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あの窓を見てごらん。 貴族の屋敷、きっとあの薄いガラスの向こうには、 美しく切り取られたきらびやかな世界が広がっているはずだ。
あの窓の向こうに住まう陰鬱の正体を私は知っている。 歪曲した後ろ暗い事実を取り繕い、虚構と情愛で塗り固められた世界だ。 そこには抗うことを一切禁じられた独りの女がいる。 ああほら、やはりあの窓を見てみるといい。 きっと誰もが己の目を疑うだろう。 そして墓場から蘇った死の花嫁がごとき甘美を知るのだ。 神経を焼き切るような、美しき呪いの体現。 夕暮れに染まる髪。 憂いを帯びた睫毛。 真珠のように白く輝く肌。 鮮血を模した唇。 ――どれもこれも実に呪わしいじゃないか。
ヘンリー・ブラックウッドが杖で天井を叩くと、慌てるように馬車は走りだした。 このひと月ほど。 彼が黒い馬車に乗るとき、気まぐれに立ち寄る場所がある。 馬車はただ毎回同じ位置に止まり、彼が合図を送るまで ひたすらそこに待機しなくてはならない。 そういう決まりだった。 時間で表すのなら、5分の時もあれば2時間のときもある。 ブラックウッドが馬車から降り立つことは無く、 ただ黒く重たいヴェルヴェットのカーテンを数センチずらし、 何かをしきりに観察しているようだった。 馬車の止まる隣には、裕福な貴族の大層立派な邸宅がそびえ立っている。 しかし彼の視線の向かう先は、その家の窓だった。 薄いガラスを凝視し、ブラックウッドが見たいと望んだ人物の影がちらとでも覗けば、 彼は満足気に杖を鳴らして馭者に合図を送った。
貴族院議員たちの集まる夜会での事だった。
物悲しくも心地よい灰色の情景をたたえていた。 寒さゆえか、道行く人々の歩調は自然と速くなり、 それは車を引く馬とて同じことだった。 ブラックウッドはこの陰鬱な季節を愛でるのを殊更好む。 夕暮れの余韻に浸りながら、馬車は足早に今宵の夜会会場へと足を進める。
貴族院議員たちが一挙に集う政治の要とも言える大規模なものである。 妻帯者の議員たちは自分の妻をこれでもかとめかし込ませてフロアを練り歩く。 美貌とは縁遠い者でも、絢爛な宝石や装飾品を身に纏っていれば、 ここでは正当な扱いを受けることが出来るからだ。 もちろんブラックウッドは妻を持たない。 振舞われる酒にほんのりと良い気持ちになっているトマス・ロザラムを見つけると、 ブラックウッドは抜け目なく彼に近づいた。
ブラックウッドはそんな彼の様子を見て満足気に喉を鳴らした。 ここに限られた者しか知らぬ事実がある。 主席裁判官――トマス・ロザラムは、テンプル第四修道会の主導者でもあった。 そのトマスが修道会の儀式で、妻以外の女性と交わり――、 そして生まれたのがブラックウッドである。 熱心な信者であった母親は、喜んで儀式に身を捧げた。 しかし母親は出産の際に命を落としてしまう。 彼女は古くから続いてきた名家の唯一の子女で、 ブラックウッド以外に直系の血を引く者は残されていなかった。 血の繋がりの無い者を養子に入れるくらいならと、 家督を継ぐ子息として落胤はブラックウッド家に引き取られた。 “生まれつき死に取り憑かれている” トマスが彼にそんな念を抱いていることも知っている。 そしてこの世で一番自分の存在を怖れているのが、実の父であるということも。 ブラックウッドはよく知っていた。 老いた目に、口端に、指先に、動揺と恐怖の色が滲んでいることを、 果たしてこの男は自覚しているのだろうか…ブラックウッドはそんな事を思った。 自分の心を乱されたトマスを見るのは愉快でならない。 もちろん侮蔑の眼差しを惜しげもなく差し向けてやるのも忘れない。 地位も名誉も持ち得る男が、自分の目の前で小さく怯えつつも次に返した言葉は
つまらない男だ――トマスから興味を失いつつある。 ふっと彼から目線を反らせると、ブラックウッドの目の色が変わった。 猛禽類のそれのようにギラギラと光っている。
初めてお見かけするが――」
不安そうにブラックウッドの視線の先を追った。 トマスの顔はみるみるうちに血の気を失う。 その慌てようと言ったらただもう縋りつくようで、 そんな態度はいたずらにブラックウッドの好奇心を煽るだけだと言うことすら すっかり忘れさせてしまうほどの動揺だった。
ブラックウッドの興味の矛先は、溢れかえる人波の向こう側で 卿の隣に慎ましく寄り添う女性に向いていた。
・――家は伯爵の地位を持ち合わせた由緒ある家柄である。 婿養子に入り家督を継いでのし上がるそこらの成り上がり貴族とはわけが違う。 その卿の細君が他界して以来、 一人娘であるがパートナーとして列席するのだと言う。
父親が禁じていたのです――異常なことですよ」
どうにも予感めいた物を感じてならない。 遠目に見ているだけで、なぜか恐ろしいほど心を乱す――彼女は一体――。 以来、あの窓の訪問が始まったのだ。 それは自然なことのように思えた。 そしてつい一ヶ月前――内密な情報収集の末に知れた事実は、驚くべきものだった。 ――なるほど。トマスが恐れ慄いたのも頷ける。 それと同時に、ブラックウッドには強い確信が芽生えていた。 物憂げに窓の外を見つめるブラックウッドに向かって、カワードが問いかける。
「あの女こそ我が世継ぎを産ませるに相応しい――そうは思わんかね」
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本編映画に沿ったり逸れたり…。
ブラックウッド夢でもあり、
そしてカワード夢でもあります。
ニルヴァーナ――魂の開放、とでも。
20120525 呱々音
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