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始まりは小さな因果だった。 世界はいとも容易く崩折れるのに、戦争はしぶとく生きながらえる。 あるいは呆気無く命を落とすこともまた事実。 心には拠り所が必要だ。 私たちの神は唯一で、また異教徒が思うよりもずっと温かい。 だが神の言葉も解釈を取り違えた者たちの手にかかれば かくも容赦なく残忍に戦火を招く。 怒りと憎しみは家を焼き、愛する者を奪い尽くす。 生きたいと願うことも、その原始的な欲に縋りつくことも、 許されない惨状がある。
アラブ世界のほとんどの者が信じる神を、 私は普通とは少し違った方法で選びとった。 父ナスィーフはシリアの大学でシャリーアの授業を持っていた。 イスラムという絶対的な法の伝導に傾倒していながら、 父は密かに様々な宗教の研究に着手していた。 多面的に、あるいは他の宗教を客観視する父の姿勢は、 私の中に[宗教を選択する自由]という概念を植えつけた。 事が内密であるうちは良かった。 もちろん父は敬虔なイスラム教徒に変わりはないし、 私とて自ら進んでイスラム教を[選択]したのだから。 父にとって宗教研究は信仰を深める行為そのものである。 だが意図せず父の多岐に渡る研究内容が明るみになったとき、 信仰を愚弄する行為と捉えた無知な輩は激しい怒りを露わにした。 それは名誉殺人と呼ばれ、神の名を騙って許される。 だが私は信じない――それは神の意思ではない。 父はある初夏の晩、怒り狂った血の繋がらぬ兄弟たちによって、 拷問と暴力の末、私の目の前で無残に殺された。 母が病で亡くなってからちょうど一年経った夜の出来事だった。
焼け出され、失い、それでも私は生きている。 一体どうしろと言うのだ――確かに形あったものが、バラバラになってしまった。 それでも知った顔を見つけられたのが不幸中の幸いで 生き残ったもの同士が身を寄せ合うのはもはや当然のことだった。 数家先に住んでいたモニールとその家族は、私を見つけると 良からぬ事態に巻き込まれないためにも自分たちといるようにと言ってくれた。 もちろんモニールの家も跡形もなく焼きつくされていた。 大した相談もしなかったが、私たちの心はすでに決まっていた。 私たちは故郷を捨てた。
私より2つ年下で18歳、微笑んだ時の目尻がとても優しくて好きだった。 ヨルダン――この国にはシリア難民だけに限らず、イラク難民、 そして1948年からいるパレスチナ難民が溢れんばかりに混在している。 命からがら逃げてきたモニールの家族は、パスポートを持っていなかった。 私は眠るときすらパスポートは身に着けて眠るよう 父から言われて育っていたため、他の何はなくとも パスポートだけは馬鹿みたいに握りしめていた。 それと同時に、幾ばくかの財産になり得るものも たとえば紙幣なんかも、パスポートと共に身に着けていた。 パスポートの有無――つまりそれは、いずれモニールたちとの別れを意味している。 パスポートを持たない難民は、まずラムサの施設に収容されるからだ。 そこでヨルダン人の保証人がみつかれば、ヨルダンに入国できるのだ。 私の頭はラムサの施設と入国のことでいっぱいで、 国境を越え、ラムサまであと一息というところで モニールの家族の手痛い仕打ちに遭うはめになった。 ここで別れるなら、と思ったのだろう。 私が仮眠をとっていた隙に、現金を奪って姿を暗ましてしまったのだった。 わずかに残ったのはパスポートと、 服の下で密かに身に着けていた母の残してくれた宝飾品だけだった。 裏切りは憎むべき行為だった。 だが私は彼らを恨む術を持たなかった。 ただこのアラブで女が一人で生きていくことは不可能に近い。 私は逃げるようにラムサを通過すると、宝飾品を現金に変え、 アンマン行きのバスに乗り込んだ。 頼るあてなど何処にも無かった。
父の仕事について何度か訪れていたが、今こうして孤独に降り立ってみると、 驚くほど異質な街に放り込まれたようで泣きたくなった。 もうすぐ日が暮れる。 私はパレスチナ難民キャンプを目指した。 正しくは目指すというより、そこしか無かったというのが正しい。 ジャバル・アル=フセインに近づくにつれ、 人々は荒みきって殺伐としていく。 この地区の治安は最悪だった。 夕暮れの訪れとともに、私は強く身の危険を感じた。 良からぬ気配を感じ取って、ただがむしゃらに走りだす。 はやり追いかけられている。 背後で男たちのイライラと怒鳴る声が聞こえた。 とにかく腕を振って、蹴って、蹴って、逃げなくては! でも何処へ――? ――怖い!助けて…! その時、行く手を遮るように一台の車が停まった。 黒塗りの車のドアは俊敏に開くと、男の手が伸び、私の腕を掴む。 ものすごい力で引きこまれる。 咄嗟の出来事に声も出なかった。 車はもう発車していて、掴まれた部分は開放されていた。
はじかれたように顔を上げると、困惑ながらに思わず呟いていた。
張り詰めていた緊張の糸が切れ、私は泣きだしてしまった。 ハニは品の良いスーツにあしらった胸のハンケチーフを差し出すと 私が泣き止むのを辛抱強く待つように口を閉ざしていた。 ハニには4年ほど前、一度だけ会っていた。 母と私は父に連れられ、ハニの家族と一緒に食事をした。 その時招かれたのと同じ場所――ハニの家に車は乗り付けた。
そしたら温かい食事が君を待ってる。 詳しい話はその時に」
部屋には大輪の薔薇が生けてあり、芳しい香りで満たされていた。 最も親しみを持っている花にも関わらず、 最後にその香りを嗅いだのは、もう百年も昔のような気がする。 埃まみれで薄汚れた服を脱ぐと、熱いシャワーを浴びながら、 私はまた少し泣いた。 |
『ワールド・オブ・ライズ』でハニ様。みよしさんへ。
少しでもイスラム圏のお話っぽさを感じて頂ければ幸いです…!
20120614 呱々音
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