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そう――兄のように慕われている、と――そう思って来た。 平素の風間ならば、その純白の信頼をじわじわと裏切るのもまた一興と考えるだろう。 興味の矛先さえ向いてしまえば、場合によっては労りなど無用とばかりに、 少女を力に任せて女にしてやる事も厭わない。 ――だが。 はあまりにも脆く、不安定だった。 それは精神の話ばかりで無く、肉体もまた同じように悪夢に痛めつけられていた。 せっかく生き延びた家の末裔、ましてや純潔の女鬼とくれば、 風間としても、何としてでも健やかさを取り戻し、生きてもらわねば困る。 ――困る――。
ほぼ毎夜、この甘く馨り立つ柔らかな少女の躯を抱きしめて眠らねばならぬのだ。 大抵は風間にとっても安息な物で、犬や猫だと思えば 愛しさを友に、穏やかに眠る事が出来た。 だがしかし――何事にも周期という物が存在する。 愛しさも過ぎれば、甘さは苦痛となり、愛しさは欲望となって風間を苦しめた。 健やかに眠る柔らかな躯が腕の中で身を捩る度、煽られているようで――。 その喉に、鎖骨に、肩に、胸に、この口を這わせたくなる。 逸そ殺せと願う程――その感情は風間を無惨に嬲った。 だが耐えてみせよう――耐えねばならぬ――まだ今は――。
起きている時、その言葉は信じるに足りる物だと思う事が出来る。 だが――それでも――。 潜在には、見過ごせぬ事実と言うものが確かに存在している。 毎夜魘される夢は、黒と赤に塗りつぶされた、地獄絵図。 村民、親戚、兄達、そして、父と母。 首を切られ、心臓を抉られた鬼の屍は――、 夜毎の脚を掴み、追い回し、そして悪罵を浴びせる。 “――何故お前は死なぬのか。何故無様に生き長らえているのか――” “――面汚しの卑怯者め。恥を知れ――” “――誇り高き家を愚弄するとは――” “――しね、死ね、屍ね!――”
額に玉の様な汗を張り付けて、は飛び起きる。 混乱するがその夢を思い出す前に――刹那、その手はいつも伸ばされる。 風間の、剣を握る、無骨で、長い指の、冷たい――男の、手。 ひたり…と頬を包んでくれる。 はそれを味わうように目を閉じて縋る。
そうしてがうとうととなる頃――そっと耳元で呟く。
の夢見は相変わらずであった。 ただ風間が居なければ、やはり睡眠すら確保できぬ状態となる。 多少の夢見が悪い程度で済むならば――やはりこの添い寝は不可欠か――。 しかし風間の身にもまた、苛立ちが募るようになって来た。 毎日この腕に抱いているのだ――の躯の微細な変化という物が、嫌と言う程解る。 薄い衣の下に眠る無垢の権化。 それは一際罪深く、風間の熱を煽るのだった。
風間はしばし黙し、手元の筆を睨んで何かを思案していたが、 ついに諦めたように息を吐く。
不慣れな空間に萎縮しているのか、にはあまり元気が無い。 風間はそんな事も予感していたようで、縁側に腰かけると、隣に座るようを促した。 季節は春――庭に植えられた桜が、ちらちらと春の雪を落としている。
それは――、
「嬉しいか」 「はい…!」
まるで春が、一同に咲き立つようだ――風間の胸は掻きむしりたくなる様な息苦しさを覚える。 桜貝の纏わう白く細い指が、金平糖を摘み、小さな口へ含まれる。 そうしてまた、は幸福そうに顔を緩めた。 少女はまた同じ仕草を繰り返し、そうして摘んだ物を、今度は風間の方へと差し出して微笑んだ。
そんな事を想いながら、長い睫毛を伏せ、鼻を突き出し、唇を割り――、 砂糖の粒に、の指に、歯と舌で触れる。 もどかしくも寸での理性――と言った処か。
は頬を赤らめた。 何故だかとても堪らない想いがしたからだ。 熱を紛らわすように、視線を桜の大木へと投じる。 美しい――の優しい眼差しを追いながら、風間が口を開く。
