【はじめに】
映画『裏切りのサーカス』の内容をベースに、
原作小説の要素も含みます。
ネタバレを避ける方はウィンドウを閉じてお戻りください。

































諜報機関――MI6通称サーカス。

ここはいわば英国の脳。

交渉、謀略、ありとあらゆる公の記録に残らぬ手を使って、

この大国と世界に振りかかる際どい火の粉をはらい、そして阻止し、あるいは仕掛ける。

ロシアやアメリカに限らずフランス、ハンガリー、スイス――世界中のどこへだって

身分を偽った工作員を送り込み、ありとあらゆる諜報司令をこなす。

時には大臣をも満足させるような成果を上げることもあれば、

ターゲットの煙草に火を付けるだけに留まり、強い風から身を守るようにコートの襟を立て

偽造パスポートを使って命からがら舞い戻ることもある。

常に言える事は、サーカスはいつだって第三次世界大戦を未然に防いできたということだ。

日々流れてくる大量の情報、それらのほとんどは本物らしい嘘でしかなかった。

人々が“6階”と呼ぶフロアこそが、まさにサーカスの“てっぺん”だ。

てっぺんを構築する首脳部の面子は生え抜きには違いなかったが、

皆それぞれが野心と計画を持った一筋縄ではいかない男たちだった。

コントロールがリーダーとしてサーカスを率いていた末尾の時代は

「下火」と呼ばれるだけに留まらず、

外交自体を脅かし兼ねない最悪の結果を招いた「大失態」によって、

年季の“入りすぎた”コントロールだけでなく、

サーカスの存在自体が問題視される事態にまで及んだ。

おまけに後年彼が唱えていたのは頑なに“もぐら”についてだった。

コントロールは、KGBに送り込まれた二重スパイの“もぐら”がこのサーカス内部にいると主張。

だがそんなものはいないと一蹴されるまでに、

コントロールの地位と精彩は落ちぶれてしまっていた。

かくしてサーカスにとっての黄金期はとっくの昔に過ぎ去り、

それは戦争の時代とともに風化した。

コントロールが手塩にかけたサーカスは、情報を掴む後ろ暗い者たちによって世襲され、

彼に関わった忠実でそして優秀なシェパードたちは

コントロールの失脚とともにサーカスを追われることとなった。

彼の右腕だったジョージ・スマイリーも、任期を全うすることなく共にサーカスを去った。

ほどなくしてコントロールは死去した。

そんなスマイリーの前に現れたのが情報機関監視役のオリバー・レイコン次官。


「コントロール亡き今、これは君が解決すべき事件だ」


レイコンは引退したスマイリーに“もぐら”探しを命じた。

スマイリーはまず最も忠実であるべき手駒に、サーカスの実働部隊スカルプハンター

――通称首狩り人のチーフであるピーター・ギラムを指名した。



ギラムは危険な任務をいくつもこなしてきた。

彼自身、8年前まで海運会社の事務員を偽造身分に、

仏領北アフリカで手飼いの工作員網を動かす活動にあたっていた。

それは国では殺人的危険任務とみなされていた。

そして帰国後ロンドンでこなした任務、

もちろんその中にはスマイリーのために行ったものも存在する。

どんなに逼迫した環境に追いやられ、

その極度のストレスにスマイリーを死ぬほど憎むことになったとしても、

おそらく彼はスマイリーのために危険を犯すのを止めることはしないし、出来ないだろうと思う。














スマイリーはサセックス・ガーデンズのホテル・アイレイに、

