この坂は、迫るような、歪んだような、何とも云えぬ纏わりつく不快感で訪問者を煽る。

私のように陰鬱に片足を突っ込んで歩いている様な情け無い人間には、

このだらだらと続く割に、勾配の激しい坂道は、些か拙い物がある。

道に慣れぬ訳では無い。

日頃より此処へは、それなりの頻度で、足を運んでいる。

私は其の都度、この不安定な坂に迫られる様な感覚に襲われ、そして見事に酔うのだ。

坂に船酔いする事と鬱病の気をくっ付けて語ると言うのも、人様に云わせれば奇妙な事なのかもしれない。

しかし、穏やかな皐月の天候を以てしても、矢張り私の酔い心地は、段々と酷くなるばかりだった。

流石にこの坂では、この坂を往復した回数イクオール慣れた足取り、とは行かない。

不思議な物で、丁度嫌気が注す頃合いを見計らって、その坂はぷつりと終わる。

そこで二三度頭を振り、息を吐く。

不安定な私の足は、再びふらふらと目的の店へと歩き出した。

店の概観を目にする頃には、少し気分も回復した。

素人とも玄人とも判別しにくい、『京極堂』と書かれた看板を阿呆の様に見上げると、

いつもそうしている様に、それを潜った。











明るい日光に晒されていた目が、幾許か暗がりに慣れない。

外観からも見て取れるように、蔵を思わせるこの建物の中には、

日の当たらぬ場所に匿われ、大層丁寧な扱いを受けている、様々な古書が鎮座している。

外界の空気とは、また異なった不思議な空気が、ここには留まり、充満している様に思う。

古書独特の香りが、微かに鼻を突く――だが、不快では無い。

古本屋『京極堂』の主とする売り物は、私の理解からは随分と遠い所の本ばかりで、

それこそ好事家と呼ばれる、一風変わった客層からの支持無くしては、店として到底持つ訳も無いから、

潰れやしないのか、と私の不安を煽ることもしばしばだった。

というのも、この『京極堂』の店主の愛想の無い事と云ったら―…理解の範疇を超えている。

私の不安を他所に「骨休め」という木札を掲げ、店先に居ない事もざらだが、

だからといってわざわざ暇を作り、外に出歩くのかと云えば、往々にしてそんな事はしない。

家の中まで侵食している本を、酷く厳しい顔をして、ただ黙々と読み続けているのだ。

そして『京極堂』の店主は、来訪者である私の、間抜けな顔を確認するでもなく、

今日も普段と同じように、店の突き当たりで、黙々と本を睨め付けていた。

情けない話だが、私がこの男に歓迎されるなどとは、微塵にも有り得無いと解っていたので、

少々横柄な口調ではあったが、挨拶らしからぬ態度で、沈黙を裂いた。

「京極堂、は居るかい?」

という単語に、気のせいかその眉間がぴくりと動いた気がした。

案の定、屋号で呼ばれた店主は、本から顔を上げると、大儀そうに方眉を吊り上げ私を一瞥した。

その顔は、町内会の人間が全て死に絶えた様な仏頂面だが、無駄に付き合いの長い私などは、

どこか見慣れてしまった感があるため、早々凶悪な面相でも、まず驚くことは無い。

「関口君――君なんかが、どうしてうちのに、用があるって云うんだ」

それに付けて、口を開けばこの云い様だ。

「そう云うけどなあ…君だって知っての通り、お宅の細君と僕は友人なんだ」

「ああ」

京極堂はそこでやっと、読みかけの本を閉じ、机の上に置いた。

「そうだったね。が関口君の事を一人の立派な"友人"として扱っている事が、僕には未だに理解出来ないよ」

…また随分と辛辣な事を云ってくれる。

仏頂面の男は座布団に根でも張っていそうな程、確りと座っていたにも関わらず、

いざ立ち上がるとすっとした物で、もう私の方など見ず、更に奥の母屋の方へと消えていった。

襖の摺れる音と「、客だ」という声が、微かに聞こえてきた。

私は待たされる間、見慣れている蔵の中を、改めて確認し直すが如く見回した。

堆く積み上げられた、茶色い本の群れは、几帳面に整頓され、決め事に則った順序で、正しく収まっている。

読んだらただ積み重ね、手の届く所に散らばりがちな本と云う物を、

