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イングランド――ここミルトン・キーンズはレッドブル・レーシングチームの本拠地だ。 他所のチームと違い物々しい門などは設けず、その代わりと言ってはなんだが、 オープンな印象を与えるために、2頭の赤い牛が角を突き合わせている お馴染みのロゴマークが、建物の壁面に大きく鮮やかにプリントされている。 チームがここに滞在する貴重な時間は、皆忙しく自分の責務に努め励んでいる。 スタッフはもちろん、殊エンジニアに関しては答えのない開発を求められ、 なかなか過酷である。
にっこりと微笑みながら彼のオフィスの方を指で示す。 エイドリアン・ニューウェイが広々とした自分のオフィスに足を踏み入れると、 まだ朝も早いというのに、彼の個人オフィスにはすでに人の気配があった。 彼専用の横2メートルもある大きな図面台に薄紙を当てて、 図面に顔ごと埋めるようにして薄紙に細く的確な線を引いている。 ニューウェイが肩まで使って溜息を吐いても、その人物は彼に気付かない。 耳にイヤホンを突っ込んで好きな音楽を聴いているせいではない。 彼にしてみても、この状況には慣れっこだった。 脱いだジャケットをハンガーに掛け、年季の入った愛用の鞄を所定の位置にきちっと置くと、 それでもまだ気が付かないので、売店まで足を運び朝食と熱い紅茶を手に持って戻ってきた。 オフィス入り口の個人アシスタント、ジャナはここに配置されてすぐ 同じような光景を目の当たりにし、そんなニューウェイを慌てて追いかけようとしたが、 彼が自らで行きたがることをすぐに理解させられていたから、 本来なら自分の仕事であったはずのそんな姿を見ても 「おかえりなさい」と声を掛けるにとどまった。 ニューウェイが出勤してから、すでに30分経過している。 このまま放っておいても、こうして持ってきたばかりの紅茶が冷めるのは時間の問題である。 そこでようやく彼は、我がもの顔で図面台を占拠する人物の肩を叩いた。 叩かれた人物は弾かれたように顔を上げる――彼女の目は真っ赤だった。
買ってきたばかりのベーコンと卵を挟んだ温かいマフィンを差し出した。
「ありがとう、ジャナ」
しかしチームの現状において、はただの愛弟子と言うにはあまりにも重要で特殊な立場にいた。
名門大に進学、航空工学の一級優等学位を取得。 この頃にはとエイドリアン・ニューウェイは個人的な知り合いだった。 そもそも大手航空会社の息女として生まれただったが、 彼女が物心付いたときにはすでに両親は亡くなっていた。 歳の離れた上の兄が忙しく経営を取り仕切り、 に言わせれば「他にすることがなかったから」取り憑かれたように 航空に関する学問に夢中になったのだと断言する。 空気力学の専門家として名を馳せていたニューウェイが、 同じ世界の門を叩こうとする神童に目を掛けてやったのは、 彼女の才能だけが理由ではなかった。 人を惹きつけて止まない魅力があったし、 それに何より羨望と尊敬の眼差しで彼に真っ直ぐな視線を投げかけてくる。 はからずも父親代わりになるのも時間の問題だった。 知り合い方は知人を介したビジネスライクな状況だったにせよ、 彼女の兄も好感を抱かせる知的な人物であり、深い信頼を見出してくれたし、 妹のことを託したいと申し出たのは実兄自身だった。 以来、家族ぐるみの付き合いが続いている。 ニューウェイゆずりの知識もポリシーも貪欲に吸収し、見習い、飲み込みも驚くほど早い。 彼の影響をつぶさに受けて育った結果、レースマシンに対する思い入れが何よりも強くなり、 カートレースやラリーに参加して、趣味とは言え実に華々しい結果も出している。 ニューウェイの強い推薦で、5年前からレッドブル・レーシングのエンジニアとして 彼とともに具体的な開発に参加し、世界最速のマシンを生み出す手伝いを完璧にこなしてみせた。 エンジニア職と言えば、現在ではコンピューター上での設計が常識だが、 はニューウェイに倣って自らの手で原寸の図面を引く。 その結果がこの徹夜である。 エンジニアなら誰しも、独創的なアイディアが泉のように溢れてくる瞬間がある。 その止まらない発想を書き留めなければと思うのは、責められることではない。 だからニューウェイは、すっかり干乾びんばかりになった、 目の前でマフィンを食す可愛い教え子を見つめて、諭すように言った。
