かつて古の時代、北の港に住まうエルフの小さな国があった。

ひっそりと海に佇むガラスの門に絡み付く刺草の装飾は、悠久の反映を象徴していた。

エルフの中でも際立って少数の血筋だった。

まばゆい雪原の如き白髪と、鴉の濡れ羽根とも見紛うほどの黒髪を持ち合わせた

《まだら髪》の美しき一族は、その物珍しさからも数を減らし、しかし常に幻の代名詞だった。

黒曜の国は第二記の波乱の戦いのうちに戦火に呑まれた。

オロフェアの出した援軍が三日三晩眠らず冬山を越えて辿り着いたときにはもう、

北の港の黒曜の国は、まるでえぐり取られたように跡形もなく焼き払われていた。

この時援軍を指揮していたのが、オロフェアの子息スランドゥイルである。

忌避すべき血肉と殺戮の無惨な香りは一生忘れられない。

しかし生き延びた者がいたということを、後に思わぬ形で知ることとなる。

海に逃げた黒曜の王女と側近は、それでも後方よりサウロンの軍船に追われていた。

抵抗虚しく追いつかれ、船の上で虐殺は行われた。

冷たい波風に押し戻されるように、港には赤く染まったエルフの船が流れ着く。

スランドゥイルはこの時、あれに確かに呼ばれたと自負している。

援軍を引き上げようとしていたスランドゥイルは、耳聡いものを感じ、

数人の供を連れ今一度港に足を向ける。

すると今まさに戻ったばかりであろう王女と側近たちの骸を乗せた船が、

物悲しく波間に揺れていた。

王族を手厚く弔う義務以上の胸騒ぎを感じ、

スランドゥイルは折り重なるように横たわる亡骸をひとつひとつ丁寧に引き上げさせると、

惨状の船に自ら足を掛け、王女が腹で這うように息を引き取っていた場所を気にした。

船底にはエルフにしか解らぬ隠し扉があった。

エルフの言葉に板間が浮き出る。

スランドゥイルは夢中でその小さな収納庫を開けた。

灰色のローブが弱々しく動いている。

両の手でそっと取り上げた時には、すでにもう強く確信していた。

くるまれていたのは女王の忘れ形見。

たった今さっきこの惨劇の渦中に生まれたばかりであろう、小さな命。

赤ん坊は泣きもせず、母親の香りのするローブにくるまれ、

息を潜めて助けが来るのを待っていたのだ。

今にも潰れてしまいそうな命を腕に抱え、スランドゥイルの瞳から一粒の涙が落ちた。


「そなたを決して死なせてなるものか」











悲劇の渦中から唯一助かった黒曜の国《まだら》の一族の末裔は、名をと言う。

亡き女王の付けた尊い名だ。

北の港からを連れ帰ったスランドゥイルは、それこそガラドリエルなど

限られた者にしか生き残りの話を報せず、自国で大切に保護し育てることを約束した。

成長するにつれ、その聡明な個体は清らかな意志を持ってゆく。

白黒、色の違う羽根を重ねてゆくように、見事に織りなされるまだら髪は、

彼女の同胞の喪われた美しさそのものを体現していた。

スランドゥイルは過保護なまでにに心を砕く自分に恐れさえ感じ、

しかしながら心のどこかではそんな自分に満足さえ覚えていた。

新王となり妻を娶り、愛する我が子が産まれるも、その妻さえ不幸にも先立ってしまう。

疲弊する彼を支えるのはレゴラスと名付けた愛する息子と、

息をのむほどの美貌を纏って甘く成長してゆくの存在であった。

最後の同盟の戦いでサウロンを滅ぼした後、闇の森の国民の数も増えた。

長年の平和を享受できたスランドゥイルの民は、第三紀がもたらす世界の変化のために

完全に心を休ませることができなかった。

こと闇の森の王は、南の方角を望むたびにサウロンの再度の勃興を予感して脅えていた。

それは冷たい表情と立ち振る舞いの下で、静かにざわめいて彼を痛めつけた。

亡き父オロフェアを憶う。

サウロンを滅ぼさない限り平和は訪れないという先見の明を持っていた。

それに倣うことも当然と言わんばかりの苦痛を辛酸を、あの戦いで嫌という程味わった。

スランドゥイルの頭には常に、これがつかの間の平穏であることを忘れるなと警鐘が鳴る。

夜な夜な葡萄酒を空け、美しき宝石を手の届く所に置かずにはいられないのも、

それは彼の抱える重責と、闇の森の多くの国民を、

まやかしの指輪に頼らずこの手で守り抜くという強い志の齎す反動なのやもしれぬ。

今宵も酒宴が催される。

酒で満たした絢爛な杯が並ぶ。

一瞥しただけでも解る。

煌びやかなその席にの姿が無いことで、闇の森の王はその美しい眉を歪める。


「レゴラス」

「探してきます」


