時同じくして――運命を大きく左右する事件が起こる。

クレインの様子の微細な変化に、は気付いていた。

ここの所、の前で平静を装ってはいても、

ふと遠くを見つめてフッと笑う彼の目の奥には、

残忍な緊張を楽しんでいるようなクレインの本性が盛んにギラついていた。

確かに彼は残酷な人間だが――ここまでの姿はも今まで見た事が無い。

の胸中に小さな不安の影が忍び込む――。

ある日曜日、リビングで読書をするクレインの隣で、

が勉強に勤しんでいると、訪問を告げるベルが鳴った。

普段ならばソーシャルワーカーくらいである。

つまりこの家では――それはとても珍しい事だった。

クレインは訝し気に訪問者の顔を確認しようと薄く扉を開ける。

すると彼は微か目を見開き、一瞬にして身体を強張らせた。

しかしそれと同時に、どこか異様なこの状況を

楽しんでいるかのような危うい印象をは受けた。


(わくわく――してる)


クレインが扉を開くと、そこには――。

背が高く、体つきも立派な紳士が立っていた。

上品な黒いスーツを着て、後ろにはもう1人スーツの男を連れている。

連れの男は彼の友人というよりは従者と言った雰囲気だった。

紳士はとても深い、落ち着いた声音で挨拶を述べた。


「自宅に押し掛けては――まずかったようだ」


しかし言葉とは裏腹に、紳士はクレインの後ろに目線を投げた。

部屋の奥に立ちすくむの姿を、興味深気に伺っているのだ。

はまるで蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった。

呼吸すら覚束ない。


(こわい)


クレインは不適な笑みを浮かべ、慎重に言葉を選んで返した。


「何――構いません。

 まさか貴方の方からいらっしゃるとは――、

 私の方こそ、ご足労頂く形になってしまって――心苦しい限りですよ」


言い切らぬうちにクレインは振り返り、硬直しきったに目配せした。

しかし紳士は誰にもバレた事のなかったそのやり取りを

あっさりと見破り、口を割った。


「お嬢さんが居るとは――どうやら日を改めた方が良さそうだ」


しかしクレインは譲らなかった。


「いえ、その必要はありません。今日で結構です」


はクレインの興奮が空気を揺らすような錯覚を覚えた。

ビリビリして、息苦しい。

――《スケアクロウ》が欲しかった。

ソファに置いてあるそれを、振り返って腕に抱きしめる事すら出来ない。

この異様なまでの緊迫感――。

クレインが紳士を家の中へ招き入れる。

連れの男はやはり付き人なのか、玄関で待機していた。

クレインは極度の緊張に晒されたを見て、内心で舌打ちをした。

紳士はを見据えている。

はなんとか恐怖を振り払って紳士の目を見た。

すると紳士は膝を折り、その長身を縮め、自己紹介を述べた。


「驚かせてしまって悪かったね。私の名はヘンリー・デュカード。

 今日はお父さんとビジネスの話があって来たんだよ」


デュカードの声も瞳もとても奥深くて穏やかなのに、

どこか感情が読み取れない。


「――まさか娘が居たとは、」

「いいえ――血は繋がってません。

 だが私の従順なペットだ」

「――信用出来るのか?」

「もちろん――私が保証します。

 それに、」


デュカードの目は信憑性を探っている。

はもはや限界だった。


「コレは口を利けませんからね。

 《口外》する心配はまず無いでしょう」


クレインはそう言って嘲笑を浮かべた。


「――では例の話を始めよう」


そうしてようやくデュカードの注意がから逸れた。


「ええ、ぜひ。

 では、ミスター・デュカード――あちらへどうぞ。

 ――お前は自分の部屋へ戻れ」


はスケアクロウを抱きしめて、自分の部屋に避難した。

今更恐怖が込み上げ、涙が止まらない。

スケアクロウにその涙が染み込む。

――聞いてはならない話が始まる。

少しでも動いて聞き耳を立てよう物なら、きっとすぐ悟られる。

は無力にも、デュカードがこの家から

一秒でも早く出て行ってくれる事を願うより他無かった。















    ・

    ・

    ・















悠久の時が経ったようにすら感じた。

はあれからずっと時計を睨み続けている。

――ちょうど1時間が経ったまさにその時。

扉越しに声がした。

デュカードだ。


「――クレインはじき目覚める。

 効果は薄いから問題ない。

 私たちは帰ったと彼に伝えてくれ。

 ――いいね」


返事の代わりに弱々しいノックが2回返って来た事を確認して、

デュカードたちはこの家を出て行った。

はまず自分の部屋の扉を少し開け、それから恐る恐る辺りを見渡す。

大丈夫だ。

デュカードたちの気配はしない。

は弾かれたように慌てて部屋を飛び出した。

無駄な行為かもしれない――でも、玄関の鍵を閉めなくてはと思った。

手足が震えて少しもたつく。もどかしい。

そしてとにかく無我夢中でリビングを目指した。

ソファの上には――、クレインが――!

