|
開幕戦オーストラリアGP――それはあっと言う間の出来事だった。
タイヤは手なづけられ抗うことを辞め、風すらも味方をする。 最後はチームの努力の結晶とも言える脅威のピットストップタイムに背を押され、 は見事デビュー戦にして表彰台の一番高いところに立っていた。 母国の旗を仰ぎ見る。 銀色に輝く優勝カップにキスしたくなる気持ちがよく理解った。 高く掲げ、満ち足りた表情で微笑む。 いま生まれて初めて呼吸したのかと思うほど、ここは新鮮な空気の香りがする。 右手にはチームメイトのベッテルがいる。 彼が不機嫌になるやもと覚悟をしていたが、はち切れんばかりの満面の笑みで、 まるで自分のことのように歓びと祝福の眼差しを向けてくれていた。 段取りも、言葉も、なにもいらなかった。 次の瞬間にはとベッテルは頬をくっつけてきつくハグを交わして、 チームメイト同士の固い絆を世界中に知らしめた。 ベッテルがの頬に祝福のキスをする。 そして選手と一緒に、チームを代表してコンストラクターズトロフィ授与に登壇したのは、 引退しても尚、不屈の人気を誇る、地元オーストラリアの英雄マーク・ウェバー。 最高のベストショットに、ファンの興奮は更に熱を増す。 トロフィを高く掲げたマークもの頬にキスをした。 仰ぎ見た空の突き抜ける青さが、まるで夢の中にいるような錯覚をもたらす。 眼下で歓喜するレッドブル・ファミリーの中に微笑みかけながら、 視線はまるで呼ばれたかのように、 満足気に表情をほころばせるホーナーの笑顔に吸い寄せられた。
だが涙は流さない。
長い戦いはまだ始まったばかりなのだから。 とは言えこのデビュー・ウィンは、長いF1史において その唯一の達成者であるジャンカルロ・バゲッティに継ぐ史上2人目、 そして女性F1ドライバーとしては初めての優勝を成し遂げたのだ。 誰もが思った――今年はなにかとてつもなくすごい事が起こるかもしれない、と。
現状ではエースとセカンドの差が詰まるまでは立場を明確にしない、 という確認がその都度成された。 つまりチームオーダーが何よりも最優先される状況がしばらく続くということである。 これはベッテルに釘を刺すように、何度も告げられた必須項目だった。 ただベッテルとて、自分のタイトルの邪魔をされるかもしれないという懸念よりは、 チームとして新しく面白い試みに挑んでいるという意識が強かった。 負けてやるつもりは全く無いが、 チームの判断には今まで以上には努力して耳を貸すと約束した。 ホーナーとしても、どちらも目に掛け可愛がっている選手ゆえに、 平等に扱いながらもチームメイト同士が切磋琢磨して高め合っていく状況さえ物に出来れば、 それは最高の財産になると考えていた。 とベッテルは、グランプリの頂上を譲り合っているつもりはないが、 なぜだか交互に優勝トロフィを獲得する形が何度か続いた。 これこそホーナーの望んだ“切磋琢磨”の成果である。 [レッドブルのトロフィ交換会]なんて揶揄されることもあったが、 表彰台の高みに立つ者にとっては、それすらも強さの称賛に過ぎなかった。 に付きっきりのウェバーのお陰もあって、 他チームの古参選手の遊びに誘われることも増え、 彼らの世界に馴染むのにあまり時間は掛からなかった。 最初こそメディアの餌食になるのではと思われたが、の純粋で真面目、 少し風変わりな人柄に嘘偽りがないと知れると、内情を知る人間たちから順に、 そういった下世話な話題はあまり持ち出さなくなった。 F1という華々しいセレブ界に身を投じながら、 恋人の影がないことにも疑問符が投げかけられるが、 はいつでも「必要ないだけ」と一蹴した。 ゴシップを書こうにもその量は…いや、むしろ書ききれぬほどの量なのだ。 誰とでも親しい印象を与えるは、記者にとっては実に厄介で不思議な生き物だった。 パドックでもホテルからの移動でも、いつもホーナーの後ろにくっついて歩いているので、 “ミニ・バーニー”ならぬ“ミニ・ホーナー”と呼ばれることもしばしば。 とは言え、もともとを見知っているレッドブル・レーシング・“ファミリー”にしてみれば、 本拠地ミルトン・キーンズではとっくにお馴染みの光景だったと口を揃える。 ホーナーのウィンドブレーカーを肩に掛けてうろついているのも珍しいことじゃない。 これはが寒々しい格好で彼の前に現れた時に起こりがちな光景である。 フオヴィネンに隠れて、ベッテルとアイスを食べているのが見つかっても、 ホーナーに食べかけのアイスを差し出し、証拠隠滅を依頼する始末である。 調子の上がらないとき、ピットウォールにちょっかいを出しに行ったり、 開催地のレストランでディナーをする姿も稀に見かけられている。