不機嫌に名を呼ばれただけで、父の望むものが痛いほど汲み取れる。

表情を少しも乱さずに、レゴラスはこの場を後にする。


「頼むからいつもの場所にいてくれよ」


石灰洞を上へ上へと上って行くと、青い水を止めどなく湛える泉のくぼみに辿り着く。

明かり取りとして申し訳程度に細く伸ばされた外界への窓は、しっかりと空を仰いでいて、

白い月の姿をなんとか見ることが出来た。 は月光にそのまだら髪を輝かせながら、泉の淵に腰掛け、

真っ白な細腕を緩やかに動かし、指先を水に泳がせていた。

レゴラスがいつもの場所と呼んだのも無理はない。

それは彼女の日課となっていた。

レゴラスにとってもは、自分とそう歳の変わらない姉のような存在だった。

一緒に育ったのだ。彼女の孤独や考えは痛いほどよく解る。


「父上が待ってる」


は顔を上げる。

相手を射抜くような紫に輝く黒い瞳は、悲しみを訴えて来る。

今日ばかりはレゴラスとてその気持ちにも同情を禁じ得ない。

日々共に鍛錬に励んできたこの美しき片割れは、

父に――否、王に近衛隊への入隊を拒否されてしまったのだ。

つい先刻、昼間の出来事である。


「拗ねる気持ちは解らないでもないよ」

「レゴラスにはちゃんと役目があるんですもの。羨ましい」

「役目?」


青い瞳を不思議そうに細める。


「ええそうよ。王子という重要な役目が。

 ――私には何も無い。何者でもない。

 自分が誰か、何の役目を演じるために生まれて来たのか、未だに視えない」


近衛はの行き着いた最上の答えだった。

それでなくても、彼女の武術はなかなかの腕であり、

レゴラスやあのタウリエルをも凌ぐ部分を持ち合わせている。

レゴラスは、を階下に連れ戻す術を持たなかった。

声を掛けるべきは自分ではなかったからだ。

この問題を説く者――スランドゥイルは深紅の液体を見つめながら、

独りで戻ったレゴラスの言葉を耳だけで聞き届けた。


「行き場を無くして苦しんでいるようです」

「……いつもの場所か」

「ええ」


スランドゥイルが気怠げな仕草でひらりと手を掲げる。

今宵の宴の終焉を意味していた。
















あの日、母親の形見のローブにくるまったをこの腕に抱いてより、

スランドゥイルは片時も目を離さず、側に置き、寵愛してきた。

を守るためならば、どんなことでもしようと心に誓った。

それが例え卑劣な嘘であろうと、他の者から微塵も理解されぬ手段であろうと。

スランドゥイルは自らの役目を果たすため、

の居るいつもの場所と呼ばれる場所へ回廊を上って行く。

ドワーフとは違う、この自然の生み出したまろやかで荘厳な石灰洞は、故郷に似せて手を入れた。

スランドゥイルはいつだって自分の要望を強く持っている。

そしてそれを全うするためならば、どんな犠牲もいとわない。

そんな姿が、多くの民を抱える者としては、

いささか同族からは変わり者とも呼ばれる所以なのかもしれない。

高貴な容姿からは想像もできぬ程の危機を見てきたせいもあるのだろう。

父王の代よりサウロンの恐怖を目の当たりにしてきた彼にとって、

備えや心構えは何より重要だった。

エルフ然としたのほほんとした生活を送ることは、とうに叶わなくなっていた。

階段を上りきると、衣擦れの音に振り返ると目が合った。

良い知れぬ幸福が冷たく春を閉ざす心にわき上がる。

そうであっても、スランドゥイルは表情を変えることなく悠然とに歩み寄る。

しかし彼女に向けるその瞳は、いつどんな時でもどこか優しい。


「今宵の宴を台無しにしてくれたことへの言い訳を訊こうではないか」


そんな言葉の片隅に、微笑みの影を感じて、もまた胸の奥をうずかせる。


「スランドゥイル様にお尋ねしたいことが」

「申してみよ」


促す言葉に、いつもの尊大さは含まれていなかった。

に倣って泉の淵に腰掛ける。

親身に案じる親代わりに違いないのだと、は改めて実感する。

そういう機会は昔に比べれば大分減ってしまった。

年齢を重ねればそれだけ公務を共にする時間が増える――それは仕方のないことだ。

互いの瞳を見つめ合う。


「なぜ――なぜ近衛隊への入隊をお禁じになったのです。

 私もこの国の役に立ちたいのです。

 異端のエルフであるわたくしを受け入れてくれたこの国の、あなたのお役に」


の瞳から雨粒がはらはらとこぼれ落ちる。

それはまるで星屑を模した宝石のようで、スランドゥイルに思わず手を伸ばさせた。

そっと頬を包んでやる。