銀桜の里、という位だからな――さぞ綺麗な花が愛でられたのであろうな」 「はい――それはもう……至極見事な桜でございました」 「俺はお前の兄にはなれない」
そんな…そんな事、私だって善く諒解って――…、」
…――つくづく思う。 あれ以来の自分は何て愚かになったのだろう。 全ての物に蓋をし、甘え、護られ――成長する事を拒み、知る事を畏れ――。
哀しく微笑み、澄んだ涙がぽろり、ぽろりと頬を落ちる。
に対して取った事も無い動作で、先刻手に持たせた甘い菓子を叩き、 手荒に手首を掴み上げると、引きずるように部屋の中へ突き飛ばした。 砂糖で似せたまがい物の星屑は――砕かれてしまう――。 畳に転がり、は何とか手を着き、受身を取る。 咄嗟に見上げれば、憤怒を露にを侮蔑する風間が、威圧するように佇んでいた。
命を繋ぎ止めてやった、この俺に!」 「っ私は!」
日中は善いのです――母の言葉を思い出せます。 でも…っ!夜は違います! 風間様の二本の腕が、辛うじて私を繋ぎ止めて下さるけれど、 夢の中では地獄が広がっているのです! 無念に死に絶えた者が、私を捕らえて許しません! あの時、何故共に死ななかったのかと…!何故無様に生き長らえたのかと…! 死ね、死ねと私に命じるのです…っ、私は――…っ、私は…!」
ではそこに伏して、せいぜい歯でも食いしばるが良い!」
部屋の隅に置かれた文棚を乱暴に開けると、その手には――あの螺鈿の短刀が握られていた。 が自らの手で父と母の命を奪った、短刀が。 血で黒く染まったはずの短刀は、風間の手によってすっかり手入れされていたようで、 鞘から引き抜かれた刃は、不吉な鈍い光を放っていた。
…――覚悟は変わらぬのだな」
切先は真っすぐ――の方へ向いている。 は尊い死を受け入れて、目を瞑る。 衝撃を受け止めて、勢い良く畳に押し倒される。 打ち付けた肺は痛み、息は閊え、背に、胸に、小さな痛みが走る。 …――だが――。 ゆっくりと瞼を持ち上げれば――そこには風間の端整な顔が在った。 鼻と鼻が触れるほど近い場所で。 鬼の金色の瞳で強くを見つめている。 刀は――の首をかすめるようにして、畳に深く突き立てられていた。 風間は淡白に言った。
お前の命は常に俺の手中にある――何時なんときも、お前は俺の物――…。 ――お前はその耳で、瑠璃の目で、俺だけの声を聴き、俺だけを見ていろ」
「名を呼べ――にだけその名を許す――呼べ」 「ちか……っ――千景さま、」 「言えたな――…褒美をくれてやろう」
純潔に震える無垢な唇に優しく口づけて――酔わせてやる。 男の与える其れは、少女のまるで識らぬ恍惚を齎す。 小粒の涙が頬を伝う。 風間が苦し気に唇を離すと、は名残惜しそうな表情をする。 いつの間にか、鬼の容姿は平素の姿へと戻っていた。
だが俺にしてみればそんな問題ははなから意味を持たぬ、至極滑稽な雑事だ。 お前は、吾が妻と成るのだからな。 ――よ、これ程までに俺を酔わせる甘やかな優雅よ。 俺はもう随分昔から、以外の女と結ばれる気は無いのだ。 の末裔よ――諦めろ。晴れて風間を名乗るが良い」 「…――千景様…」 「俺は己が欲しいと思った物は必ず手に入れる。 俺自身の心の声の命ずるままに――例えそれが女であろうとな」
万物を魅了して止まぬ、母なる青――気を抜けば吸い込まれそうで。
私の心の魅せる、新たな夢の続きなのでございましょうか…。 一目お会いしたあの時より、はずっと…ずっと千景様をお慕いしておりました。 この愚かな戯れ言こそ真実なのでございます……私を信じて頂けますか」
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ひとしきり書いたあとでふとイメージした曲は『春のかたみ』でした。
20111020 呱々音