バラクラフの偽名で作戦本部を設けた。

ホテルの経営者ミセス・ポープ・グレアムのうろんなノックが八号室に響き、

彼女は慎重に「若い女の来客がある」と告げた。

部屋をギラムに任せスマイリーが階下へくだると、

冴えない配色の壁紙のせいで物悲しいとさえ感じるフロントの前に、

妙に姿勢の良い婦人が立っていた。

彼女がこちらに気がつき顔を上げると、辺りはあからさまと言っていいくらいに華やいだ。

もともとの赤毛を嫌って16歳の時から染め続けていると教えてくれた見事な漆黒の髪、

赤い口紅がスマイリーに向かって懐っこく微笑んだ。


「ミスター・バラクラフ、ティーの時間に混ぜて頂けるなんて光栄ですわ」






そもそもこの諜報部サーカスを構築する面子は、

もちろん国に遣える組織の人間に違いはないのだが、

サーカスに至るまでの経緯は人それぞれである。

初めから国家職員として諜報部で仕事を始める人間だけではない。

その多くは目を掛けられて民間からリクルートされるのが常だった。

あるいは食いっぱぐれ、一度は家を失くした才能ある人間だったりもした。






を見つけてきたのは他でもないあの監視官レイコンだった。

はいわゆる英国の黒い歴史の犠牲者のひとりだった。

親を亡くした、あるいは家庭の事情で一時的に保護されたはずであった多くの子供たちが、

大した荷物も持たず船に詰め込まれ英国から豪州へ強制的に送られる、あの悪夢だ。

世間では実しやかに囁かれる都市伝説だと思われている。

豪州へ送られたは、他の子供たちと同じように肉体労働を強いられ奴隷のように扱われた。

だが人一倍の幸運というのは、ときに強い意思を支持すべく降り注ぐことがある。

それは極稀に――ではあるのだが。

物静かで愛らしい幼女を手荒な大人たちは放ってはおかなかった。

泥を啜ってでも生き延びてみせる――彼女がそう誓ったとき、

運命はこのサーカスへ向かっていたと言っても過言ではないだろう。

16歳の朝、着の身着のまま片道切符を手に入れて向かった先はロンドンだった。

親を見つけようとは思わなかった。

それからは本当に幸運だったとしか言いようがない。

住み込みだが、眠る場所も、仕事も見つけられたのだから。

もちろん誇って話せるような職種ではなかったけれど――。

だからこそ、寝る間も惜しんで勉強もした。

一夜の客を本当の意味で満足させるには、一定以上の慎ましい知識が必要だったから。

その努力は程なく目覚ましい成果を見せる。

はこの界隈で一番の上客取りにまでのし上がった。

この頃は、客を取り終えた後いつも小さな窓を開けて外を眺めていた。

同じような閉塞感を感じさせる建物ばかりだったが構いやしなかった。

そうすることに意味があったからだ。

窓ひとつ開けるにも許可がなくてはいけなかった子供時代を思えば。

視界で揺れるのは派手なネオンとバルコニーから下げられた女たちの下卑た色の下着。

それでもは幸せだった。

ある時、自分の視界で揺れるものが下着だけではないことに気がついた。

斜向かい、グリーンの下着が掛かっている日に

なぜか必ずその建物へ消えてゆく男がいることに気がついた。

は即座に思った「あれはサインなんだわ」

そして独自にいくつかの根拠を見つけ、自分の直感を信じた。

その晩、すでに常連と化していたレイコンの顔色の悪さを見て、は言った。


「ミスター・レイコン。あなたは政治家か何かなの?

