灰色の分厚い雲に、閉塞感が込み上げる。

それは胸を蝕んでゆき、やがては嫌悪となって吐き気を覚える。

だが顔色を乱すことは許されない。

眼前に広がる生きる者たちの営みを妨げる、絶望を運ぶ厄災の竜よ。

ひどい声で啼く。

なんと耳障り極まりないことか。

足下には屍の人垣が連なり、どこもかしこも肉の焼ける臭気で満ちている。

剣を振るう力の残った者があとどれほどいることだろう。

竜は禿鷲がごとく、空をぐるぐると回り、

毅然と自らを睨みつける2人のエルフに狙い定め、

地平を覆い隠すほど大きな翼で風を巻き上げながら、彼らの前に降り立った。

埃にまみれてもなお美しく輝く金糸が、暴風に煽られる。

彼らは厄災を見据え微動だにしない。

この軍を率いる大将は、一国を生み出した君王。

もう立っているのがやっとであろう。

雄々しく一歩、竜に歩み寄る。

それに続こうとする若いエルフの名を呼んだ。


「スランドゥイルよ」


今一度しかと掌に力を込め、王は竜を睨む。


「あとは任せた」


特別な呪いを塗り籠めた剣は蒼白く、白銀の矢のように冷たく煌めく。

竜ののど元から轟々と吐き出される炎に向かって行く美しきエルフの王。


「父上!」


叫んだときには、激しい痛みと熱さが全身を走り抜けた。

彼の左半身は厄災の炎に焼かれていた。

悲鳴を飲み込んだのは、託された王の襷をまだ果たしていないと本能的に悟ったからだった。

王は死力を尽くして、渾身の一撃を振りかざし、竜ののどを覆う固い鱗を薙ぎ払う。

振り払おうとでたらめに頭を振る竜は、頭に血がのぼる。

目障りなエルフの王を踏みつけ、前の爪でえぐる。

満足を覚えた竜は虚をつかれた。

若いエルフが無防備に柔らかなのどをかき斬る。

それでは足りぬと言わんばかりに、彼はからだを竜にねじ込み皮と肉を切り裂いて行く。

竜が悲鳴をあげようにも、とうに遅かった。

首を断ち切られた竜は、重たい骸をうねらせ横たえ、絶命した。

竜の体液にまみれたまま、彼は横たわる父王に駆け寄った。

父のあれほどまでに美しかった面相はほとんど原型をとどめず溶けていた。

スランドゥイルは慟哭した。

父の亡骸をたぐるように抱きしめて哭いた。

喉から血が溢れても、彼はこの絶望と怒りを吐き出しきれないだろう。

焼け爛れた肌を、涙が雪ぐことすら、何事にも例えがたく虚しかった。

父の屍を抱きかかえ、彼は安息の地――父の創り賜うた国へと戻って行く。

勝利したにも関わらずそこに歓びはなかった。

誰も彼もが肩を落とし、からだを引きずるようにして雨の森に姿を消す。

想う。

ただ一人、誰よりも彼を慰める小さな命。

あの赤子も彼と同じく、親の死を代償に生き延びたのだ。

それには必ずや意味がある。

――。

その存在が自ら教えてくれることだろう。

この国の尊い未来を何としても勝ち取らねば。

犠牲になり先立っていった者たちの魂を決して無駄になどしてなるものか。

炎の海を生き延びて、やっとの思いで国に帰り着いたスランドゥイルは、

まだ無垢のおくるみに包まり夢の海を泳ぐを抱きしめ、やはり静かに涙を流した。

だが戦場で流した涙とはどこか違った。

幼子の名を呼べば、死にかけたこの身も心も春のごとく蘇ってゆく気さえした。

あどけないふっくらとした手が、

スランドゥイルのただれた頬をぺたぺたと慰撫する。


「安心してよい――見かけほど痛くない」













ただれはエルフの魔法を用いた医術で清められた。

しかしエルフの力を持ってしても、それはとても困難な治療には違いなかった。

悪しき炎で負った瑕は、完全な治癒には至らない。

スランドゥイルは生涯その身に苦痛を伴う。

彼のエルフとしての高い能力を持ってこそ、

以前と変わらぬ完璧な容姿を保っていられるが、

彼の心が悪夢に苛まれるとき、彼の輪郭は揺らぎ己を見失いそうにさえなる。

葡萄酒はつかの間の安楽を齎す薬に代わり、

サウロンの気配を完全に排せず暗がる森は《闇の森》として栄えた。

富と権力の象徴は、物質となって闇を照らし王を慰めた。

国の繁栄の兆しを得るため、若王は妃を娶った。

同じく金糸の美しい由緒正しき血統のエルフだった。

幼少より面識があった分、慈しむには十分すぎるほど最適な伴侶であった。

子を成し、ようやくすべてが順風満帆に動き出したかのように思えた。

王は息子に《レゴラス》という緑葉の名を付けた。

頬を染めながらゆりかごを眺めるに、王と妃は言った。


