「いよいよ長いシーズンも終わりか――。

 なあ。まだ気は抜けないが……何か私に話しておくことはないかな」


ブラジルGP、木曜の夜のこと。

明日のフリー走行が始まる前にと、ニューウェイはを捕まえてそんな風に話を切り出した。


「…ごめんなさい。実はヴェラとヘイキに内緒でセブとアイスクリームを…」

「いや、そういう話じゃなかったんだが――そんなことしてたのか」

「…通報される前に走ってこようかな」

「食後だからウォーキングにしないか。私も付きあうよ」


ホテルのジムで少し軽めのウォーキングに励みながら、しっとりと汗が滲み始める頃、

ニューウェイは先ほどの話の続きを始めた。


「ところで……クリスチャンとは上手くいってるのか」

「ええ。今日はドライバーズインタビューの前に、少し時間がとれたから

 いっしょにティーを飲んだわ」

「なにか進展は?」

「…進展?」


の顔が少し強張る。


――なぜ恋人を作らない」


ニューウェイは今回ばかりは容赦しないと決めたようだった。


「レーサーはきらびやかな生き物だ。

 スポットライトを浴びていないと息もできないと言わんばかりに

 女優だとかモデルだとか、派手な恋人を作る。

 だが、理由はもちろんそれだけじゃない。

 恋人は彼らにバランスを与えてくれる。

 オンとオフ、どちらもより充実させるためにな。

 の場合、いまその役目を担っているのは明らかにクリスチャンだ。

 ――おまえは今まで恋人を作ったことがなかったね」

「…欲しいと…思わないんだもの」

「だが側にはクリスチャンがいてくれる」


ウォーキングマシンの機械的なリズムだけが耳に届く。

は俯いてただひたすら足を前に出し続ける。

額には小さな汗の粒が滲んでいた。


「………どう考えたって私じゃクリスチャンに吊り合わない…」


――やれやれ。

ニューウェイは呆れたように表情を緩める。


「お似合いだと思うんだがなあ…」


だからこそお互いを側に置いておきたがるのだろうし、

ニューウェイもいずれそうなればいいと思って“娘”を見守ってきた。


「エイドリアン…私、来年はもっとしっかりする。

 ちゃんと独りで立てるようにならなくちゃいけない」


彼は何か言いかけたが、その言葉を飲み込んで微笑んだ。


「…――はもう充分すぎるほどしっかりしているよ。

 明日のレース、どんな結果になっても

 お前が疾走るのを見るのが今から楽しみで仕方ない」


の表情が明るくなる。


「エイドリアン、いますっごくあなたにハグしたい」

「やめておこう」

「互いこの汗だしね」

「気持ちだけで結構」

「…ありがとう」


噛み締めるように、が呟く。


「レースに出られることが、私も嬉しい」















ノックをする訪問者の正体がニューウェイであることを、ホーナーは知っていた。

快く招き入れると、彼の分の紅茶を差し出した。


「すまなかったね…エイドリアン」


ニューウェイは紅茶に口を付けながら笑う。


「元はといえば私が君をそそのかしたんだ。当然の役目さ」

「だからって君を使うような真似をさせるなんて――やはり気が引ける」

「だが“気を引いてる”場合じゃないぞ、クリスチャン」


くだけた表情が真面目なものに変わる。

ホーナーの目も真剣そのものだった。


「クリスチャン。あとは君次第だと思う」

「迷いはないよ。

 この日のために、わざわざマテシッツやマルコにまで掛けあったんだ」


フラジルの夜が更けてゆく。











翌金曜日の朝。

この日も朝食を摂ったクルー、スタッフたちは全員、

ブリーフィング・ルームに集合することになっていた。

着々と報告、指令などが告げられ、情報の共有が成されてゆく。

だがこの日はいつものブリーフィングと少し違った。

ひと通りの報告が済んだ頃、予めホーナーから受けていた指示に従い、

ベッテル、と両者のレースエンジニアは、