常に、ここまで潔癖な状態で保たせておくと云うのも、中々凄い物だ。

私などには到底真似出来ぬ几帳面さであるし、そもそも私に言わせれば、

ここの本棚はあまりにも決まりが良過ぎて落ち着かぬのだ。

…―と、以前口にしたら、京極堂は軽蔑の眼差しを私に遣したのだった。

私の不明瞭とした意識を打ち消す様に、母屋の方からぱたぱたと、女性らしい小走りの音が聞こえてきた。

「あら!巽さん」

はとても耳に心地よく、優しい声音で囀る様に喋る女性なのだ。

奥から出てきたを見ると、どうやら仕事の最中だった様で、珊瑚色の着物を襷掛けにしていた。

どんなに忙しくとも、巻いて纏めたの髪が乱れている様を、私は見た事が無かった。

生活がすぐに乱れるずぼらな私にしてみれば、忙しくしていても生活も身形も常に確りとしているなどは、

大変良く出来た人だと尊敬したくもなる。

「作業中だったの…汚い格好でごめんなさいね」

今まさに綺麗なと自分のだらしのない格好とを内心の天秤に掛けんとしていたこちらの気を知ってか知らずか、

彼女の口からは、申し訳なさそうにそんな言葉が漏れたから、私は一人で勝手に恥ずかしくなってしまった。

「もう秋彦さんったら。巽さんなら巽さんだって、ちゃんと仰って頂戴」

そう―、京極堂にも中禅寺秋彦という、立派な名前があるのだ。

だた私を含め、多くの者は、彼の事を名前ではなく屋号に因んで「京極堂」と呼ぶ。

。君は訪問者の名前を聞いて、客を選ぶ様な失礼な真似をするのか」

の後ろに控えるように立っていた、今時珍しい和装の痩身―京極堂―が、腕を組みながらわざとらしく云った。

「そうじゃなくってよ。ごめんなさいね巽さん、うちの人ったらいつもこの調子で」

「あ、いや、」

「きっとろくに挨拶もしなかったのでしょう?さ、どうぞ上がってね」

そう云うと彼女は、美しい面相でにこやかに微笑み、私を母屋へと招き入れた。

京極堂は入れ替わるように「骨休め」の札を手に取ると、表にそれを掛けに降りた。

私が自分の定位置の座布団に座ると、同じく京極堂も、私の向かいの定位置に着いた。

京極堂の手には、和綴じの本が持たれていて、私が客人として招かれようが、

一向に構う様子も無く、また本を読み始めた。

「君の書痴も大概だなあ。は良く君みたいな人間と、一緒になろうと思ったものだ」

「馬鹿を云っちゃいけないよ関口君。君だってそれ位知っていただろう」

それ―…というのは―おそらく京極堂との知り合った馴れ初めの事だろうか―。

だとしたら、大抵の事は知っているし、こうやって私とが友人として言葉を交わしているのも、

その出会いがあったからなのだ。

京極堂は私などには一瞥もくれずに、口だけを動かして漏らす。

「本がすべてを繋いでくれただけだよ」

呟きを掻き消す様に、が朱の盆に熱いお茶と茶菓子を乗せ、丁寧に勧めた。

「頂き物であれなのだけど…とっても美味しい御羊羹なの。皆で頂きましょ」

小腹の減っていた私には、とても有難い茶菓子が出された物だ。

三等分に切り分けられた羊羹を頬張る。

この期に及んでも、一向に字面から目を逸らそうとせず、片手で行儀良く羊羹を食べる友人を凝乎と見ていた。

私も私で注して気にするでも無く、更に羊羹と茶を頬張った。

「巽さん、雪絵さんはお元気?私、此処の所、随分と忙しくしていて…。しばらくご一緒していないの」

雪絵というのは私の妻の事で、ご一緒というのはおそらく、仲の良い妻同士二人で出掛けるという事だろう。

私の知る限りでは、の親しい女友達というのは、どうやらうちの雪絵なのだ。

よく連れ立って出掛けているらしい。

私は雪絵は相変わらずだと返す代わりに、ひとつ頷いた。

それを見て安心したようにの顔が緩むのを待って、私は取りとめも無く、

自分がここへ来た所以にまつわる話を、ぽつぽつと口にした。













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20071225 狐々音