「レゴラスを弟のように可愛がりなさい」


こうしてに初めて《片割れ》が生まれた。

は誰よりも丁寧にレゴラスの面倒を見、よく可愛がった。

だがそんな歓びをよそに、領地の外から確実に森は病んでいくようだった。

スランドゥイルは亡き父と同様に、サウロンの復活を確信し、脅え、

その考えが頭の片隅に常に付きまとって彼を悩ませた。

腹を空かせた邪悪なクモの群れが、

度々エルフや森に生きる生き物たちを求めて這い回っては現れる。

そのたびにスランドゥイルはその群れを徹底的に潰した。

自分の領地に下賎な輩が蔓延ることを、彼は一縷も良しとしなかった。

血は繋がらずとも、娘のように庇護し大切に育ててきたは、

相変わらずスランドゥイルによく懐いた。

自分を救った者が誰であるか理解っているかのようだった。

スランドゥイルにとっても、は希望の象徴だった。

自分がこの腕で死の淵から取り上げ、それを絶望から護ることで、

痛んだ魂が救われる気さえする。

同じくレゴラスは母親に甘えすがる年頃で、この日も王子は妃に手を引かれ、

幾人かの供を連れ森を散歩していた。

王は屋敷に残り、執務の傍らにを置き公務に勤しんでいた。

仕事の邪魔をしたら部屋から出されると知っていることもあってか、

は分厚い本を開いて黙ってそれを読みふけっている。

子供ながらにそんな風に真剣ぶって見せるものだから、

スランドゥイルの頬も自然と緩んだ。

午後の貴重な日が差し込む。

穏やかな空気を裂くように、近衛隊長が青ざめた顔で執務室に駆け込む。

そして震える声で妃の訃報を告げた。

迷い込んだ大グモの毒爪にやられたと――その一言に王は激高した。

立ち向かって行ったというレゴラスは、寸でのところで護衛に助けられたと言う。

癒しの時は無情にも、彼の腕をすり抜けてゆく。

彼はまたしても愛する家族をひとり喪った。

両の手に忘れ形見の子らを抱え、彼は一層深く心を閉ざしていった。













スランドゥイルは苛立ちの捌け口を求めるように、以前にも増して尊大に振る舞った。

毅然とした王であらんと努めるのは、ひとえに王子のためだった。

自分がそうであったように、後継は父の背を見て育つものだ。

俗にまみれたエルフの王と呼ばれようが、

自国の民は王の二本の腕で護られていることに深い信頼を寄せている。

それこそが何よりも重要だった。

夜ごと宴は繰り返される。

理由は何でも良かった。

美酒を飲み干せば、頭をもたげる不安からいくらか解放される。

研ぎ澄まされた感受性を麻痺させる手段だった。

いつしかとレゴラスは立派な青年に成長した。

息子のなかに、亡き妃の面影がありありと見て取れる。

反して、にはやはり血の繋がりがないせいか、甘く見蕩れることが増えた。

もとより当時からは、一度も王を「父」とは呼ばなかった。

自然と線引きする様を、彼女なりの賢さと思ってきた。

スランドゥイルに限ったことではない。

従者や兵士たちの目は、美しいまだら髪の乙女を追わずにはいられない。

は自らも気付かぬうちに、国を覆う悲しみの癒し手であった。

ことスランドゥイルにとっては、妃を亡くしてからの《治癒》を担っていた。

にとってはまるで呼吸するのと同じように、

あえて意識するまでもないほど当然の役でしかなかった。

それを役目と認識することもなく――。

はいつも感じていた。

スランドゥイルにまとわりつく闇を。

彼を飲み込もうととぐろをまく黒い火に、もうずっと心を蝕まれている。

王は王で在らんとする。

だがひとたびすれば、過去の亡霊が彼を暗い闇の記憶へ引きずり込もうと牙をむく。

スランドゥイルは王としての輪郭がぶれることを何よりも恐れていた。

には彼の声にならぬ悲鳴がよく聞き取れた。

聡いと言われ育ったが、それはすべてスランドゥイルのための能力だった。

スランドゥイルは昔から好んでのことを《春の詠い手》と呼んだ。

活発な春を意味する己の名を奮い立たせるように。

春が孤独に哭かぬよう、芽吹きと慰めの言葉を投げかける。

















スランドゥイルは二千年分の夢を視た。

エルフの夢の崇高さと同時に、彼ほどおぞましさを理解するものはそういないだろう。

歓びの時をも一瞬で奪いさってしまう。

愛する者を喪った記憶が今まさに彼を内側から蝕み、

どろどろとした感情に身も心も引き裂かれそうになる。

――絶望を早く遠くへ押しやらねば!