 私がある“異変”を見つけたのと、あなたがここへ通いだしたのは同じ時期。

 ここの所は気もそぞろよ――ねえ。あなたは一体“なに”に怯えているの?」


結果として、が見つけたサインを辿ってみれば、

次官であるオリバー・レイコン暗殺を企むベラルーシ人の尻尾を掴むことになった。

その鋭い観察力がレイコンの命を救ったのだ。

これを境に、レイコンはを金で買うのをやめた。

さて、レイコンという人間を知る者にしてみれば、

それはあまりにも唐突で思いがけないリクルートだった。

の受けた生い立ちの仕打ちは、公にはされていない英国の膿そのものである。

彼女の出生を調査した上で、本来ならば恨むべき英国政府に、

尻尾を振るのは容易ではないと思われたが、はしっかりと聞き分けてみせた。

後にコントロールは、をサーカスに加えたレイコンの采配を、

“不相応とも言える彼の唯一の手柄”とさえ言った。

がサーカスで最初に配属されたのはスカルプハンターで、

更に言うならハニーポット――いわゆる“色仕掛け”要員。

まだ20の若さだった。

入局からなにかと仕事を教え世話してくれたのがピーター・ギラムだった。

のもとに任務が舞い込む度、6階の人間たちは彼女の能力を認めざるを得なかった。

足音もなく忍び寄る猫のように、鮮やかに情報を引き出すサーカスの薔薇。

だがもちろん危険な目にも遭う。

殴られるだけに留まらず、売り飛ばされそうになるのもザラだった。

諜報部員の性別が女――それが示すのは、

金で雇った女を使うリスクをことごとく回避できるということだ。

“女”を使う任務は必然的にに回される。

情報を盗みとった彼女が命からがらサーカスへ帰ってくる度に、

ギラムは痛ましく思い、あからさまに顔を歪めたい衝動に駆られた。

だが立場の上でもそんなことは決して出来ないから、ギラムはの負担を減らすため、

彼女に任せるギリギリのところまで可能な限りかそれ以上、仕事の量を増やして共に戦った。

彼女が25歳に満たないうちに、レイコンがサーカス内部に

をトップに据えたハニートラップのチームを設けようと言い出すのも

時間の問題というのがサーカス内の話の種だった。

レイコンがそんな馬鹿げた非人道的なことを言い出す前に、

見兼ねたコントロールとスマイリーがレイコンの説得を試みたのは言うまでもない。


「酷いとは思う。だがここは人道支援団体じゃない」


こういうレイコンの意見を指示する者が、内部には多少なりとも居ることも事実だった。

そして増員されたハニートラップ要員の女たちを仕切るのがの仕事となった。

この頃にはハニートラップはスカルプハンターから形上独立し、

サーカスのいわゆるどの“フロア”にも属さず、

強いて言うとすれば“6階”の御用達には違いなかった。

もちろん出来る限り“身体”を使う真似なんてさせないよう、

諜報員としてのスキルアップこそが、チーフを引き受けたの本当の目的だった。

の諜報員としての才能に目を掛けたのは、

何もコントロールやスマイリーに限ったことではない。

栄華期にはサーカスの“調査の女王”とまで言われたあのコニー・サックスでさえ、

を自分の最愛の娘のように愛で、丁寧に扱った。

サーカスの薔薇としてやっていくためのスキルアップのレクチャーを、

プライベートな時間を割いてまで指導してくれたのもギラムだった。


「土が古くなったら薔薇は咲かないの。

 ピーター・ギラムって人は、枯れかけてた薔薇を新しい庭へ植え替えてくれたのよ」


は口癖のように言う。

だが時にはどうしてもギラムに補いきれぬ部分もある。

彼には立派な騎士道精神があったが、それだけではままならぬ長く生きてきた者の知恵を、

ジョージ・スマイリーという紳士は辛抱強く丁寧にに教えてくれた。

見習うべくは、決してギラムの教えを否定するような真似はしなかったことだ。

