|
事件後、モリアーティは怒れるマイクロフトに拘束される。 それはもちろん国家――ひいては世界の脅威となりうる 《悪》を取り除くためではあったが、 犯罪の王が目をつけたのは、マイクロフトにとっても大切な存在、 実の弟とその想い人だった。 執拗な悪意の牙を向けるモリアーティは、 個人的な部分においても忌避すべき脅威に違いなかった。 マイクロフトは数週間を費やし、モリアーティを尋問する。 何よりも重要な情報を聞き出すためなら、どんな犠牲も払うべきだ。 国に仕えるマイクロフトにしか出来ぬ役割があるのだから。 ――子猫狩りの代償が、いかに高くつくが教えてやる。
子猫をめぐる奇妙な事件が齎したのは、結果として ――言い方は悪いが――シャーロックとが肉体的な関係を持つきっかけだった。 以来、221Bの住人たちに訪れたのは、細々とした事件に満ちあふれた シャーロックに言わせれば《楽しい日々》である。 いずれ近い未来に待ち受けているであろうモリアーティという悪夢を警戒しながらも、 シャーロックに謎解きをさせておきさえすれば、ベイカー街は平和そのものだった。
メディアと世間は彼の活躍を見せ物のように取り上げる。 悪態をつくシャーロックに、誰よりも神経を使うのはジョンだ。 彼に言わせれば、シャーロックの悪態は前にも増してひどくなっている気がする。 あの“嫌な奴っぷり”の正体がとの関係に比例しているのは、 彼らと同居するジョンにしかわからないことだ。 男なら誰しもとは言わないが、それもなんとなく理解できる――ような気もする。 つまり今までシャーロック・ホームズという孤独な変人は、 愛やら友情やらとは世界で一番縁遠いところにいた人間であり、 そんな中でも、自己にひそむ暴れ狂うような謎解きへの欲求を発散することで、 彼の世界は見事に回っていた。 シャーロックの周りには良くも悪くも憎むべき兄と、親切な大家と、 単純な思考でしか動かない警部が加わり、 そこにジョンという信頼にたる相棒が加わり、 とどめはという、なんとも不可思議なほどこそばゆい存在までもが加わったのだ。 シャーロックはもう自分だけ守ればいい人間ではなくなってしまった。 彼は相変わらず次から次に悪態をつき続ける。 だがその悪態の真意はどうだろうか。 今までの関係を無理矢理にでも押し通そうとする“嫌な奴”独特の意地すら感じる。 彼の根幹に関わるとてもデリケートな部分に芽生えてしまった、という存在。 はたから見れば、シャーロックとの関係は今まで通り、何の変化も見られないだろう。 しかしジョンの目には、かつてないほどの変化が映っていた。 ジョンが買い物を終えて家に戻ったとき、 長椅子の端に座ってヴォーグ誌を読むの膝に頭を乗せて、 尖塔のように合わせた手を唇に充てがいながら、 マインドパレスという名の瞑想に耽るシャーロックを目撃したのも一度や二度ではない。 その時のシャーロックの表情を、一生忘れることはないだろう。 まるで青空の下、赤い凧をあげるのに夢中になりすぎた子供のようだと思った。 大好きな家族たちが談笑する声を聞きながら、 芝生の上に敷いたピクニックシートの上で、心地の良い疲労感に任せるまま、 うたた寝に重たい瞼を閉じる――誰もが味わってきた少年時代を思い起こさせる。 (その“少年”が跳ね起きて開口一番、高らかに叫んだのは「トゥレット症候群!」だったが) シャーロックはがレモンパイを焼き上げるまでの様子を物珍しそうに観察したり、 ソファやガラクタを壁の方に追いやって、 先生よろしく見よう見まねでヨガに付き合ってみたり、 とハドソンさんの楽しみでもあるフラワーマーケットに付いて行ったりもした。 (もちろん今までならそんな提案すら馬鹿にしていたはずだ) ある時なんか2人は服を着たままバスタブに浸かり、 3時間もスクラブルをやっていたこともある。 ジョンの目から見たって、少し風変わりなカップルには違いなくとも。 奇妙ではあるがとても好ましい変化のように感じられた。 シャーロックがと親密になればなるほど、外への《悪態》はより頑なになって行く。 彼にとっては世間の評価など以前にも増してどうでも良かったのだ。 自分が信頼を寄せる数少ない人物たち――ジョン、レストレード、ハドソン婦人、 そして。 彼らさえ自分を理解してくれていれば、万事がすべて順調で、完璧なのだ。 移り気で欲深い“他人”の集まりなど、どうでもいい。 奴らは彼の人生を邪魔こそすれ、寄せ集めたところで役にも立たない。 ――この信頼に忠実たる友がいればそれでいい。 はシャーロックを立派な「海賊」にしてくれた。 仲間を教え、理念を教え、有り余るほどの愛を教えてくれた。 自らが未熟なせいで未だ不十分にしか理解出来ぬのが、恥ずかしく思えるほどに。 数ヶ月の間、世界はすべて順調に回っていた。 否――そう錯覚していただけなのかもしれない。 ここロンドンで穏やかな天気が続くなんて、絶対にあり得ないのだから。
衰弱していたが、身体の中で沸々と燃え滾るのはある種の期待だった。 解放されたモリアーティが始めるのは、世にもおぞましい復讐の交響曲。 緻密に張り巡らせた犯罪の仕掛け糸を、今こそ一気にたぐり寄せ、 凡人よりはいくらか優秀な脳を持ったあの探偵の首を、今こそ一思いに断ち切るべきだ。 一粒のダイアモンドは、破滅への前奏曲。 残酷な指揮者は決して容赦しない。 ただ演奏を続けさせるだけだ。 完璧な計画を用意してやらねばならぬ。
シャーロック・ホームズと、その仲間たち――そして愛すべき子猫のために。
|
シャーにしてみれば「丸くなった」と思うなかれってかんじでしょうか。
悪態をつく意味が変わってきたのかなーとちょっと思ったのです。
今までは軽蔑とは嫌悪とかに近かった気がします。
でもライヘンバッハあたりの悪態はある種の安心感・信頼感の現れなのかも。
彼がのびのび悪態ついていられるのも、それはそれで良い兆候なのかなって。
考えすぎかしら。
20140220 呱々音
―――――――――――――――――