それぞれ個別に段取りの確認をするためブリーフィング・ルームを退室した。

4人を除いたチーム関係者全員が、不思議そうにホーナーを見つめる。


「ここから先は――私は君たちのボスとしてではなく、

 ひとりの人間として話をする。

 だから今この瞬間、君たちの貴重な1分1秒を、

 私が個人的に拝借していることになるわけだ。

 けれど…これから君たちに話す計画は、

 おそらく私一人の問題ではないと感じたんだ。

 だからどうかみんなの絆で助けてほしい――“僕”の一世一代の決断を」











その更に別室では、レースエンジニアのギヨーム・ロケリンこと“ロッキー”が、

自分とベッテルの他には誰もいないにも関わらず、

声をひそめてベッテルに“ホーナーの指示”を伝えた。


「えええ!?」


そう言いながらもすべて聞き終えたベッテルは興奮したように笑っている。

ここのところとのタイトル争いが激化して、硬い表情の続いていたベッテルの空気が、

少しだけ穏やかになったのをロッキーは感じた。


「期は熟したってやつだ」


ロッキーはしみじみと頷いてみせる。


「よくわかってるよ。だったら尚更容赦はしない」

「おいセブ…俺からのオーダー無視といっしょにするなよ?」


彼の半ば自虐的なジョークを使って、責めるようにベッテルを睨んだ。

ベッテルは慌てながらも、お得意の懐っこさでロッキーに謝る。

そして結局は許してしまうのだから…ざま無い、と思わずにはいられない。

これこそが、この“子犬”に付いた者の定めである。


後に人々はこれを[運命のブラジル計画]と呼ぶ。

ホーナーの下した重要な決断が、伝説のように世界中で語り継がれる――。











その日の午後フリー走行、はファステストラップタイムを記録。

翌日土曜日の予選では、まるで幸運の女神が彼女に味方しているかのように、

ポールポジションを勝ち取った。

ベッテルも健闘し、2番手からのスタートとなる。

――この1戦で、すべてが決する。

ベッテルとのポイント差はわずか6。

が優勝すれば埋まる数だ。

ベッテルが逃げ切るか、が食らいつくか――。

デビューの年にドライバーズタイトルをさらう女性として

革命的な偉業を成し遂げるかもしれない――ファンでなくとも誰もが抱く、その期待。

重圧はものすごいものだろう。

そんな世紀の大挑戦も、残すところあと1日で幕を閉じる。

ベッテル、、両者どちらのチームも綿密なブリーフィングを繰り返し、

練習を熟し、最後の微調整を済ませてレースに臨む。

天候は上々。

はふとその空を見上げて、シーズン開幕、初出走したデビュー戦を思い出した。

小さなコクピットに身体を埋めて、ステアリングを握り締める。

コース上にすべてのフォーミュラカーとすべてのクルーが入り乱れ、

今年最後の大仕事に誰もが神経を研ぎ澄ます。

タイヤとブレーキの温めるため、全車が数珠つなぎに蛇行しながら、

の耳にはチームラジオのテスト代わりに改めて指示を出す、

レースエンジニア・サイモンの声が聞こえていた。

サイモンの指示が終わると、ふいに無線が切り替わる音がする。



名前を呼ばれればすぐにわかる。

それはホーナーの声だった。


『私からの“オーダー”を伝える。

 最後くらい自分のために疾走っていい』



<――オーケイ、ボス>



それを聞いていたピットのクルーは全員で手を叩いて賛同した。

おまえの家族はみんなそう願っているんだぞと言わんばかりに。

緊張や重圧は吹き飛んだ。

全車、グリットにつく。

すぐ隣にはベッテルがいる。

だがの先には誰もない。

赤いライトがすべて灯り、ブラックアウトとともに爆音を上げて最後のレースが幕を開けた。


































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最後のレース。

20130613 呱々音