いつだってこの娘は、美しく運命に耐えて魅せる。


「わたくしは何者でもない。

 祖国を喪い、一族を喪い、だからこそお役目が欲しい。

 このままではわたくしの輪郭までもが曖昧になり、

 自分を喪ってしまいそうで怖いのです」


が外界を見たいと願えば、スランドゥイルは迷わずこう諭して来た。

「異端児であるお前を受け入れてくれる世界は、この闇の森しかあり得ない」のだと。

が唄えば「お前の声は人を惑わすからいけない」と。

が泣けば「その涙は宝石にも勝るのだから他の者の前で見せてはいけない」と。

彼女にしてみればあらゆることをスランドゥイルに禁じられてきた。

それでも諦めずに鍛錬を積み、今ようやく自らの役目を勝ち得ようと勇むも、

やはりそれすらも禁じられてしまう。

ここまでされてもスランドゥイルを恨む気持ちが湧いてこないことも、

彼女にとっては不思議でならなかった。

それというのにも理由があることを、いつしか知ってしまったから――。

彼は王として、言わば唯一無二となったこの血筋を護る責務を負っているのだ。

実際、このまだらの髪を差別するのはドワーフくらいなもので、

エルフにおいては珍種でこそあれ、以前にも増して幻を意味し崇拝さえされることもある。


「相変わらずおかしなことを言うのだな」


スランドゥイルは差し出していた手を引き込める。


「お前はその一族に恥じぬほど立派なエルフに育った。

 私が真実と嘘で過剰に庇護の檻に縛り付けたというのに、いつだって真っ直ぐに。

 ――役目?役目ならもうとっくにあるではないか。

 そして全うしている。十分すぎるほど。

 だがそれでも私はまだ到底満足できぬ――まだまだお前は美しくなれる」


そこに居るのは王でも、養父でもなかった。


の魂の色あいが、私を慰める」


哀切な言葉の断片が、の心を優しくえぐる。

彼は音も無く立ち上がる。


「この腕に小さなお前を抱いた瞬間より、役目は決まっている。

 そして驚くべきことにお前は日々その役目を果たしている。

 として今までもこれからも私の側に居ればよい」


欲――確かにこれは欲だ。

それも呪わしくも原始的な欲。

だが彼にとっては崇高な愛そのものだった。

物珍しいまだらの髪など霞むほどに、宝飾品を集めれば、秩序を保てる気さえした。

息子に向ける愛しさとも明らかに違うこの想いの矛先を、

どこに向けて良いのか答えを求める一方で、理解を頑なに拒む己もいる。

それで良かった。

根本的に人間とは違う。

なぜならばエルフには遥か永い時間が存在するのだから。

いつの間にかはスランドゥイルにすがるように立ち上がっていた。

彼女の瞳は、月も、泉も見ていなかった。

ただひとり孤独な王位を背負う男を見ていた。

冠を被らぬ今、重力に従順になめらかな金糸の髪は肩を覆い、憂いを帯びた頬に溢れる。

衰えることを知らぬ威厳を湛える躯体も、ただの小娘を案ずることに砕かれている。

うぬぼれとは百も承知で、は思う。

スランドゥイルという男は、彼女のために実はとても多くのものを捧げて来たのではないか。


「こんな葦毛のわたくしを……あなたは尚も求めてくださるのですか」

「くどい」


柔らかく手首を引かれる。

頬に熱を感じたときにはもう、はスランドゥイルの胸に抱かれていた。

わき上がる感情は、自然と安堵だった。

生きて行く場所をあえて探すまでもなかった。

この世に生まれ落ちた瞬間より、居場所は決まっていたのだ。

スランドゥイルは慰められると言うが、それはにとってもまた同じことだった。

彼に救われ、慰められる。

そっと瞼を閉じれば、泉の音がこだまする。

それは見知らぬ故郷の港さえ思い起こさせるほど心地の良いものだった。

身体を逞しい腕に預け、ただただこの瞬間が永遠に続くことを願わずにはいられなかった。



















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「まだらの髪などまるで珍しくない」くらい宝石を集めたら、
例えオークや下賎の輩が攻めて来ても、彼女を守る猶予くらいは確保出来るのでは、とかね。
そこまで考えてるかはさておいても、ただの尊大な欲王と思ったら大間違いかなって。
引きこもりとは言えそこはエルフの中でも特に永く続く一国の王ですから〜。
諸説ございますがスランドゥイルの名の意味は「快活な春」だったらいいなあ。

20140809 呱々音