ギラムは稀にその場に立ち会うたび、スマイリーはまるでの父親のようだと思った。

そういう意味で、ギラムもスマイリーには感じなくて良いはずの特別な恩を感じていた。

そしてまたギラム自身もと同じように彼に大して尊敬の念も抱いた。





























八号室の作戦本部に入ると、各所から苦労してかき集めた書類の中で、

ピーター・ギラムがティーセットを用意していた。

顔を上げたギラムと目が合う。

知り合って何年経とうとも、そうする度に彼の目が好きだと思わずにはいられなかった。






はなにをやるにも上手くやる」


スマイリーがミルクをたっぷり入れたティーカップを傾けながら言った。


「ミスター・スマイリーのおかげです。

 今じゃサーカス内部のフリーランスみたいなものですから。

 ブリクストンでも本部でも重宝されていますよ。

 でも今日抜け出してきたときの建前はありきたり。遅めのランチです」


ランチへ出る間際。

ミーティングルームから聞こえたパーシー・アレリンの剣幕ときたらそれはもう酷くて、

まるで壊れたダットサンがびっこを引きながらエンジンが燃え上がる一歩手前みたいだった。

形ばかりになだめていたのはビル・ヘイドンで、

なにかとてつもなく重要な“問題”が勃発したことを明示していた。

何にせよまずミーティングルームの扉を閉めるべきだとは思った。

無関心を装ってさっさと外へ出ようとしたは、ヘイドンと目が合った。

それはいつだってサーカス内部に性別という存在を意識させる目だった。

だがこの場合、彼が言わんとしていることはただひとつで、

は無言のうちに望まれた通り、ミーティングルームの扉を閉めてやった。

喧騒に蓋をした気分になった。

防音の利いた小窓の向こうから再びヘイドンが差し向けていた視線は、

扉を閉めてやった礼以上の関心の目――当然だ。ヘイドンは実に抜け目ない男なのだから。


「その問題って一体なんだったんだ」


ギラムが言う。少しやつれたようだった。

は首を振る。


「今はまだ迂闊に聞くべきじゃない」


何か言いかけたギラムを遮るようにして、スマイリーは席を立った。


「ティーよりランチへ行ってきたらどうだ。

 、ピーターを連れて行ってくれ。いいかげん何か食べさせないと。

 1時間しかやれないが――。

 ランチが終わったらピーターはそのまま頼んでいたことをこなしてくれ」


コートを羽織るスマイリーに向かってが「ありがとう」と投げかけると、

彼は口の端で微笑み部屋を出ていった。











ホテルそばの寂れた飲食店を横目で見ながらギラムは

「ここは君みたいな女性を連れて入る店じゃない」と言った。

その言葉にどんな意味が込められていたにせよ、

が整った顔を微かにしかめたのを見る限り、あまり良い意味には取られなかったらしい。


「私たち、昨日今日知り合った仲じゃないわ」

「よく解ってるさ」

「――いいわ」


彼女なりに何か感じ取ったようだった。

勘が鋭いというのは人付き合いの上では往々にして厄介なことが多いが、

この場合は幸運だ。なぜならギラムは今、とてつもないストレスの中に身を置き、

スマイリーの手となり足となり危険を冒し――。

とにかくギラムの心を苛むこの状況下において、

彼が口にする物はほとんど適当に作られた不味いものばかりだし、

そもそも味など感じる余裕はない。

スマイリーがわざわざ暇を出さなくては食事にもありつこうと思わなくなっている。

それでもホテルのそばの飯にはうんざりしていた。

だからせっかく綺麗な女性とテーブルを囲むときくらい、

ホテルと任務に一瞬でも思考を委ねなくて済むような店に入りたいと思った。

そしてなにより――これはサーカスの人間でなくても解るだろう――

