ変わらない―。

私だけでは無い。

榎さん―榎木津礼二郎―も、そしてこの京極堂―中禅寺秋彦―も、

皆同じ様に、中禅寺―を大事にしてきたのだ。

ひとつ、私のあって無い様な面子のために断っておくが、私は決して人妻に横恋慕、などという、

器用で悲劇的な思いを、抱いている訳では、決してない。

「有り得ない話をするのは、もうよそう。仕事の邪魔をして悪かったね。

 僕の用事はもう済んだから…は自分の用に戻ってくれよ」

私はそう云うと、にへらと情けなく笑った。

「そんな事いいのよ。でも、ありがとう。良ければいつものように、くつろいでらしてね。

 私は失礼して奥に居るから、何かあったら一声掛けてくださいな」

は、そう云って席を立った。

襖がパタンと閉められれば、座敷に残された私達を、気心の知れた沈黙が包んだ。

沈黙の中で、黙々と本を読み進める京極堂。

咥えられていたはずの煙草は、気付かない間に消されていた。

―どうやら本当に1本だけ吸って、満足したみたいだ―

私は、心地の良い午後の陽気と、わずかに癒えた腹が相俟って、不明瞭とした意識の中を散歩し始める。

―旧制高校時代…二つ下の女の子…漆黒のお下げ…溢れる本―――…

「…―関口君」

突然名前を呼ばれ、私は白昼夢から、引き戻された。

はっと顔を上げた。

見透かした様な目をして私を睨む男と、目が合った。

「な…なんだい」

少し声が上擦ってしまった。

京極堂は視線を本へと戻すと、呆れたような小馬鹿にしたような口調で、私に云った。

「君の事だ。どうせ過去の思い出を反芻して、夢現の狭間をふらふらしていたんだろう」

違い無かった。

だからこそ、私は少々むきになって、挽回しようとした。

「ッ…君だって、思い出に耽る事くらいあるだろ?」

「あるよ。語ってやろうか」

「もういいよ」

私はだるそうに茶を啜り、縁側で眠る猫を見た。

「君は過去を反芻し、僕はそれをいつも冷や冷やしながら見ているんだぜ」

そう云って京極堂は、凶悪な面相で不敵に口の端を吊り上げた。

「…―と僕らが出会った頃の事を、思い出してね―…。

 君や榎さんを見ていても、こんな気持ちにはならないが、

 を見ていると、たまにあの頃を思い出すんだ」

私の言葉は、実に抑揚の無い物だった。

そこで本の頁の捲れる音が、かさりと耳を擽る。

のままだ。何ひとつ変わっちゃいないよ」

そう漏らした京極堂の声は、付き合いの長い私などにとっては、とても穏やかな物に聞こえた。

猫がにゃあと、ひとつ鳴いた。





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このお話はここで終わりです。

歯切れが悪いですが…若い頃の中禅寺たちとさんとの馴れ初めで補いますので…!(多分)

ここまで読んでくださってありがとうございました。

2001225 狐々音