【はじめに】

イグニス連載『こんなにも眩しい世界を知らなかった僕』を読んで頂けますと

より一層お話を楽しんで頂けるかと思います。

(以下は連載未読でも、お読み頂ける内容です)
















「女流の画家など…――流行るものでは無いわ」


油絵具の付着した筆を置きながら、はやけに達観した事を口にした。

文脈だけ取れば嫌気が差したようにも思えるが、

口振りから察するに――彼女がとても冷静で

弁えた物言いをしている事がよく解る。

別段、儚んでいる訳でもないのだろう。

盗み見た懐中時計が、そろそろ一息入れる時間だと告げていた。

ジルは部屋の隅で読みふけっていた美術書を閉じると、

後ろから彼女の小さな背中を抱き締めた。


「少し休憩しようか、愛しい姫君。

 私が紅茶を入れよう。

 それに今日は、の好きなオレンジのケーキもある」


可愛い者を甘やかすようなジルの口調に、の表情は弛緩した。

そしてジルの体温を味わうように――うっとりと目を閉じた。























ほんの数ヶ月前まで、薔薇の香りだけが彼を捉える術だった。




手を伸ばして触れる――そこにあるのは作り物の冷たい身体。

もちろんそれだって構いやしなかったのだ。

見目美しく秀麗な精霊人形であるジルの鍵を巻いたのは…

がまだ5才の時であった。

彼女の家は――伯爵という身分を得た由緒正しき血筋の人間であった。

健康だったはずの両親は、が10歳の時、

夫婦で出掛けた旅先のヴェニスで流行り病に掛かり、

呆気なく亡くなってしまった。

兄弟も無く、彼女に残されたのは、

広大な土地と莫大な財産と――美しい薔薇の人形。

以来彼はの良き教師であり、親代わりであり、友であり――恋人であった。

もちろん秘めやかな想いではあった。

聡明なジルの事だから、気付かぬ振りをしていただけで、

の想いをきっと解っていたのだろう。

ただ――永久に美しく朽ちることのない人形に思いを馳せているだなんて。

伝える事自体が…それこそ狂気だと思った。

物心付いた時から、はジルを被写体に絵画を生み出す事で、

埋められない距離を補う事を覚えたのだった。

しかしが成人を迎える頃になると、

自分の伴侶となる相手を見出せない自分に、良い知れぬ戸惑いを覚え始めた。

どれもこれも偽るにはあまりにも不格好な想い――

むしろ彼女が思う人がジル…その人だけなのだと

容赦なく浮き彫りにしていく残酷な行為だった。

戸惑い、疲弊し、確信していく彼女の痛ましい姿を見続ける事に、

ジルもまた苦痛を感じていた。

お互いがお互いしか居ないのだと…。

魂の共鳴には抗えぬのだと…。

こんなに深く愛しているのに…。

結ばれる事すら許されぬ、残酷な差異。

は想いを振り払おうと、

更に頻繁に屋敷のアトリエに篭るようになったのだった。

幸か不幸か――彼女の描き出す絵画は高尚な嗜みを持つ者、

得に貴婦人達に絶大な支持を受け、気が付けば“薔薇の君”と呼ばれ、

広間に彼女の描いた絵画を飾ると幸せになれると評判だった。

それでもは浮き足立つ事なく、淡々と無心に絵を描き続けた。

だが――そんな状況に耐えられなり悲鳴を上げたのは、

彼女ではなく――ジルの方だった。

おぼろげに自分が描かれた絵画に、

の貴重な命が吸い取られていくようで、良い知れぬ恐れを覚えたのだ。

鎮痛な面持ちをしたジルの腕に抱き締められた時、

はそこではたと気付く――彼はこの思いにすら…泣けないのだ。

そう思うと――彼の恐れと自分の恐れを象徴するように、

自然と涙が溢れて止まらなくなり…は咽び泣いた。

肩を震わせジルの胸に縋って涙を流すの手を握り締め、

ジルは辛そうに言い聞かせるように…苦しげに、吐き出した。


「私の魂は――すべて…―、すべてにあげよう。

 ――いや…どうか君に、君だけに…受け取って欲しい」


の口が割られるより先に、

ジルの冷たく清らかな唇が――そっと口を塞いだ。


「悲しいね…気付かない振りをする事が、

 こんなにもお互いを苦しめていたなんて…。

 愛する者からの受け取る愛が、こんなにも美しく

 儚い物だとは、考えもしなかったよ」


握っていたの手をそっと冷たい頬に宛がって、

体温を味わうように、ジルは長い睫毛を伏せた。

は縋り付くジルのこめかみに、そっとキスを落とした。


「ありがとう……ジル――。

 愛して…いるわ。本当に…―本当に…愛してる」