と並んで歩ける男は間違いなく幸せ者だ。


「サーカスまで行く途中に美味しい店を知ってる」


車に乗り込み、彼の愛車シトロエンは走り出す。

少しだけ煙草の香りがした。


「もっと報われるべきだわ」


が哀しそうな声で呟いた。

同情的な声だったが、不愉快にはならなかった。


「――“もぐら”が見つかれば報われるさ」

「スマイリーの話じゃないわ。あなたのことよ」


応えるには短い沈黙が必要だった。


「おれは彼がサーカスに戻れればそれでいい」






<シェ・ヴィクター>はギラムの好きな店だった。

愛想の良すぎない店員がてきぱきと注文を取り、料理が出てくるのも早い。

ホテル・アイレイよりずっと見栄えの良い壁紙に、ギラムは小さな満足を覚えた。

彼がランチプレートにナイフをいれるのを眺めながら、は思ったままを伝えた。


「あなた顔色が悪いわ」


この“もぐら狩り”とも言える壮絶な、

そして秘密裏に行わなければいけない任務に加えられたのは何もギラムだけではなかったが、

それでもあと少なくとも40分後に彼が着手しなければならないであろう

“ある任務”について知ることを許されたのは、スマイリーとギラムのみだった。

はもちろんそのことも承知している。

だからこそが呼ばれたのだ。スマイリーは言った。

――ギラムの見送りを頼みたい――と。

テーブルの上で強ばっていた拳に、そっと添えられたの華奢な手を

無意識のうちに握り返していたことは、この世の誰にも責められたことではない。


「ミスター・バラクラフは何も教えてくれないけれど、

 あなたが無事に任務を全うして帰ってきたら、

 きっとなにもかも明らかになるんだわ」


ギラムの灰色がかった青緑色の瞳は、うっかりすれば泣き出しそうにも見て取れた。

だがその美しい目で、彼は縋るように安堵して見せる。

まるで2つのエメラルドをはめ込んだように輝くの目が、

応じるようにただ一言「わかっている」と告げていた。

は名残惜しそうに彼の手を離すと「化粧室へ行ってくる」と言い残して席をたった。

ギラムは今この瞬間、無性にを欲していることに気がつき、少し不安になった。

の名誉のために言っておけば、ふたりはまだ男女の関係になったことはなかった。

それがギラムの道義心によるものだったのか、のこだわりによるものだったのかは

この際はっきりさせない方がいいだろう。

だがお互いのことをサーカスの中でも、特別大切に想い合っていることは確かな事実だった。

つい今まで触れていた場所がじんじんと熱を持つ。切なそうに。

ギラムは席を立ちの背を追うようにして、閉まりかけた化粧室の扉に身体を滑り込ませた。

彼の逞しい身体が邪魔をして、ドアは完全には閉まらなかったがそれでも構わなかった。

ふたりはそれが約束されていた必然であるかのように、互いの唇を貪った。

呼吸を乱して、深く味わう。どちらも飽きるほど経験してきたであろう、

たったそれだけの行為なのに、まるで違う。

――キスがこんなにショッキングな行為だったなんて。

ふっと唇が離れて、名残惜しそうに見つめ合う。

は句点で文末を締めくくるように、ギラムの唇にキスをひとつ飾りつけた。

自分より幾分も背の低いの身体を、腕の中に閉じ込めるようにきつく抱きしめた。

背に彼女の手が這うのを感じて、ギラムは怯えが薄らいだような気がした。

もうチープな励ましの言葉など彼には必要なかった。














ギラムに与えられた任務は、サーカスの資料保管室から当直日誌を盗み出すことだった。

厳重に管理されたサーカスの体内から機密を持ち出すことは決して容易ではない。

だがギラムは巧妙なトリックを用いて実に見事にやってのけた。

彼が味わった疲弊と緊張は筆舌に尽くしがたいものがあっただろう。

