月が、緋い。 背筋が痛む。 尾が軋む。
不穏でならなぬ。 さすがの鬼も今宵は大人しくしているであろう。 は、よもや怯えているかもしれぬ。 だから早々帰るとしよう。 狐はまつわりつく女人を袖にすると、呆気なく殿をあとにした。 先刻まで散々己で弄び、溺れた身体だというのに、 事が済めばなんの執着も見せない狐を見て、女は口を開けていた。 しばらくすると後ろの方で何か喚いているような甲高い声が聞こえたが、 紺之介の頭は、すでにの事でいっぱいであった。 (緋い月を怖がっておるかもしれぬ。鬼が側におればよいがのう) 思案する間にも紺之介の姿はしなやかな尾を九本持つ狐に変わり、 浄阿弥との待つ住処へと脚を奔らせた。
丑三つの刻というのに、は眠らずに紺之介の帰りを待っていたのだった。
同時に、紺之介の鼻には何とも言えぬ麗らかな匂いが香った。 少女とも娘とも取れぬ不明瞭なそれを、 そっと腕で包んで優しく頭を撫でてやった。 落ち着くように。慰めるように。
「緋い月は怖いのです。全くお声が聞こえないの」 「識っておる。が心配でのう。こうして戻ったんじゃが…」
(優しい子じゃ) 長く清らかな髪が、その動きに合わせて素直に空を舞った。 語りかける豊満な月を愛でる者にとって、 緋い月ほど不気味なものはなかった。 何も言わず押し黙り、告げず、与えず、嘲るようにこちらを見つめるだけ。 桜の精であるには、月の理を悟る力があるのだが、 それでもまだこの齢では、緋月の無言の訴えを理解するのは難義であった。
浄阿弥はそんなの姿を見て目元をほころばせた。 あとのお守りは任せたと言わんばかりに、自分が嗜んでいた猪口を紺之介に手渡すと、 大あくびと背伸びをしながら、奥の褥へと消えていった。
「解らないわ…だってほかの桜に、会ったことがないんだもの」
は母を知らぬ。 ゆえに、幼い時分より、馴染みのない美しい女の香りに焦がれる傾向があった。 は鼻をすんとやってその女子の麝香を、小さな肺の奥に入れた。 紺之介は苦笑した。
「善い香りが、します」 「…」
紺之介は数多の女を抱かねばならぬというのに、 当の本人は、男を誘うために女たちが纏わせる香りを嗅いで、怯えた心を慰めるのだから…、 (皮肉、じゃな) 紺之介は気付かれぬよう、薄く唇を噛んだ。 そして明るい声音で言った。
「え」 「月の語りかけぬ夜は、不気味じゃが…同じく喧騒も無いという事じゃ」 「でも怖いわ」 「儂がおる。そうじゃな…の手を握っているよな。どうじゃ」 「…ずっと?」 「ずっとじゃ」
狐は満足げにひとつ、頷いて見せる。 そうして紺之介に手を引かれ、は物言わぬ無言の夜の庭へ出た。 草花にも池水にも、冷たい夜の寡黙はくまなく張り付いている。 狐はが少しでも安堵出来るように、自分の柔らかな尾をの背に添え護ってやった。
「尾っぽ」 「おお。そうじゃな」
紺之介の覗き込んだの瞳の中には、こぼれ落ちそうな緋い月が映り込んでいた。
「はい」
はもう震える事はなかった。 心無しか紺之介に握られた手が、きつくなったような気がしたが、 の気に入りの尾はやはりの背を包み込み、紺之介の方へそっと身体を寄せさせた。
「ああ、そうじゃ。ずっと…ずっとそなただけのものじゃ」
されど狐の目には、言い表せぬほどの、至極の愛しさが、苦しい哀切が滲んでいた。 決して報われることの無い、不毛の想い。 狐は月光で薄桃色に染まる尾を、微か震わせた。
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長編の「桜、麗しき宵月の如く」の主人公を前提に書いております。
そちらも併せて読んで頂けるとより解りやすいかと思います
時系列としては一話の、墨彫ってもらう前くらいでしょうかね?
お粗末さまでした。
20100329 呱々音