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年が明け、この冬一番寒波が厳しいある日、唐突に一本の電話が入った。 電話の声はロバートだった。
いま僕ロンドンにいるんだよ。信じられるかい? 泣いてるの?ああ、僕も早く皆に会いたいよ。 ねえ、それから一番大切なことを伝えるからよく聞いて。 父さんは生きてる。 ただ調べたいことがあるからと言って省内にこもりっきりだ。 僕は伝書鳩ってことさ。構うもんか。 明日には帰れるようこれからもう一度父さんを説得しに行く。 駄目そうなら僕だけ先に帰るよ。家のことが心配だ」
うんと返すのがやっとだった。 翌朝、かの戦地から戻ってきた父と弟の姿に、とサラは安堵の涙を流した。 ロバートは目を疑うほど逞しくなっていた。 疲れきって、おまけに少し痩せていたが、 それでも大きな負傷も追わず無事に生き延びて帰ったのだ。 父はまったくと言っていいほど、出兵前と何ら変わっていなかった。 大変な目に誰よりも多く遭ったであろうに、 その背筋の良さと涼やかに微笑む様はさすが軍人と言ったものだ。 見送る前も後も、やはり父は“大佐”という軍人の鏡のような人なのだ。
――お前は実に善くやってくれた。私の誇りだ。 サラそれにハリー、ヘンリー。 留守を預かってくれたことに感謝している。ありがとう」
あまりにも辛いことが多すぎた。 互いに伝えたいことも山ほどあるだろう。 だが大佐はハリーに軍帽を預けると、サラを諭すように優しく声をかけた。
とても重要な任務だ――立派に出来るな?」 「はいお父様。もちろんできるわ」
舞い上がったまままるでワルツに併せて踊るバレリーナのように、 嬉々として浴室へと姿を消した。 父と娘と息子は言い合わせるでもなく、自然と庭へ脚を向け、 敷地のほぼ外れにある墓地まで緑道を散歩がてらのんびりと歩き始めた。
言い難いことだろうから、こちらから聞くのが一番良いと思ったのだ。
それでもあの勇敢な馬は、私を必死に護りながら死んでいった」
たてがみを束ねた房飾りを取り出すと見せてくれた。 燃えるように美しいジンジャーカップの赤毛のたてがみだった。 懐かしさと感謝と愛を込めて、は彼のたてがみにキスを落とした。
――ジェームズが命を落とした戦いだ」
あの戦いの後ジェイミーだけじゃなく、 トップソーンもこちら側に戻って来なかったんだ。 ジェームズの愛馬ジョーイもね」
そんな娘の痛ましい姿をたしなめるように大佐が口を開く。
スチュワート少佐の安否を問い合わせたが、 戦地では思ったように情報が得られない。それは仕方のない事だ」
私が乗った船でたまたま乗り合わせたチャーリー・ウェイバリー中尉が、 “彼を見た”と言うのだ。 ウェイバリー中尉は野戦病院で手当てを受けていたそうだが、 移送される際、ドイツ兵に捕虜として連れて行かれる スチュワートと部下を見たというのだ」 「それで、それでジェイミーとトップソーンは」 「落ち着きなさい。 まず、トップソーンとジョーイという馬は野戦病院の搬送手段の主力として しばらくドイツ兵のもとで使われていたそうだ。 扱いは悪くなかったようだと聞いている。馬に罪はないからな。 だがそれ以降の詳細は不明のままだ」
ロンドンに戻ってすぐさま省内にある記録を漁ったが、 未だに毎日正誤の判断すらつかない情報が山と届くのだ。 だがお前に約束しよう。 確かなことが解るまで私は省に足を運び、彼の安否を調べる」
彼は大佐である前に父であり、父である前にひとりの男であった。 世界にたったひとりだけ心から愛した女性の死を思いやって泣いた。 彼が泣く姿を目にしたのは、にとってもロバートにとっても初めてのことだった。 もう何度苦く感じたかわからない。 生と死を隔てる壁の厚みを思い知らずにはいられなかった。
親友ニコルズの訃報、母の死と続き彼女の心はすっかり参っていた。 それでも妹を不安にさせてはならないという思いから、 できるだけ気丈に振る舞うよう努めてきた。 だからこの家の柱とも言うべき父親がこうして戻っただけでも、肩の荷が下りる思いがした。 ただひとつ、自分の命を差し出してでも知りたい情報はいまだ得られぬままだった。 大佐は言葉通り、仕事と称して毎日市内へ出向いた。 此度の戦での功績が認められ階級も少将と改められた。 彼が仕事の“ついで”に持ち帰る情報は「収穫なし」という報告に尽きるのだが、 それでもは父への感謝の言葉を返す。 の表情に諦めはなかった。 というより覚悟などしたくないという切なる願いが滲んで、そう見せていた。 少将の無事の帰国を知ったイートン校からは、再び馬術講師に復帰して欲しいと依頼されていた。 スチュワートとニコルズという大切な教え子を得た授業。 だからこそ少将もいずれその役目に戻りたい、戻るべきだと考えていた。 しかしスチュワートは生きている可能性があるにも関わらず、その安否はいまだ知れない。 娘の顔色が優れないだけではない。 いまのにとって、親友の残した愛馬の世話だけが生き甲斐となっている。 愛する者に再び出会えると信じて静かに耐えている姿は、見ているだけで心が痛んだ。 だからなによりも優先されるべきは、 義理の息子となるであろうジェイミー・スチュワートの安否の確認、 そして生きているのであれば生還させることなのだ。 ドイツ軍の捕虜収容所からの生還は、確実に行われているが、それ自体に迅速さは欠ける。 この日、少将がもはや日課と化した新着資料の閲覧に訪れると、 資料室の入り口で焦れったそうに待っていた部下が、 顔を見るなり興奮した様子で駆け寄ってきた。
「スチュワート。ジェイミー・スチュワート少尉だ。 どうした。なにかあったか」 「これを」
ややくたびれたそれは大陸の捕虜郵便で送られたもので、宛名は・――。 差出人の名前はジェイミー・スチュワートだった。
「ありがとう、よくやってくれた。 引き続き詳細を頼む」
一分一秒でも早く、この手紙を娘に手渡してやりたかった。
ここは寒く、そして物悲しい。 トップソーンの行方は分からない。 心を強く持つことがとても困難だ。 君の面影を追って正気を保っている。 たったひとつのキスでいい。 それだけでどんなに生きる希望が持てることだろう。 どうか辛くとも微笑を忘れないでいてくれ。私のために。
それでもたしかに8ヶ月前までスチュワートは生きていた。 一通書くのもやっとだったろうに、その葉書を愛する未来の妻に向けてしたためたのだ。 そこにあるのは縋るような愛の言葉。 は小さな葉書を唇に押し当てて床にくずおれてしまった。 やっと届いた手紙。 戦火を越え、海を越え、愛する者のもとへ辿り着いた想い。 彼とトップソーンを送り出してから願うことはいつだってひとつだけだ。 ――どうか無事に帰ってきて。 脳裏に蘇るのは彼が自分にだけ向ける特別な微笑みと、 並んで歩くふたりの後ろを手綱を引かずとも甘えるようについてくるトップソーンの姿。 痛みをおぼえるほど愛しい記憶。 |
待ちに待った報せ。
20121125 呱々音
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