月が、緋い。

背筋が痛む。

尾が軋む。



























嗚呼、不穏だ。

不穏でならなぬ。

さすがの鬼も今宵は大人しくしているであろう。

は、よもや怯えているかもしれぬ。

だから早々帰るとしよう。

狐はまつわりつく女人を袖にすると、呆気なく殿をあとにした。

先刻まで散々己で弄び、溺れた身体だというのに、

事が済めばなんの執着も見せない狐を見て、女は口を開けていた。

しばらくすると後ろの方で何か喚いているような甲高い声が聞こえたが、

紺之介の頭は、すでにの事でいっぱいであった。

(緋い月を怖がっておるかもしれぬ。鬼が側におればよいがのう)

思案する間にも紺之介の姿はしなやかな尾を九本持つ狐に変わり、

浄阿弥との待つ住処へと脚を奔らせた。






「戻ったぞ」


紺之介が急ぎ住処へ戻ると、案の定、は浄阿弥の膝の上に座り、身を縮ませていた。

丑三つの刻というのに、は眠らずに紺之介の帰りを待っていたのだった。


「遅いぞキツネ」


鬼は軽蔑を露に冷酷な形相で狐をにらんだが、狐は気にしなかった。


、遅うなった」


あやすように優しい声音で告げると、は弾かれたように紺之介の胸中に縋り付いた。

同時に、紺之介の鼻には何とも言えぬ麗らかな匂いが香った。

少女とも娘とも取れぬ不明瞭なそれを、

そっと腕で包んで優しく頭を撫でてやった。

落ち着くように。慰めるように。


「そらそらそら、怯えずともよい。月はそなたの味方じゃと言うておるに」

「緋い月は怖いのです。全くお声が聞こえないの」

「識っておる。が心配でのう。こうして戻ったんじゃが…」


ちらりと鬼の目を見やる。


「…ちと遅くなりすぎたかのう。すまぬな、


は頭を振って否を示した。

(優しい子じゃ)

長く清らかな髪が、その動きに合わせて素直に空を舞った。

語りかける豊満な月を愛でる者にとって、

緋い月ほど不気味なものはなかった。

何も言わず押し黙り、告げず、与えず、嘲るようにこちらを見つめるだけ。

桜の精であるには、月の理を悟る力があるのだが、

それでもまだこの齢では、緋月の無言の訴えを理解するのは難義であった。


「顔(かんばせ)を上げろと言うに。そなたの美しい面が見えぬであろう」


鬼がうんざりと溜息を吐いた。


「俺は寝るぞ。いいな。


は紺之介の着物に顔を埋めたまま、頷いた。

浄阿弥はそんなの姿を見て目元をほころばせた。

あとのお守りは任せたと言わんばかりに、自分が嗜んでいた猪口を紺之介に手渡すと、

大あくびと背伸びをしながら、奥の褥へと消えていった。


「…桜は皆こうして、初めは緋月の夜を怖れるものなのかのう?」

「解らないわ…だってほかの桜に、会ったことがないんだもの」


そうしている間も小さな頭をなぜてやって、ようやくは面を上げた。


「…それでよい」


紺之介からは今宵も違う女子の香りがしたが、はやはりいつもの如く、それを咎めなかった。

は母を知らぬ。

ゆえに、幼い時分より、馴染みのない美しい女の香りに焦がれる傾向があった。

は鼻をすんとやってその女子の麝香を、小さな肺の奥に入れた。

紺之介は苦笑した。


「落ち着くか」

「善い香りが、します」

…」


一生抱けぬであろうこの娘への秘めたる想いのせいで、

紺之介は数多の女を抱かねばならぬというのに、

当の本人は、男を誘うために女たちが纏わせる香りを嗅いで、怯えた心を慰めるのだから…、

(皮肉、じゃな)

紺之介は気付かれぬよう、薄く唇を噛んだ。

そして明るい声音で言った。


「散歩をしてはどうかの」

「え」

「月の語りかけぬ夜は、不気味じゃが…同じく喧騒も無いという事じゃ」

「でも怖いわ」

「儂がおる。そうじゃな…の手を握っているよな。どうじゃ」

「…ずっと?」

「ずっとじゃ」


は紺之介の大きな掌に、自分の小さな紅葉を滑り込ませた。

狐は満足げにひとつ、頷いて見せる。

そうして紺之介に手を引かれ、は物言わぬ無言の夜の庭へ出た。

草花にも池水にも、冷たい夜の寡黙はくまなく張り付いている。

狐はが少しでも安堵出来るように、自分の柔らかな尾をの背に添え護ってやった。


「寒くはないかえ」

「尾っぽ」

「おお。そうじゃな」


はしばし緋い月の存在を忘れて、白い尾にぬくぬくと頬をすり寄せて悦んだ。


「そら…見てみい」


灯籠の向こう、緋い月は独り無言で漆黒の空に浮かんでいた。

紺之介の覗き込んだの瞳の中には、こぼれ落ちそうな緋い月が映り込んでいた。


「のう…。静かな月も儂の隣であれば…また善いものであろう」

「はい」


(あな口惜しや)

はもう震える事はなかった。

心無しか紺之介に握られた手が、きつくなったような気がしたが、

の気に入りの尾はやはりの背を包み込み、紺之介の方へそっと身体を寄せさせた。


「緋月の晩、紺の隣は、私のもの?」

「ああ、そうじゃ。ずっと…ずっとそなただけのものじゃ」


見つめ合い、笑う、狐と桜。

されど狐の目には、言い表せぬほどの、至極の愛しさが、苦しい哀切が滲んでいた。

決して報われることの無い、不毛の想い。

狐は月光で薄桃色に染まる尾を、微か震わせた。




(それでも儂は、そなたが愛しゅうて、たまらんのじゃ)

























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長編の「桜、麗しき宵月の如く」の主人公を前提に書いております。
そちらも併せて読んで頂けるとより解りやすいかと思います
時系列としては一話の、墨彫ってもらう前くらいでしょうかね?
お粗末さまでした。

20100329 呱々音