多忙極まりない彼との仕事が被らないことの方がむしろ多いくらいだ。 ホーナーの後ろにが居ないときは、セブかマークを探せ――とどこかの記者が言う。 果てはベッテルとウェバーを両手に、3人で手を繋ぎながら ホスピタリティとガレージを文字通り疾走(なんの遊びかわからないが)している姿が 写真に撮られたこともあった。 ゴールテープのつもりか目印にはなぜかフオヴィネンが立たされていたが。 他にも、クルサードの白ズボンのポケットに指を引っ掛ける癖がある。 ウェバーはよくのランニングに付き合って一緒に走っている。 隙あらばホーナーの膝を枕にしようとする。 ただミハエル・シューマッハ、特にニキ・ラウダに遭遇すると なぜかそっと姿を眩ませようとするので、 よくクルサードやホーナーにウエアの端を掴まれている。 そういったあらゆる態度を総括して、 精神的に未熟であるということの証明だと避難する声はあったが、 「だからこそ私にはファミリーの支えが必要なんだ」という一貫した主張がの答えだった。
新たに獲得したスポンサーの広告撮影。 をイメージに展開される新たな商品のプロモーション。 ベッテルやウェバー、クルサードと共に行うインフィニティ車の撮影。 チャリティイベントのゲスト、雑誌のインタビュー、アーティストとのコラボレーション。 グランプリ開催国でのメディア・インタビュー。 それらの仕事すべて、はマネージャーを雇わずに自らで管理した。 またファン思いのドライバーとしても有名で、天候の冴えない中、 パドックやホテルの前で出待ちをするファンに、自腹でコーヒーやピザを振舞ったこともある。 はいつでも愛想よく、そして誠意を込めて、完璧にこなしてみせた。 いつ寝てるんだなんて冗談めかして心配されるが、はいつだってケロッとしたもので、 自宅、ホテル、ミルトン・キーンズ――敷居から一歩外に出れば、 常に人目に晒されているこの状況こそが、自分の仕事そのものだと認識していた。 もちろん時間の多くを割く試走や開発は、何よりの最優先事項である。 このデビューのシーズンで勝ち続けるのは、想像以上に過酷なことだった。 これは結果としてチーム内でも、ごく一部の限られた人間しか知り得ない情報だが、 根性の座った新人と言われようが、 その笑顔の下では当然のようにのメンタルは消耗されていた。 しばらくは誰も気が付かなかった。 レースへの強いプレッシャーを想定して、 開幕よりはるか前にフィジオセラピストは雇っている。 女性ドライバーという配慮の結果、元バレー選手のヴェラという女性が フィジオとしてのあらゆるメンテナンスを請け負った。 フィジオは、長期戦に耐えうるためには必要不可欠な存在である。 体調、メンタル、あらゆる面でのサポートと管理を行い、 最高の状態でレースに挑めるようにドライバーの手助けをする。 だから体調の不良や疲労だけでなく、恐怖、悩みなども打ち明け、 それで改善するためにはフィジオを大いに活用――すべきだった。
そこから約1ヶ月間、F1もいわゆる“夏休み”に入るのだ。 つかの間の休み、皆貴重な時間を家族と過ごしたり、 旅行へ出かけたりしてリフレッシュ期間を堪能する。 だがしかし、だけは別だった。 10戦目のブダペストから真っ直ぐイギリスへ帰国し、 脇目も振らずミルトン・キーンズへ舞い戻る。 レッドブルに採用されて以来、は本拠地ミルトン・キーンズ近郊に家を構えていた。 ロンドンに近づくよりも、職場に少しでも近いことの方が 彼女にとっては好ましい条件だったからだ。 しかし自分以外の人間が住まない空っぽのこの家は、 何度帰り着いても自分の居場所という気がしないのがのコンプレックスだった。 キッチンも、リビングも、寝室も、バスルームだって完璧に整えた。 書斎に至っては何よりもこだわって、使い勝手の良さを追求している。 それでもはあまり長くは家に居れなくて、結局すぐに自分のオフィスに向かってしまうのだ。 案の定、夏休みは無理を言ってまで鍵を開けて、オフィスに棲みついた。 レース巡業中には読めなかった本を山と積んで、ひたすら読み続ける。 図面台にいるか、オフィスのソファで本を呼んでいるか… あるいは何か必要に駆られたようにホーム内を散歩して、またオフィスに戻るのだった。 しびれを切らしたのはニューウェイだった。 彼自身、貴重な時間を家族と過ごそうという意気込み充分で、 7日間のキャンプ旅行の準備に精を出していた矢先、 チーム本拠地のセキュリティ担当者から 「2週間の完全封鎖を前にしても尚、がオフィスに入り浸ってる」と直接連絡が入ってきた。 ニューウェイは最後の頼みの綱を手繰るように、ホーナーに電話を掛けた。