こんな時、急に幼い少女のように見えるから不思議である。 彼女はエースドライバーのセバスチャン・ベッテルと同い年だが、 どちらの中にも妙に大人びた顔つきで周囲を驚かせる瞬間と、 子犬のように無邪気で甘えすがるようなあどけなさを滲ませる瞬間が混在している。 だが、この世界では決して珍しいことではなかった。 とくにこのチームには、そういった素質を持った人間が多い気さえする。 そもそも、我らがチーム代表ことクリスチャン・ホーナーの “あの”集中力と愛嬌あってこそのレッドブル・レーシングチームである。 まだ若いチーム代表には、規律と柔軟さの度合いを見極める類稀なセンスがあった。 だからこそドライバーの才能だけではなく、 ニューウェイを始めとするエンジニアたちの仕事にも結果が付いてきたのだ。
図面はちゃんとこのままにしておくから」 「そうする。でもシャワーを浴びたら戻ってくるつもりだし、それに」 「寝なさい」
ニューウェイは久々に無茶をやったもんだ、と独りごちた。 この業界、例えエンジニアと言えども体力が物を言う過酷な現場である。 出来る限り規則正しい生活を心がけ、求められればハードな現場にも対応する。 多少の無理が利くようにトレーニングも欠かさない。 それが今のレーシングチームに求められる大切な要素なのだ。 一晩の徹夜なら見過ごすことも出来るが――あいにく今日は月曜日である。 足元に置かれたエナジードリンクの空き缶の本数を見れば、 週末家に帰らなかった可能性を敢えて確かめるまでもなかった。 がそういう無茶をするとき、その背後には必ずストレスの影がある。 そして皮肉なことに、そういう状況下で生み出された設計図には、 目を見張る点が普段よりいくらか多い。 ――大変な状況下なのはわかっている。 ニューウェイはうつむく。 彼はマシン開発の一環として、普段から自身の創ったフォーミュラカーに乗って 実際の感触を確かめている。 教え子のも彼を真似て、この世で一番高価な車のハンドルを握り始めた。 だが実際に乗っていくうちに、どうも一周当たりのラップタイムが エースドライバーであるベッテルより、なんと1秒以上も早い。 もちろんレースにおいては、ただ早ければいいという物ではない。 実際のレースで必要とされるのは速さ以上に戦いに耐えうる技術である。 コーナーに差し掛かった瞬間のブレーキの踏み方ひとつで、 タイヤの寿命が1周伸びるような瞬間的な判断とセンスの問われる世界だ。 それにしても走るたびに安定したラップタイムを叩きだし、 見惚れるようなドライビングを魅せるのドライバーとしての素質は、 気が付けばチーム内の一種の名物となっていた。 マーク・ウェバーが面白がって、レースシュミレーターレクチャーの 手解きの許可まで求めてくるくらいだ。 こうなってくると上層部もそれを無視できなくなってくる。 噂を聞きつけたモータースポーツアドバイザーのヘルムート・マルコが、 オーナーであるディートリッヒ・マテシッツに話を持っていくのも時間の問題だった。 最終的に齎された提案は「をテストドライバーとして疾走らせてみる」というものだった。 物は試しにと、昨シーズンはエンジニア兼テストドライバーという 異例の待遇でチームに参加することとなった。 コースの感触とレースがどういう物かを肌で感じた。 