駆け寄る。

だが、意識はない。

は必死でクレインの身体を揺すぶった。

涙が止まらない。


(こわい お願い 起きて)


揺すぶって、揺すぶって、そうしてようやく、

クレインは短いうめき声を上げた。

深い昏睡の淵から這い上がるように、クレインは重たそうに瞼を上げた。

彼の朧げな瞳に映ったのは――涙で顔をぐしゃぐしゃにしたの姿だった。

クレインは必死に意識を手繰り寄せる。

腕を持ち上げる。ひどく重たい。

そうしての頬にそっと触れる。濡れている。


「…――何…か、されたか?」


は力一杯首を振る。


「――じゃあ…、泣くな」


しかし彼女はゆるゆると首を振る。

そのまま横たわるクレインの胸に顔を埋める。

シャツを握りしめ、肩を震わせて――泣いていた。


(命令に――背いたのは――これが初めて、か)


徐々にクレインの身体に自由が戻る。

起き上がれるようになると、クレインはの差し出したコップの水を飲み干し、

まるで反芻するかのように――先刻のやりとりを克明に口にした。




ラーズ・アル・グールという人物の事。

彼の組織が齎さんとしている世界の混乱の事。

科学、医学、錬金術の事。

そして――ヒマラヤの《青い花》の事。




「――この青い花にはとてつもない幻覚作用がある。

 彼はそれを何百倍にも薄めて、私に焚いてみせたんだ」


クレインはなんでもない事のように口端を上げてみせた。

彼らの計画の手始めは、見せしめとして

まずこの腐りきったゴッサムシティの混乱だと言う。

そこで目をつけられたのが――ジョナサン・クレインという訳だ。

今はまだ一階の精神科医という身分ではあったが、あと数年もすれば、

巨大なアーカム精神病院の舵取りを任されるであろう事は明白だった。

彼らは決してそれを見落とさなかった。

クレインの心の歪みは、ラーズ・アル・グールの甘言に蠱惑されていた。


「――あと数年先の話だ。

 とは言え、物事にはなんでも準備って物が必要になる。

 彼は…私の返事を待っているんだ」


クレインは愉快そうにそう告げて、を見た。

毎日見ているはずのグリーンの瞳は――涙に濡れて一際輝いて見えた。

――美しい。

だが、ひどく不安げだ。

クレインは表情を取り去り、言った。


「解ってるのか?

 お前を私の弱みだと勘違いする馬鹿な輩が、

 これから大勢出てくるって意味だ。

 ああそうかそうだったな、

 どんな目に遭っても良いと。

 お前は確か私にそう誓ったんだったか?

 ペット、モルモット、実験体――。

 いいかお前は私の所有物なんだ。

 私は自分の所有物が傷つけられたり破壊されたりするのを見るのは

 とても、不愉快だ。――好まない。……望まない」





見開いた碧眼から一筋の涙が落ち、彼の頬を雪ぐ。






「…――どうやら…ここまでのようだ」








クレインは、自覚した。

これは

愚かで

歪曲し

病みきった

不健全な――。

への、愛だった。








「…――茶番は終わりにしよう」







は涙に顔を歪めて――、




食いしばった歯の隙間から




必死に




声を――絞り出した。








「、だ、やだっ――ひとりに、しないで」





クレインが初めて耳にしたその声は、

想像通りの――甘く優しい崇高な、涙に濡れた声。





「、ごめんなさい、でも、あい――してる。

 わたし 先生を 愛してる」





幼さと成長の曖昧な線を描く、美しく柔らかなその身体を、

彼は腕に閉じ込めた。

初めてだった。

未熟な存在だ。

だがしかし、驚くべき事に、

そこには毅然とした意志と魂が宿っている。

これは子供のフリをした悪魔の世迷い言なのか――、

はたまた純真な天使の罪深き懺悔の告白なのか――。


(――どちらでも構わない…か)


いずれにせよ、クレインは己の欲を自覚したら最後、

思いをとげずには居られない性分なのだ。

痛い程に。狂う程に。




「――醜悪だな」




クレインは吐き捨てるように言った。





「――私はお前が、憎くて憎くてたまらないよ」





歪んだ愛に堕ちてゆく音は、

あの日からずっと――聞こえていたのだ。

ぎこちなく力を込め、華奢な身体を抱きしめた。

背中に這う小さな手の存在を感じて、彼は更に力を込める。

クレインの身体がソファの上に転がった。

折り重なるように、彼の心臓の音を確かめるように、

はそっとクレインの胸に耳を当てた。

あとは虚ろに――まかせるままに――。

胸に縋り付くの豊かな髪を一束掴んで、指にからめる。

はうっとりと目を閉じる。

長い睫毛が微かに震える。



クレインの頬に、一筋の涙が伝う。





「…――そして――残念な事に、私もお前を愛してる」



































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―――――――――――――――――

デュカードは愛する者を失う悲しみを

クレインに与えるか否かで揺れてました。

それはまあ今回は有耶無耶になったんですが

クレインはなんとなくそれを察してます。

だから本能的にうちのペットって連呼してみる。

取り乱さない演技が上手いので感心しちゃうレベル。

…でもペットが喋ったのでびっくりしちゃう←

20110325 呱々音