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221B前で待ち構えていた黒塗りの高級車が乗り付けたのは ロンドン社交界の中心とも言える最高級の老舗ホテル。 「この帽子を被って」 そう言ったのは、同乗した秘書兼アシスタント、マーシャだった。 つばの広い洒落たその黒帽子をかぶると、お次はサングラスを渡された。 そのふたつをしっかりと装着したのを確認して、ようやく車を出ることを許される。 一見、無駄とも思えるこのお手軽な変装も、 全てはが見つかると厄介だという理由からだった。 なぜなら・という人物は、少なくともロンドンに集う 幾つかの高級ホテルでは顔が割れてしまうからだ。 それというのも英国一の貿易会社を取り締まる父親の仕事柄のせいだった。 よく父に連れられ、代々贔屓にしているホテルの 高価な部屋に泊まらせてもらったものだ。 小さなは持て余した時間を全てつぎ込んで、ホテルを探検して遊んでいた。 行く先々のホテルでは、頼みもしないのに自然とお目付け役が出来た。 それは支配人だったりマネージャーだったり、肩書きは様々だったが、 皆自分たちのホテルに誇りを持った、親切で思いやり深い人物だった。 幼い頃からを見知ったそんな彼らが、 フロントを通過する彼女に気付かないわけがない。 だからこその変装である。 アドラーの下調べは初歩的な所から全く余念が無いという事だ。 ――モリアーティの提供した情報だったにせよ。 あとはただ黙って彼女のあとについて行くだけだった。 エレベーターの中で「緊張しないで」と諭されたが、 それは案外無理な話だとは思った。 最上階のフロアに降り立つと、そこは一面の大理石。 が帽子とサングラスを外すと、マーシャはそれを持って奥へと消えていった。 このフロアに他に部屋は無く、綺羅びやかなシャンデリアが眩しく輝くばかり。 コーナーテーブルには大輪の白いカラーが生けてある。 そしてこれは――ケルクフルール――あの女の香り。 マーシャが吸い込まれるようにして消え、 入れ替わって奥から現れたのは、 この香りの主、アイリーン・アドラーだった。 彼女はルブタンを履かせたその美しい足を 勿体ぶるようにしなやかに運び、猫のようにを見据えて歩み寄る。 燦然と輝く宝飾のように振る舞う彼女は、 の心に芽生えた警戒心と緊張を嘲笑っているに違いない。 ――もう逃げられない。 は知っている。 この女と自分は決して対等ではないと。 上だとか下だとか、そういう関係で括る問題ではない。 互いが互いに一番近く、そして一番遠い存在。 歴然と別の個体であるにも関わらず、 離して考えることがこの世で一番困難な存在。 シャーロックとモリアーティを引き合いに出すべきかもしれない。 そしてただひとつ――明らかな経験の差こそが、 の抱く警戒心の正体そのものだった。 つまり、やはりこの状況を掌握し、優位に立っているのは、 間違いなく女王アイリーンに違いなかった。 細いヒールが大理石をコツコツと打つ音は、ついにの目の前で止まる。 そっと顔を上げればいとも容易くアイリーンの瞳に捕まってしまう。 「こんばんは子猫ちゃん――元気にしてたかしら…?」 上手く息が出来なかった。 そしてそれは完全にこの場を支配するアイリーンとて同じことだった。 気取られぬよう平静を装い、だが明らかに。 ――がっつきすぎね。 ああ、どうだろう。 目の前に供物がごとく現れた、献身の精神を持った美しく愛らしい未熟な娘。 自分の目ひとつ見るにも怯えと懇願と、そして少しの渇望が宿っているではないか。 ――これだからこのゲームはやめられないわ。 「緊張しないで。こっちよ。2人っきりで楽しくお喋りしましょ?」 誘うように指先で呼ばれ、逆らえるはずもなくは彼女に従った。 マスターベッドルームは完璧だった。 ホテルの仕様のはずなのに、まさにアイリーンそのものの体現。 ますます息苦しくなる。 高価なシャンパンで酔わされている気分だった。 「そんな所に立ってないで。 こっちへいらっしゃい――シャンパンをあげるわ」 心の声を読まれたような気がしてさらに五感が麻痺してゆく。 落ち着かなくてはいけないと思えば思うほど、 この先を予知しようと必死になる愚かな自分がいる。 怖ず怖ずと受け取ったシャンペングラスはティファニーだった。 「…素敵なグラス」 「貴女が好きかと思って」 そう――こういう会話なら出来る。大丈夫だ。 薄いクリスタルがカチンと打ち鳴らされる。 この淡いピンク色の液体を喉に流し込んで、少しでも正気を保たなくては。 こくんと控えめに上下する白くか細い喉。 名残惜し気に離れる唇。 グラスにうつったグロスのあとを親指でいじらしく拭う仕草を見て、 アイリーンは口の端を上げる。 「ソファに座ったら?」 「…シャーロックが来たのね?でもこの部屋じゃない」 きょろきょろと落ち着かない様子で辺りを見渡すのに、 それでもシャーロック・ホームズの優秀な家政婦――そして助手のように、 は自分のペースを守ろうとグラスを持ったまま部屋を歩いた。 「そうよ――彼と会ったのはまた別のホテル」 アイリーンが心を決めたが最後、この狩りは幕を開ける。 は徐々に追い詰められてゆく。 「…もうあまり時間が残ってないのね」 「ええ。だから多少強引だったけど貴女を呼んだ。 どう?最高級のロイヤルスイートよ――気に入ってくれた? もちろん貴女がこのホテルに来慣れてるのは知ってる。 でも“この部屋”は……初めてでしょう?」 壁の方へ、隅の方へ。 アイリーンがその気になれば、子猫はどこへだって逃げ場をなくす。 彼女が選択したのは絢爛な装飾に覆われた壁だった。 の背がそこにはもう道が無いことを悟る。 静かに詰め寄るアイリーンに、はもう声も出なかった。 ――こうなる事は解っていたじゃない。 の視線が恐れをなしてアイリーンの瞳から唇、さらに下がり、 首に巻き付くゴージャスな真珠の首飾りへと移動してゆく。 彼女はそれがどうしても許せなかった。 の眼前に深く詰め寄ると、顎をすくい上げ、自分の目を見据えさせる。 怯え、警戒、渇望――涙を含んで潤むふたつの宝石を、 メデューサのようにしっかりと捉える。 子猫はもう動けない。 辛うじて持たれていたシャンペングラスを優しく奪うと 執着や躊躇いなど微塵も見せずに遠くへ放った。 砕け散ったクリスタルはまるでそのものだった。 そして赤い爪の輝く白い手が、恍惚の仕草での頬を捉えると、 彼女たちが共通に愛する男が唯一触れた未発達な唇に――の唇に、 アイリーンの薄い唇が情熱的に噛み付いた。 に拒めるはずもなかった。 |
20120812 呱々音
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