馬鹿な事だと、痛い程に、解っている。

ジルにしてみれば一瞬の刻しかは生きられないのだ。

もしかしたら呆気なく明日とも知れず死んでしまうかもしれない。

――それが、人間と云う存在だから。

ジルとの間には――我侭な程に“今”しか存在しなかったのだ。

その晩――至極愚かな狂気だと諒解っていて、二人は月夜に素肌を晒した。

ただ生まれたままの姿で、互いの腕を分け合って、

冷たい身体と温もる身体を寄り添わせるだけの――哀しくて幸せな夢――。


「…どうか愚かだと笑って欲しい。

 婚約者を探し回る君の姿を見た時…君のこの清らかな肌を味わえる男が、

 私以外の者であると衝き付けられたような気がして、

 私の心は嘆きと醜い嫉妬に震えていたのだよ。

 ねえ…愛しい姫君――私だけの

「それならジルは、私の愛しい薔薇――。

 どんな時でも私の心に咲き誇る、私だけの―…貴方」


は甘える子供の様にジルの空虚な胸に頭を預け、

睫毛を濡らしながらそっと眠りの縁に意識を預けた。

心地よい拘束にまどろむを見つめて、ジルはそっと呟いた。


「君は気付いているのだろうか――。

 君は誰よりも高貴で穢れを知らない…。

 人を惹きつけて止まない、天性の才能に満ち溢れている。

 神に愛された君と――、幸運な魂を入れた空虚な人形――。

 もしも私が、君に見合う男になれたのならば――その時は――…、」


夜が明けると、ジルは今日一日、暇が欲しいと乞うて来た。

問い詰めたい想いが無かったといえば嘘になるが

――は微笑んで、返すようにひとつ頷いた。











なんて事は無い――昨晩は冷たい人形を抱き締めて眠っただけ。

それでもこの頭は、昨日までの自分よりも幾分も冴え渡っていて、

ジルの居ない一日という時間を、久々に絵筆を取らずに…

だが至極穏やかに、過ごした。

待っていれば彼が帰ってくるから――。

何とは無しに、普段、大切に宝石箱に入れてあるジルの鍵を取り出して、

日がな一日薔薇を愛で、紅茶を嗜みながら、

鍵と共に愛する人の帰りを待っていた。

気付けば空には漆黒のヴェルヴェットが掛かり、

妙に青白い満月が、深々と冬の冷たさを照らしていた。

ふいに寒さを覚えたので、暖炉に薪を足そうとした――その時。

机上に置いていた鍵が――否、鍵の石が――…、突然、眩い光を放った。

目も眩む程の閃光に、は顔を背け固く目を瞑る事しか出来なかった。

ふいに一面を包み込んでいた光が消え失せる。

慌てて駆け寄ったの目に映った光景は――…。

無残にも粉々に砕け散った…シャムロックの石と、鍵…だった。


「…ッ…ジ、ル…?」


事態が飲み込めず、の身体は砕けるようにその場にへたり込み、震えた。

ジルの身に何かあったに違いない――。

云い知れぬ恐怖に気が狂わんばかりであった。

心配すれどもジルに行き先を自分は知らないのだ。

とにかく…なんとか玄関ホールに辿り着き、自分の身を抱えるようにして、

扉を開けて愛しい薔薇が…自分のもとへと帰ることを必死に願った。

彼が帰ってこなかったら一体どうすればいいのか――。

怖ろしさにの襲来についに圧し潰されそうになった――まさにその時。

人の気配がし、控えめに…――扉が開かれた。

確認するより早く、はその人物―…ジルに抱きついた。

ジルの方も、ある程度予測していたのだろう。

だが、抱きつかれた彼女の身体が、想いの外冷え切っていた事に狼狽えた。

彼女の頬に手を添え、自分の方に向けさせると…

彼女の顔は蒼白になり、泣き腫らした赤い目が痛々しかった。


「嗚呼…本当に済まなかったね、我が姫――。

 とにかく暖炉の前へ行こう。

 熱い紅茶を淹れよう――温まらなくては、」

「…ま…って……――ジ、ル………、あ……、貴方――、」


は立ち竦み、硬直したまま――困惑に大きな瞳を揺らめかせた。

ジルは人差し指を、彼女の小さな薔薇の蕾に当てると、優しく微笑んだ。


「し――。

 今は…とにかく暖かい場所へ――ね?」


熱いミルクをたっぷりと注いだ紅茶を両の手で包み込みながら、

は現状を咀嚼できずに暖炉の火を見つめていた。

紅茶を淹れ終えたジルは、の隣に腰掛けた。


「愛しい姫君…少しは気分が良くなったかな。

 私を見て?ああ…良かった。

 先刻よりは顔色が良くなったね」


綺麗だよ、と愛おしげに呟き、ジルはの頬に手を添えた。