だがそれだけでは終わらなかった。

ギラムが必死の思いで当直日誌を自分のカンバス・バッグへ仕舞った直後、

彼は今まさに“もぐら”の疑惑をかけられている首脳部のひとり、

トビー・エスタヘイスに捕まってしまった。

パーシー・アレリンが呼んでいるという。

ギラムは思いがけず、首脳部へ呼び出されたのだった。

ミーティングルーム――そこで聞かされたのは、

ギラムの部下であるリッキー・ターの聞くに耐えない裏切りについての話だった。

ターが英国を売り、ロシアに寝返り――彼は脳の片隅で思った。

先ほどが見たと言っていたのはこれだったのか。

アレリンが激怒していたのは、まさにこのリッキー・ターの裏切りについてだったのだ。

サーカスの首脳部たちの冷ややかな目付きは、

ギラムが死んでも口を割るなと言いつけられている先ほどの“盗み”を

見透かしているような気さえして、不愉快でならなかった。

そして現在のリーダーであるアレリンのまくし立てる警告は、

本来の意味を通り越して、今まさに裁判に掛けられている気分だった。

その後のことはおかしいくらいに覚えていない。

果たしてどうやって怪しまれずに車の修理工場まで足を運んだのか、

メンデルと落ち合って、彼から「本部はホテル・アイレイから他へ移った」

と告げられたあたりからしか意識を辿れなかった。

新しい本部は家主を亡くした場所――コントロールの家だった。

着いたときには、嫌な汗はとっくに引いていたがギラムの顔面は蒼白だった。

「ジョージ」そう言いながら、ギラムが作戦本部に足を踏み入れると、

サーカスで散々な仕打ちを受けるはめになった原因――、

“裏切り者”のリッキー・ターがソファに寝転んでいた。


「ミスター・ギラム――戻りました」


その声の末尾はギラムの耳には届いていなかった。

なんのための危険な任務だったのかと。

ターの裏切りに対するすべての怒りがギラムの手を上げさせた。

彼はターに飛びかかると、

スマイリーの指示でメンデルが彼を止めるまでターを散々殴りつけた。

ギラムの怒りは収まらない。

は黙って席を立つと、口を切ったターに向かってバスタオルを放ってやった。

結果として、ギラムが持ち帰った当直日誌が、

ターは“もぐら”によって“裏切り者”に仕立てあげられたことを証明していた。

濡れ衣だったのだ。

望みもしないのに度重なる感情の起伏の波に放り込まれたギラムの困憊は、

もはやピークに達していた。

ホテル前までスマイリーを送り届けると、

ギラムは少し休みたい、調査の続きは明日の朝からにしたいとスマイリーに申し出たが、

彼はそんなギラムに諾と答えず、青ざめた顔をしたギラムを連れて、

そのまま八号室の中に姿を消した。






新本部ではがターの傷の具合を見てやっていた。

ターも咄嗟に受け身をとったようで、口が切れた以外は軽い打撲ですんだようだ。


「そのトレーナーも着替えたら?」

「ああ見えてミスター・ギラムのパンチは結構重いね」


ターからトレーナーを引っぺがすと、

は洗面所で染み付いたばかりの血糊を丁寧に落とし始めた。


「だったらそれは<保育所>の格闘技コースのおかげね」

「俺も受けた」

「私もよ」


ふたりは声をあげて笑った。

洗面所の鏡を覗き込み、口を開いたり傷の箇所を確認したりしながら、ターは言った。


「――あの顔を見たか?真っ青だった」

「耐えてるのよ。殴ったことは私から謝るわ。

 お願いだから、今はピーターを責めないであげて」


ターは新しいシャツに袖を通しながら首を振った。


「責めないよ。俺がロシアで誤解を招く行動を取ったのは事実だ」


「それよりも」強調するように区切る。


「今は君の力が必要なんじゃないか?」


は濡れたトレーナーをたたみ、掌でぎゅうと水を絞った。