だがそれでは手遅れだった。

竜の炎に焼かれた左半身に鋭い痛みが走る。

顔がただれ落ちるようにうずく。

閉じ込めておけない激痛が皮膚のうえを這いずり回る。

何度となく悪夢に心を打ちのめされる。


「っ…ああ、ああ」


――助けてくれ。

何もかも喪うというのか。

たまらない。

希望がなければ、私は。



輪郭を保てない。


「ここに、」


まだら髪の乙女は膝を折り、苦しむ王に寄り添う。


はここにおりますわ――スランドゥイル様」


そっと手をにぎり、ただれを隠すように金糸で覆われた顔を覗き込む。

彼女は王の瞳を探していた。

彼も春の瞳を求めていた。

ぴたりとかち合う。

時が止まる。

もちろんここには以外、誰もいない。

従者が聞きつけて彼女を呼んだ訳ではない。


「あなたに呼ばれた気がしたのです」

「――そうだ」


安堵の溜息にも似た声はかすれていた。

従者はおろか、レゴラスとて知らぬ、これは秘め事。


「お前は――私の春」


血の気の失せた白い指先が、ほんのりとバラ色に咲くやわらかな頬に触れる。

指先に感じる淡い熱が、痛みをにわかに軽くする。

は味わうように頬をすり寄せる。

今度は返すように、乙女のうっとりとした指先が、やさしくただれにのばされた。

スランドゥイルは味わうように目を閉じる。

からだの最奥からよどみなく立ち上る生気を感じる。

見失っていた己の輪郭を憶いだす。

繋ぎ止めるように彼女の掌が頬を撫ぜる。

慰撫が背を押し、彼は王の輪郭を再び取り戻す。

瞼を持ち上げれば、もう悪夢は遠くへ去っていた。

左頬のただれはその片鱗さえ見当たらない。

スランドゥイルは確かめるように自らの頬をひと撫でした。

碧い瞳に力強さが戻ってゆく。

はだけた夜着のしたで息を潜めていた、狂おしい馨りがたちのぼる。

逞しい胸元に目を奪われ、は己の恥に怯え目を逸らした。


「……


名を呼ばれたは、身を引き一礼すると、部屋を出て行こうと踵を返す。

だがスランドゥイルに腕を掴まれ、それは叶わない。


……愛しい春の名よ」


乙女は華奢なその背に熱を感じる。

まるで包み込むように二本の腕がからだの前で結ばれる。


「お前の魂の色あいが、何度でも私を慰める。

 もう目を背けることは叶わない。

 はどうだ――魂の声はなんと言っている――」


細い喉の奥で声がつかえて息苦しい。

幼い頃より胸の内で煮詰めてきた切ない想いが、出口を求めて暴れ狂う。


「私の魂は愚直だ。

 もがけばもがくほどを求める」


哀切な独白だった。

すがりつくように乙女のからだを抱きしめる。

やわらかく食い込む腕が、往年の関係に終止符を打つ。

はスランドゥイルの腕のなかで、己の身体をとかしつくそうとする熱さを感じていた。

震える喉よ。

いまこの瞬間を恐れてはいけない。

秘めた春よ。

歓びのうちに呼吸を忘れてはいけない。

つかえを吐き出せ。


「――あの日より」


息苦しい死の戦場で、生まれたばかりの赤子を抱き上げてくれたあなた。

儚く弱々しい命のために、一筋の涙を流してくれたあなた。


「生涯あなた様をお慕いすると、わたくしの魂は識っておりました」


こんなにまで己の運命を痛めつけて尚、いばらの園で耐え続ける我が王よ。

なんと痛ましく、誇り高い。


「愛しております、スランドゥイル様。

 この想いはきっと、あなたの悪夢より深く。打ち勝つほどに」


とけあうように互いの腕を預け、ただ抱きしめ合い、

小さな明かり取りの窓からのぼり行く朝日を眺める。

鬱蒼としたこの森にも、必ず朝は訪れる。


「私はお前を護る。

 そしてこの国を。民を。

 お前に見届けてほしい――我が永久の命が続く限り」

「わたくしの魂はいつも、あなたと供にありましょう」


2本の木が互いの身体を寄り添わせ、日の光を求めて上へ上へと真っ直ぐ伸びる姿に似ていた。



















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映画版ばっかりで実際はどうなんだろう。
細かいご指摘あるとは思いますが、眉毛王にご執心。ご容赦ください。
ああ見えて2本の腕で色んな者を抱きしめ、見送ってきたのだろうなあ〜とか思ってみたり。
喪うことへの脅えがあるのは、経験したことがあるからですよね、きっと。
父親の名誉のため、父が竜を殺めたことにしてるとかだったら美味しいなあ。やりすぎかな。
全然関係ないですが、スランドゥイルが妻を亡くしたバルドに同情して
船頭の仕事与えてたらクソ萌えるなあって思いました。

20140812 呱々音