はそれを味わうように――否、確かめるように――そっと目を閉じた。




嗚呼――…なんという…事だろう…。




やはり――彼は――、




「……――ジル――貴方――…、とても………温かい」




は大粒の涙をぽろりぽろりと落としながら、

生の光を宿したジルの琥珀の瞳を見つめた。

だがそれすらも涙で歪み、彼が――人間になった彼が――

消えてしまわぬよう必死に瞳で捕え続けた。

ジルはそっとその美しい雨垂れを嘗め取ってやった。


「…―、涙とは……何とも物悲しい味が、するものなのだね」

「ジル――…お願い…――口吻けて」


最愛の女性に消え入りそうな声で懇願されて、

断れる男がいるのなら――教えて欲しかった。

ジルは今日まで、への愛という劇薬を、密かに煽り続けていたのだ。

愛しさに身を焦がされ、どんなに願っても…。

それでも叶うはずも無かった、この身体。

凍える真紅の薔薇は、温もる蒼翠の薔薇に出会う事によって

――不可能を可能に変えたのだ。

形も味も感触さえも未知のそれを、確かめるように貪って。

絡み合って堕ちる鳥のように――。

ジルは彼女の伽羅の毒に――溺れた。











白く光る彼女の肌を手の甲でそっと撫でながら、ジルは、奇跡を反芻した。


「イグニスを覚えているね…?

 彼の魂を…解放するに至らしめた人物がいた。

 その人物は、シャムロックの末裔であり、人形師であり――、

 そして…イグニスの想い人であった。

 …――彼はずっと孤独に凍えていたのだろう。

 イグニスの厳冬を溶かした女性は、彼の幸せを思って――命を諦めた。

 けれど奇跡が起こった。

 イグニスの想いと…彼女の想いが通じたのだろう。

 しかし…要素はそれだけでは無かった。

 ――私や…私以外の精霊人形たちも、皆それぞれ同じ様に、

 愛しい者の側で、限りある命を終りたいと――切に願っていたのだよ」


はジルの胸に耳を宛がい、脈打つ心音を聞きながら、満たされて微笑んだ。


「ねえ…私だけの姫。

 君がこんなにも愛おしい――…。

 私の理性を打ち崩し、この瞳を盲目させ、思考を麻痺させる――、

 君の…蠱惑の甘い毒――。

 ああ……。私は生涯、君を捕えて放さない。

 この柔らかな肌に薔薇を散らせて良いのは――私だけだ」

一層強く身を拘束され、薔薇の棘に捕らわれる。

それは至極に心地良く――脳髄を麻痺させる、赤い薔薇の誘惑――。

「私がジルから受け取ってきた愛は、まるで薔薇の棘に仕込まれた、致死量の――、」

「――だがはいつだってそれを咀嚼し煽ってくれた」

「何度でも飲み乾すわ…、ジルの与える、毒ならば…」

「私こそ…の与える毒に死ねるのならば、本望だよ」


甘い――痺れ――。


















綿布のエプロンを取り外し、軽く背伸びをする。

そうしてがティーテーブルに着く頃には、

ジルの淹れた紅茶が絶妙のタイミングで出されるのだった。

至極幸福そうに微笑みながら、ジルはどう?と聞いた。


「…美味しい。とっても落ち着くわ」

「それは良かった。

 では姫の好物のオレンジのケーキも――さあ、食べてみて」


そう云われるままに目の前に差し出されたフォークに削り取られた、ケーキ。

きっと抗ってみた所で、ジルはきっと食べさせるのを止めないのだろう。

観念してジルのフォークに食らいついた。

恥じらいに目を閉じて、すっかり油断していたせいもある。

だから一際驚いてしまった。

遠のくそれを追いかけるように――ジルの唇に口を塞がれて――。

蕩ける頭の片隅でぼんやりと思う。

ジルのキスは…驚くほどに自分の唇によく…合う。

まるでお互いにお互いを、しつらえた様に。


「うん。なかなか良いバターを使っているね。オレンジは…イタリア産かな」


唇を解放したジルは、あの独特の壮麗な美しい顔で楽しそうに笑う。

は訴えるような涙目でジルを睨みつけながら、

乱れた呼吸を必死に整える事しか――出来なかった。











彼女が描く絵に――もうジルは出てこない。

描かれるは更に皆に愛される、至極幸福な――薔薇の、楽園。

薔薇の蜜は――…甘い甘い愛の、蠱惑。

































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朱コたんのために書いたお話を、加筆修正して。

20110213 呱々音