「――“今”はスマイリーの出番よ」


ハンガーに吊るし、シャワーカーテンのレールに引っ掛けると、ポタポタと雫が落ちた。


「私の出番はもう少し夜が深けたらね」














ホテル・アイレイの八号室で、煙草と酒をやりながら、

ギラムは半ば独白に近いスマイリーの過去についての話を聞いた。

通称カーラ――その当時の名はゲストルマン。

スマイリーは処遇について尋問したことがあるという。

だがゲストルマンは一度として口を割ることは無かった。

チェーンスモーカーの彼に買い与えてやった煙草は一本も手を付けられておらず、

彼はスマイリーが愛妻から贈られた刻印の入ったライターを持ち去ったまま、

モスクワへ送還されて行った。

その話が終わる頃には、スマイリーもギラムも

疲労の滲んだ身体に注いだアルコールが回っていた。

朦朧とする頭に、スマイリーの声がこだまする。


「ピーター…、今のうちに身の回りのことを片付けておけ」














恋人は男だった。ギラムは両性愛者だ。

辛くないと言えばそれは真っ赤な嘘になる。

理由は告げなかった。

帰宅すると、ただ一言「出ていってくれ」そう伝えてこの関係を終わらせることしか

ギラムには許されていなかった。

恋人は自分より十近く年上の教師だった。

大して揉めることもなく荷物をまとめて出ていったのは、

この関係に薄々終わりを見ていたか…あるいは、

これが任務によるものだと察してくれてたのか――後者は限りなくギラムの希望ではあったが。

サーカスの事情を知らぬ人間を、これ以上人生に巻き込むことはできない。

そして――いざという時には守り切れない。

自分がどうあがこうが、政府に関わりのない者はサーカスから見捨てられるのが落ちだ。

――空っぽになってしまった。

これでいい――これでいいのだ。

ギラムは彼を想って泣いた。

彼へのつぐないすら許されないことを想って、泣いた。






ギラムは眠れずに居た。

心身は一日働き詰めた農夫のごとく疲れ果てているにも関わらず、

大切な者との別れが――資料保管室とミーティングルームで味わった極度の緊張が――

あるいは<シェ・ヴィクター>の化粧室で交わしたキスが――目を冴えさせていた。

先刻八号室でスマイリーとあれだけ強かに飲み交わしたというのに、

覚めた酔いを仕切りなおそうと、ギラムはひとり孤独にスコッチを舐めて気を紛らわしていた。

ふいにチャイムが鳴り、そこでようやくギラムは壁掛け時計を確認する。

22時を回ったところだった。

今まで無音だと思っていたのがまるで嘘のように、

隣家の子供がぐずって泣いていることにようやく気がついた。

覗き穴を見ると今まで実体を失っていた自分の身体に、どくんと血の塊が流れこむのを感じた。

自分が今、とてつもなく求めていた人物が立っていたからだ。

施錠を外すと、女物の香水の香りが部屋の中へ流れ込んでくる。

ギラムがドアを押さえなから身を引くと、は微笑んで家の中へ入った。

扉を閉めると同時に、まずそこで昼間交わしたキスが夢で無かったことを確かめるように、

ふたりは激しく舌を絡め合った。もちろん夢ではなかった。

「――彼は?」

「出ていった」

腰を引き寄せ、首に腕を回し――ふたりはその瞬間、最高の調和がとれていることを悟った。

ギラムのキスが彼女の白い首筋を伝って降りてゆくのを感じて、は喘ぐように言った。


「今までサーカスの人間と寝たことないの」


彼の唇がそっと離れる。女の目はらしくもなく、しおらしく濡れて幼気に怯えていた。

ギラムは無意識に、が言葉を続けるのを助けてやろうと辛抱強く待つ態度を取ってみせた。


「ビジネスライクな関係は得意だけど、誰かと付き合っても1週間と保たない。

 最初は決まって“君に秘密があっても構わない”