そこからの成長は誰もが舌を巻くほど驚異的なものだった。 彼女が常にどんなテストにも妥協を許さず、訓練を丁寧に熟し、 走行させれば結果として素晴らしいタイムを叩きだし、 業界の話題をさらうのに時間は掛からなかった。 もともと人柄もよく、恩師ニューウェイに限らず とにかくチームの誰からも可愛がられるような彼女が、 数年前から密かにパドックのアイドルと呼ばれ始めたのは、あまりにも有名な話だった。 同じくマルシャチームでテストドライバーを務める女性ドライバー、 マリア・デ・ヴィロタも、の走りに強い感心を寄せ、後押ししてくれたのも心強い。 ウィリアムズ開発ドライバーのスージー・ヴォルフもにエールを送ってくれた。 さらに昨夏、セカンドドライバーのマーク・ウェバーが引退を表明して以来、 黄金チームの空きシートは誰が契約するのかという話題で持ち切りだった。 ひとまずF1引退後のウェバーは、自身の所有するGP3チーム「MWアーデン」での 若手の育成に携わりながら、先人デビッド・クルサードのように アドバイザー兼テストドライバーとして、レッドブルに籍を置くこととなっている。 妹のように可愛がっているの面倒を見たいからね、 と珍しい冗談を口にして周囲を驚かせ話題になった。 そしてチームの新ドライバー採用の矛先は、 メディアにとって毎度お馴染みの“最高の餌”に違いない。 だが実に内々に勧められてきた計画は、すでに動き始めていた。 を正式なドライバーとして疾走らせてみるという、とんでもない計画だった。 「だがまずは腕試しとして、GP2やF3で経験を積ませては」 周囲からの至って常識的な意見に、オーナーとマルコは猛反発した。 どうせデビューさせるのならば、プレーンでセンセーショナルな方が良い。 そしてにはそれだけの価値と才能がある、と言うのだ。 突如としてF1界に現れた魅惑の女神が、最速マシンの手綱を鮮やかに操り、 華麗にチェッカーフラッグを受け、観客の視線を釘付けにする――。 そうあるべきだと考えていたからだ。 彼らにしては珍しい、夢見物語のような言葉がぽろぽろと零れ出すのに驚いた人間は、 まずこれこそが何かの悪夢ではないかと自分の頬を叩いたものだ。 F1はスポーツでありながら政治とビジネスの市場だ。 ならまず“兄”という一流の大型スポンサー獲得の武器が付いてくる。 実際シーズンが開幕し、彼女の疾走りを目の当たりにした企業、 あるいは女性ならではのスポンサーが声を掛けてくる可能性はかなり高い。 掛かり過ぎる費用の捻出もチーム運営の上では無視できない大きな課題なのである。 日頃から甲斐甲斐しいまでに未来のあらゆる可能性に配慮してきたホーナーの行動の賜物か、 テストドライバーとしてのの評判は非常に高かったため、 FIAによる第6項のテスト走行を経て、F1委員会の特別発給審査を見事通過。 のスーパーライセンス取得は当初懸念されていたほど難しいものではなかった。
伝説的女性F1ドライバーの誕生だ。 彼女は現役チャンピオンたちにも全く引けを取らない 素晴らしい結果を出すことになるだろう」
とは言え、具体的な詳細に関しての裁量はすべてホーナーに任せられている。 この場合でも、やはり一連の騒動を冷静に見ていたのはホーナーだった。 彼のチーム代表としての意見は、聞かれるまでもなく決まっていたのだから。
ニューウェイは改めてそう自分に言い聞かせた。 彼だけではない。 にドライバーとしての契約を望んだホーナーとて、 そう言い聞かせ、またそれ以上のリスクを覚悟する必要があった。 心身ともに強い重責の掛かる過酷な仕事だということを、 彼は誰よりもよく知っていたから。 |
ついにやってしまった。
20130613 呱々音
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