前代未聞のレギュレーション違反なんて不名誉、女王陛下だって望んでいないだろう! クリスチャン、頼むからあの子を連れ出してくれ!」
すぐに車を出し、巣穴に独り淋しくこもるを慌てて回収し、家に招いた。 彼は彼なりに予定を組んでいたが、それはどれも多忙すぎる日常を あらゆる意味で“お休み”するという計画、まさにリフレッシュそのものだった。 犬の散歩をしたり、庭の柵のペンキを塗り直したり、 ゆっくり料理をしたり(これはあまり上手くいかない)、もちろん本も読む。 仕事のメールや依頼をチェックする時間はあるが、それだけに追われることはない。 彼が唯一きっちりと休みを確保するのが、この“夏休み”だから。 そしてニューウェイもは彼を見習うべきだと思ったに違いない。 更に言うなら、今をときめくセレブレーサーが、 ホリデーもまともに過ごしていないのはどう考えても不健全である。 あんなの姿を見たら、誰だって狼狽え、焦るに違いない。 例えホーナーとの間に一夜の間違いが起こったとしても咎めはしないだろう。 ――もちろん冗談である。 当然“そんなこと”は起こらなかったが、世話見のよいホーナーのおかげで、 が初めて“まともな”休暇を過ごせたのは言うまでもない。 それから休み明けの11戦目。 人気の高いベルギー・スパでのレースが終わる頃、 ヴェラはなんとなくの様子が気になり出す。 だが聞いても笑って誤魔化されるだけで、具体的な情報の収穫は得られなかった。 12戦では致命的に失速する。 ピットウォールのディレクター陣も、早急な対処でレースのサポートを敢行しようと試みたが、 降車との接触に対処しきれず、タイヤバリアに向かってマシンごと派手にクラッシュし、 残り15周というタイミングではリタイヤせざるを得なかった。 少しくたびれた様子で自力でガレージに戻ったが、 レースドクターの診察を受けている間にレースは終わった。 モニターの向こうではベッテルが1番の印を手に掲げていた。 壇上インタビューでクルサードにマイクを向けられて 「トロフィは嬉しい。でも今はに怪我が無かったことを喜びたい」と口にしている。 そのコメントをすべて聞き終わる前に、表情を強張らせたホーナーが部屋に駆けつけた。 ドクターは彼に向かって笑顔でひとつ頷いた。 ホーナーはまるで崩れ落ちるようにを抱きしめて、 今まで聞いたことも無いくらい深く溜息を吐いた。
画面の向こうではニューウェイがコンストラクターズトロフィを手にしていた。 ――いま自分の心がどこにあるのかわからない。 ホーナーの熱だけが、の精神をかろうじて“ここ”に繋いでいた。 彼の背にそっと手を這わせるのにさえ、とても長い時間を要した気がする。 震える喉からなんとか声を紡ぎだす。
決して発せられることのない、誰も知らぬはずのその唇の動きを、 ヴェラはしっかりと見てしまった。 言葉もなかった。 目立った外傷はなかったが、ホーナーは当然大事を取って病院へ搬送する処置を取らせた。 13戦が翌週のレースでなくて良かったとヴェラは密かに思う。 そうでなければの心身の歪みを解きほぐせない。 彼女がここまで、メンタルエネルギーを犠牲にして前進してきたのは、明らかだった。 を心配したニューウェイが、ホーナーに代わり搬送先の病院に駆けつけてくれた。 ドライバーでもあり愛弟子でもあり、 まるで本当の父のように接してきた存在の効果はやはり偉大だった。 は外部とは隔たれた静かな待合室でニューウェイの姿を見るや否や、 子供のように泣き出してしまったのだ。 ニューウェイはの肩を優しく抱きよせ「もう大丈夫。大丈夫だから」と声を掛け続けた。 ヴェラは自分の無力さを感じた。 いや――体調の管理という面では自分でも自信を持って完璧だったと言い切れる。 だが、の心を開くことは決して容易いことではなかった。
その証拠に、ヴェラは今初めての涙を見た。
|
レーススケジュールに限り、今年のレースを参考にしてます。
20130613 呱々音
―――――――――――――――――