 だけど最後はみんなこう言うの。“他の男と寝るのはやめてくれ”」


の乱れた髪を優しく撫でて、耳にかけてやる。


「何もかも投げ出して、辞めたくてたまらない日も在るわ。

 でもそれはサーカスに居れば当然だし、やり甲斐が勝る日もある。

 もちろんこの仕事に誇りを持ってるわ。

 だからって好き好んで身体を開いてるわけじゃない。

 人を愛したい。愛した人に愛されたい。

 私だって普通の女と同じよ、小さな頃からそう願ってるの。

 ねえピーター――こんな感情的なこと、あなたに言うべきじゃなかった?」


ギラムは明瞭に言い切った。


「君はずっとおれにそう言うべきだった」

「…あなたを慰めに来たはずだったのに」

――君を抱きたい。

 ものは試しだと思ってくれても構わない。

 どうか受け入れてくれないか。

 そうすればきっと、おれがいかに君を大切に思っているか伝わるはずだ」


の眦から涙が流れ落ち、頬に一筋の線を描いた。

諾を示すのに言葉はいらなかった。

あとはただ再び口づけから始めれば良かったのだから。











着衣を脱がせるところから全て、まるで聖女を扱うように、

丁寧に、慎重に、優しい手つきでを扱った。

かつてどんなに愛を傾けた女にも、触れるのにここまで緊張を覚えたことはない。

今まで幾多の男たちの一夜のミューズであり続けてきたも、

感じるのは期待と緊張で、そしてまた恥じらうだけで自分からは何もしなかった。

ただギラムの手に、この肢体を委ねるつもりなのだ。

神聖な儀式そのもののように思えた。

初めてじゃあるまいし――ギラムは微かに強張る指先を思って自嘲した。

彼を求めて熱を帯び、しっとりと吸い付く白い肌を撫であげ、抱きしめ、口付ける。

それらを丁寧に何度も重ねるように、繰り返し施す。互いの指を絡め合う。

彼が深く腰を沈めた瞬間、彼女は短く息を吸い込んだ。

確かめるように見つめ合って時が止まる。

は――その端正な顔をたちまちに歪めて――泣きだしてしまった。

ギラムは慌てた。なにか順序を間違ったのか、

あるい何かとてつもないタブーを犯してしまったのかもしれない。

狼狽えたギラムは同じように今にも泣き出しそうな顔でそっとの髪を撫でてやった。

一度沈めた腰が離れようとするのを下腹部に感じて、は叫んだ。


「お願いやめないで」


ギラムは戸惑った。「どうして泣くんだ」そう問わずにはいられなかった。

絞りだすような声は、彼に昔飼っていた猫を思い出させた。


「こんなに大切に抱かれたことなかったから」


彼の胸に例えようもないほどの安堵と愛しさが込み上げたのは言うまでもなかった。

腕も足も全てを絡め合って、もつれ合う男女の身体。

が声をあげるたび、ギラムの熱は更に増した。

「愛してる」ギラムは何度も繰り返した。

未知の愛しさに苛まれながら、自分の下で小刻みに震える身体を感じて、

彼女もまたその行為の絶頂が近いことを悟った。











「どんな気持ち」


に腕を預けながら甘く微笑んだ。


「嬉しくて、幸せで――ちょっぴり怖い」


ギラムは彼女の華奢な肩を抱き寄せた。汗が引いたせいか肩が少し冷たかった。


「初めて会った時のことを?」

「私はまだ20歳の小娘だった」

「サーカスの誰よりも哀しい目をしていると思った。あのコントロール以上に。

 一体どんな生い立ちを追えばこんな目が出来るのか、

 知りたくもあったし、怖くもあった。

 でも君から目を剥がすことは不可能だった。離れることも無理だった。

 かといって自分のそばに置いておくことも躊躇った。

 君は普通の女たちとは違う――特別な存在だ」


彼のふたつの目は誠実そのものだった。


「…ピーター」

「成就したと思ってもいいか」


妙にシリアスぶって見えたが、生憎これは意図的なものではなかった。


「私、ピロートークでは嘘ばかり並べてきた。

 もちろん時には本当のことも言うけれど――でも大半は嘘。

 それが私に与えられた仕事で、一番スムーズに任務をこなせるから」


「でも」ギラムの手を握る。


「感じるのよ…あなたは私の最愛そのものなんだわ。

 私が特別なんじゃない。あなたが、特別なの。

 サーカスがくれた幸運よ。大切な核なの。

 なんて言ったらこの想いが伝わるのか、いつも解らなくて悩んでた。

 だってもし、ピーターを失ったら、」


馬鹿みたいに必死に抱き締めた。


「失わないさ。

 ――があの建物であと5回クリスマスを迎えようが、

 もう迎えることなくサーカスを去ろうが。

 君が嫌なら、ハニートラップはやめたらいい。

 話したかもしれないが、おれの母親は毎日サーカスで暗号を解いていた。

 この“仕事”に、お互い区切りがついたら、そういう職種に変えてもらえばいい。

 収入が減っても気にするな。ここに住めばいい。

 もちろん君さえ許してくれるのなら、おれは君を、

 ――家族として守りたい」


イーストン・プレイスの広い自宅フラットにつかの間、安らかな夜が訪れる。

サーカスの薔薇を手に入れたギラムは、この重責を伴う任務に携わって以来、

初めて深く眠れた気がした。


















































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家族を持ったことのない彼女にとって「家族」というギラムの告白は

とても深く強い特別な意味を持っているといいですね。

さて原作ではギラムの父はフランス人ビジネスマン。

戦時中はスパイ活動によりサーカスの情報網を助け、

母親はイギリス人で暗号をいじってパズルのようなことをやっていたとあります。

ギラムの人生はサーカス無しじゃ成り立たないんだなーって。

だから嫁もサーカスで見つけたらいいなって思って。

映画ではゲイでありながら、美人を目で追う。両刀なんでしょうね。

原作では恋人含め、女性たちと遊ぶの楽しんでますしそれも若干の任務だったり。

どちらかと言えばご存知ビル・ヘイドン。

ちゃんと「両刀遣いという噂」がサーカス内にあるそうな。

ここまで読んで頂きありがとうございました!

(追記:8/30 加筆修正いたしました)

201200825 呱々音